2019年9月22日(日) 主日礼拝
聖書:ヨハネによる福音書 4:13〜22(新共同訳)
イエスは、名も知れぬ一人の女性と出会うために、サマリヤのシカルという町に来られました。イエスは旅に疲れ果て、ヤコブの井戸と呼ばれる井戸のそばに座り込んでしまわれました。ここにある女性が水を汲みに来ました。時は昼の12時頃です。
イエスはこの女性に「水を飲ませてください」と頼みます。ここからイエスとこの女性の会話が始まります。イエスはこの女性に「生きた水」「永遠の命に至る水」を与えることができると伝えます。するとこの女性は、イエスが言った意味を誤解して「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」と頼みます。
するとイエスは突拍子もないことを言われます。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」何をどう考えたら「水を飲ませてください」という話が「あなたの夫をここに呼んで来なさい」となるのだろうかと思います。
しかし彼女は答えます。「わたしには夫はいません。」するとイエスは言います。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
これはどういうことでしょうか。彼女は5回離婚したのでしょうか。その中には死別もあったのでしょうか。
ここで「夫」と訳された言葉は、「男」と訳することもあるので、この女性は娼婦ではなかったかという意見もあります。しかし「今連れ添っているのは夫ではない」という文では「夫」と訳するのが適当ですから、他も「夫」と訳するのが適当です。ですから彼女は娼婦ではありません。
彼女は離婚あるいはその内に死別も含まれるかもしれませんが、5回別れを経験して、今は結婚という手続きをせずに同棲している訳です。
約2,000年前の地方の町です。おそらく町の人は皆、彼女のことを知っているのです。彼女は噂の種であり、彼女が姿を現すと視界の端で見られながら「ほら、彼女よ」と言われる声が聞こえるようなところを歩いてきました。だから彼女は、他の人がいそうな朝には水を汲みに行かず、誰もいないであろう昼日の中水を汲みに行ったのです。
彼女はイエスの言葉を聞いて呆然としました。イエスとは初めて会いました。サマリヤの人ではなく、ユダヤ人です。この町で見かけたこともありません。何でこんなに自分のことを知っているか分かりません。
彼女は呆然としながらある思いが浮かびます。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」
イエスが言われた「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」というこの事実は、彼女の最も辛い痛みでした。
人は理由を知りたがります。彼女は考えます。自分の何がいけなかったんだろう。自分には縁がないんだろうか。自分は必要とされないんだろうか。わたしは神さまに嫌われているのだろうか。自分の存在を否定するかのように、この事実が彼女にのしかかってきます。
それを、初めて会ったこの人は知っていた。この人は一体誰だろう。こんなにもわたしのことを知っているなんて。もしかして、この人は預言者なのだろうか。神がわたしに預言者を遣わしてくださったのだろうか。神なんていてもいなくても同じ、わたしにはいいことは何もない。そんな風に思ってきたけれども、神はわたしに預言者を遣わしてくださったのだろうか。神はわたしを知っておられるのだろうか。わたしを顧みていてくださるのだろうか。
様々な思いが彼女の内を駆け巡ります。そして彼女は、この預言者かもしれないユダヤ人に尋ねます。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
預言者かもしれないユダヤ人。自分の一番の苦しみを知っているユダヤ人。誰も理解してくれないわたしの痛みを知っているユダヤ人。もしかしたら、ユダヤ人の言うことが正しくて、間違った仕方で礼拝していたから自分にはいいことがなかったのだろうか。ユダヤ人の言うとおりエルサレムに礼拝に行けば良いことがあったのだろうか。彼女の思いはどこまでも自己中心的です。
けれどイエスは彼女を知っています。自分のことしか考えられないほど苦しんできたこと、孤独だったことを知っています。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」どこまでも自己中心的であり、迷信的な求め、願いです。
しかしイエスは、彼女と出会うためにここに来られました。疲れてへたり込んでしまってまで、彼女との出会いを求められました。
イエスは言われます。「婦人よ、わたしを信じなさい。」この「婦人」も「女」と訳される単語です。最近の訳の多くは「女よ」「女の人よ」と訳しています。
イエスは言われます。「わたしを信じなさい。」イエスは、自分の境遇の理由も分からず、自分のことを考えると混乱してしまうこの女性の前に、ただ一人信じられる存在として立ってくださいます。真の神の許に立ち帰り、救いを受け取ることができるように、自らが信じられる者、よき羊飼いとなってくださいました。彼女と出会うために、疲れてへたり込んでしまう弱さを負ってまで人となり、来てくださいました。
イエスは、この女性と同じくわたしたち一人ひとりのことも知っておられます。その苦しみを、悲しみを、痛みを知っておられます。そしてわたしたちに救いをもたらすために来てくださいました。わたしたちの命と存在の源である神を知ることができるように、人となり、自らが信じられる者となって来てくださいました。
わたしたち一人ひとりに、このイエス キリストとの出会いが必要です。そのために神は、キリストの体である教会をお建てになり、教会の礼拝においてイエス キリストと出会えるように導いていてくださいます。どうかこの教会において、イエス キリストと出会う喜びが満ちていきますように。神が求めておられるすべての人のための教会として開かれ用いられていきますように。
ハレルヤ
父なる神さま
主がわたしたちを知っていてくださることを感謝します。主は、わたしたちを知って失望するのではなく、救いを与えるためにわたしたちの許に来てくださいます。どうかこの教会においてイエス キリストと出会うことができますように。キリストの御手から救いを受けることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:ヨハネによる福音書 4:13〜22(新共同訳)
イエスは、名も知れぬ一人の女性と出会うために、サマリヤのシカルという町に来られました。イエスは旅に疲れ果て、ヤコブの井戸と呼ばれる井戸のそばに座り込んでしまわれました。ここにある女性が水を汲みに来ました。時は昼の12時頃です。
イエスはこの女性に「水を飲ませてください」と頼みます。ここからイエスとこの女性の会話が始まります。イエスはこの女性に「生きた水」「永遠の命に至る水」を与えることができると伝えます。するとこの女性は、イエスが言った意味を誤解して「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」と頼みます。
するとイエスは突拍子もないことを言われます。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」何をどう考えたら「水を飲ませてください」という話が「あなたの夫をここに呼んで来なさい」となるのだろうかと思います。
しかし彼女は答えます。「わたしには夫はいません。」するとイエスは言います。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
これはどういうことでしょうか。彼女は5回離婚したのでしょうか。その中には死別もあったのでしょうか。
ここで「夫」と訳された言葉は、「男」と訳することもあるので、この女性は娼婦ではなかったかという意見もあります。しかし「今連れ添っているのは夫ではない」という文では「夫」と訳するのが適当ですから、他も「夫」と訳するのが適当です。ですから彼女は娼婦ではありません。
彼女は離婚あるいはその内に死別も含まれるかもしれませんが、5回別れを経験して、今は結婚という手続きをせずに同棲している訳です。
約2,000年前の地方の町です。おそらく町の人は皆、彼女のことを知っているのです。彼女は噂の種であり、彼女が姿を現すと視界の端で見られながら「ほら、彼女よ」と言われる声が聞こえるようなところを歩いてきました。だから彼女は、他の人がいそうな朝には水を汲みに行かず、誰もいないであろう昼日の中水を汲みに行ったのです。
彼女はイエスの言葉を聞いて呆然としました。イエスとは初めて会いました。サマリヤの人ではなく、ユダヤ人です。この町で見かけたこともありません。何でこんなに自分のことを知っているか分かりません。
彼女は呆然としながらある思いが浮かびます。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」
イエスが言われた「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」というこの事実は、彼女の最も辛い痛みでした。
人は理由を知りたがります。彼女は考えます。自分の何がいけなかったんだろう。自分には縁がないんだろうか。自分は必要とされないんだろうか。わたしは神さまに嫌われているのだろうか。自分の存在を否定するかのように、この事実が彼女にのしかかってきます。
それを、初めて会ったこの人は知っていた。この人は一体誰だろう。こんなにもわたしのことを知っているなんて。もしかして、この人は預言者なのだろうか。神がわたしに預言者を遣わしてくださったのだろうか。神なんていてもいなくても同じ、わたしにはいいことは何もない。そんな風に思ってきたけれども、神はわたしに預言者を遣わしてくださったのだろうか。神はわたしを知っておられるのだろうか。わたしを顧みていてくださるのだろうか。
様々な思いが彼女の内を駆け巡ります。そして彼女は、この預言者かもしれないユダヤ人に尋ねます。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
預言者かもしれないユダヤ人。自分の一番の苦しみを知っているユダヤ人。誰も理解してくれないわたしの痛みを知っているユダヤ人。もしかしたら、ユダヤ人の言うことが正しくて、間違った仕方で礼拝していたから自分にはいいことがなかったのだろうか。ユダヤ人の言うとおりエルサレムに礼拝に行けば良いことがあったのだろうか。彼女の思いはどこまでも自己中心的です。
けれどイエスは彼女を知っています。自分のことしか考えられないほど苦しんできたこと、孤独だったことを知っています。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」どこまでも自己中心的であり、迷信的な求め、願いです。
しかしイエスは、彼女と出会うためにここに来られました。疲れてへたり込んでしまってまで、彼女との出会いを求められました。
イエスは言われます。「婦人よ、わたしを信じなさい。」この「婦人」も「女」と訳される単語です。最近の訳の多くは「女よ」「女の人よ」と訳しています。
イエスは言われます。「わたしを信じなさい。」イエスは、自分の境遇の理由も分からず、自分のことを考えると混乱してしまうこの女性の前に、ただ一人信じられる存在として立ってくださいます。真の神の許に立ち帰り、救いを受け取ることができるように、自らが信じられる者、よき羊飼いとなってくださいました。彼女と出会うために、疲れてへたり込んでしまう弱さを負ってまで人となり、来てくださいました。
イエスは、この女性と同じくわたしたち一人ひとりのことも知っておられます。その苦しみを、悲しみを、痛みを知っておられます。そしてわたしたちに救いをもたらすために来てくださいました。わたしたちの命と存在の源である神を知ることができるように、人となり、自らが信じられる者となって来てくださいました。
わたしたち一人ひとりに、このイエス キリストとの出会いが必要です。そのために神は、キリストの体である教会をお建てになり、教会の礼拝においてイエス キリストと出会えるように導いていてくださいます。どうかこの教会において、イエス キリストと出会う喜びが満ちていきますように。神が求めておられるすべての人のための教会として開かれ用いられていきますように。
ハレルヤ
父なる神さま
主がわたしたちを知っていてくださることを感謝します。主は、わたしたちを知って失望するのではなく、救いを与えるためにわたしたちの許に来てくださいます。どうかこの教会においてイエス キリストと出会うことができますように。キリストの御手から救いを受けることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン