聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 4:13〜22

2019-09-22 21:15:41 | 聖書
2019年9月22日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 4:13〜22(新共同訳)


 イエスは、名も知れぬ一人の女性と出会うために、サマリヤのシカルという町に来られました。イエスは旅に疲れ果て、ヤコブの井戸と呼ばれる井戸のそばに座り込んでしまわれました。ここにある女性が水を汲みに来ました。時は昼の12時頃です。
 イエスはこの女性に「水を飲ませてください」と頼みます。ここからイエスとこの女性の会話が始まります。イエスはこの女性に「生きた水」「永遠の命に至る水」を与えることができると伝えます。するとこの女性は、イエスが言った意味を誤解して「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」と頼みます。

 するとイエスは突拍子もないことを言われます。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」何をどう考えたら「水を飲ませてください」という話が「あなたの夫をここに呼んで来なさい」となるのだろうかと思います。
 しかし彼女は答えます。「わたしには夫はいません。」するとイエスは言います。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」

 これはどういうことでしょうか。彼女は5回離婚したのでしょうか。その中には死別もあったのでしょうか。
 ここで「夫」と訳された言葉は、「男」と訳することもあるので、この女性は娼婦ではなかったかという意見もあります。しかし「今連れ添っているのは夫ではない」という文では「夫」と訳するのが適当ですから、他も「夫」と訳するのが適当です。ですから彼女は娼婦ではありません。
 彼女は離婚あるいはその内に死別も含まれるかもしれませんが、5回別れを経験して、今は結婚という手続きをせずに同棲している訳です。
 約2,000年前の地方の町です。おそらく町の人は皆、彼女のことを知っているのです。彼女は噂の種であり、彼女が姿を現すと視界の端で見られながら「ほら、彼女よ」と言われる声が聞こえるようなところを歩いてきました。だから彼女は、他の人がいそうな朝には水を汲みに行かず、誰もいないであろう昼日の中水を汲みに行ったのです。

 彼女はイエスの言葉を聞いて呆然としました。イエスとは初めて会いました。サマリヤの人ではなく、ユダヤ人です。この町で見かけたこともありません。何でこんなに自分のことを知っているか分かりません。
 彼女は呆然としながらある思いが浮かびます。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。」

 イエスが言われた「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」というこの事実は、彼女の最も辛い痛みでした。
 人は理由を知りたがります。彼女は考えます。自分の何がいけなかったんだろう。自分には縁がないんだろうか。自分は必要とされないんだろうか。わたしは神さまに嫌われているのだろうか。自分の存在を否定するかのように、この事実が彼女にのしかかってきます。
 それを、初めて会ったこの人は知っていた。この人は一体誰だろう。こんなにもわたしのことを知っているなんて。もしかして、この人は預言者なのだろうか。神がわたしに預言者を遣わしてくださったのだろうか。神なんていてもいなくても同じ、わたしにはいいことは何もない。そんな風に思ってきたけれども、神はわたしに預言者を遣わしてくださったのだろうか。神はわたしを知っておられるのだろうか。わたしを顧みていてくださるのだろうか。

 様々な思いが彼女の内を駆け巡ります。そして彼女は、この預言者かもしれないユダヤ人に尋ねます。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
 預言者かもしれないユダヤ人。自分の一番の苦しみを知っているユダヤ人。誰も理解してくれないわたしの痛みを知っているユダヤ人。もしかしたら、ユダヤ人の言うことが正しくて、間違った仕方で礼拝していたから自分にはいいことがなかったのだろうか。ユダヤ人の言うとおりエルサレムに礼拝に行けば良いことがあったのだろうか。彼女の思いはどこまでも自己中心的です。

 けれどイエスは彼女を知っています。自分のことしか考えられないほど苦しんできたこと、孤独だったことを知っています。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」どこまでも自己中心的であり、迷信的な求め、願いです。
 しかしイエスは、彼女と出会うためにここに来られました。疲れてへたり込んでしまってまで、彼女との出会いを求められました。
 イエスは言われます。「婦人よ、わたしを信じなさい。」この「婦人」も「女」と訳される単語です。最近の訳の多くは「女よ」「女の人よ」と訳しています。
 イエスは言われます。「わたしを信じなさい。」イエスは、自分の境遇の理由も分からず、自分のことを考えると混乱してしまうこの女性の前に、ただ一人信じられる存在として立ってくださいます。真の神の許に立ち帰り、救いを受け取ることができるように、自らが信じられる者、よき羊飼いとなってくださいました。彼女と出会うために、疲れてへたり込んでしまう弱さを負ってまで人となり、来てくださいました。

 イエスは、この女性と同じくわたしたち一人ひとりのことも知っておられます。その苦しみを、悲しみを、痛みを知っておられます。そしてわたしたちに救いをもたらすために来てくださいました。わたしたちの命と存在の源である神を知ることができるように、人となり、自らが信じられる者となって来てくださいました。

 わたしたち一人ひとりに、このイエス キリストとの出会いが必要です。そのために神は、キリストの体である教会をお建てになり、教会の礼拝においてイエス キリストと出会えるように導いていてくださいます。どうかこの教会において、イエス キリストと出会う喜びが満ちていきますように。神が求めておられるすべての人のための教会として開かれ用いられていきますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 主がわたしたちを知っていてくださることを感謝します。主は、わたしたちを知って失望するのではなく、救いを与えるためにわたしたちの許に来てくださいます。どうかこの教会においてイエス キリストと出会うことができますように。キリストの御手から救いを受けることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 9:1〜5

2019-09-15 15:43:37 | 聖書
2019年9月15(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 9:1〜5(新共同訳)


 パウロは、3:21から8:39までキリストの福音を語ってきました。そして9〜11章は、同胞である旧約の民イスラエルについて語ります。

 パウロは言います。「わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。」
 どうやらパウロはユダヤ人たちから「嘘つき」だと言われていたようです。

 ユダヤ人たち、それはイエス キリストを信じているユダヤ人キリスト者であっても、パウロの言うことに傷ついていたのです。それはそうだろうと思います。彼らが誇りとしていた割礼、律法、ユダヤ人であること、パウロはそれらをことごとく否定したのですから。
 誇りは、その人の存在価値に関わるものですから、そう簡単に手放すことはできません。しかし徹底的にユダヤ人として生きてきたパウロは知っています。ユダヤ人としての誇りに執着する限り、神が独り子を差し出すという痛みを負ってまで、与えてくださったイエス キリストを受け入れることができないのです。パウロは復活のキリストに出会ったときに、それを知りました。自分の熱心も、自分の確信も間違っていたことを知りました。

 パウロはキリストを信じた今も、同胞イスラエルに対する深い愛を抱いています。パウロは言います。「彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。」
 イスラエルは、アブラハムが召し出されて以来、神の民として歩んできました。ここに挙げられた「神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束」は、まずイスラエルに与えられたものです。だからパウロは思います。もし真の救い主 イエス キリストを通して与えられる救いに与ることがないとしたなら、神の民として歩み続けてきた今までの歴史はどうなってしまうのか。イスラエルはたくさんの苦難を経て歩んできました。エジプトでも奴隷として苦しみました。荒れ野を40年間旅しました。国が滅ぼされることも経験しました。周りには多くの偶像があり、偶像を信じてしまったことにより裁かれ、偶像を拒絶し信仰を守っては迫害されました。そんな経験までして神の民として歩んできたのに、救い主が来るという約束を信じ続けてきたのに、肝心なキリストの救いに与ることができないとしたら、イスラエルは何のためにここまで神の民として歩んできたのでしょうか。
 神は、イスラエルを見捨てず、イスラエルにイエス キリストを与えてくださいました。イエス キリストはユダヤ人として生まれ、歩まれました。
 イスラエルが国を失い、流浪の民となってから、キリスト教の国となっていったヨーロッパで「キリストを殺した民」として迫害されてきました。しかし神は、イスラエルの民としてイエス キリストを与えられたのです。

 パウロはイスラエルが救いに与ってほしいと心から願っています。だからイエス キリストが救い主なのだと熱心に語ってきました。ところがパウロの同胞への熱い思いが、彼らのプライドを傷つけてしまいました。ユダヤ人たちから「嘘つき」呼ばわりされ、「パウロの言うことに耳を貸すな」「キリストの前では価値がない、などと言うが、割礼も律法も神が与えてくださったもの。価値がないはずがないじゃないか」と非難されていたのです。
 パウロにとっては辛いことでした。同胞の救いを願っているのに、理解されない。しかし、パウロが辛いのは自分の言うことが信じてもらえない、自分が理解されないということではなく、イスラエルが救いを受け入れないということです。
 パウロは言います。「わたしの良心も聖霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」
 パウロは、同胞がキリストを受け入れるためならば、自分はキリストと同じように捨てられた者となっても良いとまで思っているのです。本当にパウロは熱い人だなぁと思います。しかしその熱い思いも、神には及びません。独り子を遣わしてでも罪人を救いたいとは、どれほどの思いなのでしょうか。キリストを遣わされた神は、わたしたち罪人の救いをパウロ以上の思いをもって願っていてくださいます。
 わたしの両親も未信者です。キリストを信じそうな気配はありません。それでも、神があきらめておられないのですから、神より先にわたしがあきらめてはいけない、あきらめる必要がないと思います。パウロと同じように、救いを願っている親しい人を思い、痛みを感じている方がおられると思いますが、あきらめないで祈っていて頂きたいと思っています。なぜなら、神があきらめておられないからです。

 そして最後に、パウロは最も伝えたいことを述べます。「キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。」
 キリストは確かに人となられ、イスラエルの民としてお生まれになりました。しかしキリストは、単に非常に優れた人物、偉人の中の一人というのではなく、「万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神」なのだと宣言するのです。しかも、神に献げる祈りと同様に「アーメン」という言葉と添えて語ります。
 アーメンというのは「真実です。そのとおりです」という意味のヘブライ語です。この言葉を出すということは、「偽りを言っているのなら、神に裁かれてもかまわない」というパウロの思いを示すものです。先に「わたしの良心も聖霊によって証ししている」と言いましたが、そのことに応答するのがこの「アーメン」なのです。
 パウロは、復活のキリストによって回心させられました。肉眼でキリストを見ることはできませんでしたが、キリストが現れてくださり、キリストの言葉を聞き、キリスト者となりました(使徒 9:1~22)。この言葉は、復活のキリストに出会ったパウロの証言です。直接復活のキリストを知るパウロの証しです。
 それは、キリストは、イスラエルの民から生まれた真の人であり、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる真の神である、というものです。日本キリスト教会信仰の告白も冒頭で「イエス キリストは、真の神であり真の人です」と告白しています。
 神学の用語では「二性一人格」と言います。イエスという一人の人格に、神の性質と人の性質とが存在している、というものです。これは三位一体の教理と並んで、人間の理性を超えるものです。神がキリストによって啓示してくださった救いの秘義とも言えるものです。イエス キリストとの出会いを経験した者によってのみ証言されるものです。

 これは、この証言の後で分かってくることですが、神であるお方が人となって来てくださり、救いの業を成就してくださいました。そしてキリストは復活し、天に上られ、神の右に座しておられます。キリストが人となってくださり、人として復活されたので、今、神に国、神の右には真に人であるキリストがおられます。それによって、罪を贖われキリストと結び合わされた人が、死を超えてキリストと共に復活し、神の国に至るという道が拓かれました。神であるキリストが人となってくださったので、わたしたちは死を超える未来を見ることができるようになったのです。
 だから、イエス キリストが真に神であり、真に人であられるというのは、神が啓示し、教えてくださった救いの秘義なのです。

 神は、このキリストの救いに与るようにと、礼拝へと招き導かれます。神の救いの御業を知って受け取るように、御言葉を通して神の御心と御業を知るように毎週語りかけてくださいます。神はキリストの救いによってわたしたちと共にいてくださいます。だからキリストは「インマヌエル 神我らと共にいまし給う」と言われます。どうかこの聖書の言葉を聞いた皆さんが、キリストの救いに与り、神の愛と命の道を歩まれますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 この教会において、わたしたちの真の救い主イエス キリストに出会うことができますように。日ごとにキリストをよく知り、その救いの恵みに満たされていきますように。どうかさらに多くの人が、キリストの救いに入れられていきますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ヨハネによる福音書 4:1〜15

2019-09-09 12:33:47 | 聖書
2019年9月8日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 4:1〜15(新共同訳)


 救い主としての活動を始められて、イエスの許には多くの人々が集まるようになりました。エルサレムにおける宗教指導者の一角であるファリサイ派の人々の耳に、イエスが洗礼者ヨハネよりも多くの弟子を集め、洗礼を授けている、という噂が届きました。
 ファリサイ派というのは、律法を厳格に守り、神から祝福される人になることを信条とするグループで、律法の指導者の働きをしていました。
 イエスは噂が広まっているのを知ると、まだ十字架へと向かう時ではないので、ファリサイ派との議論を避けるため、ユダヤを去り、北方のガリラヤへと向かわれました。その途中、イエスの一行はサマリアと呼ばれる地域を通りました。

 サマリアは、北イスラエルの首都であったサマリアを中心とする地域です。北イスラエルがアッシリアに滅ぼされた後、アッシリアの移住政策により民族の混合が進み、ユダヤの人たちからは純粋なイスラエル民族ではなくなったと差別されるようになり、ユダヤとサマリアとは関わりを避けるようになっていました。

 イエスの一行はサマリアのシカルという町に来ました。イエスは旅に疲れて、井戸のそばに座り込んでしまわれました。
 この井戸はヤコブの井戸と呼ばれており、イスラエルの先祖ヤコブが掘った井戸だと言われていました。

 教会では、イエスは真に神であり、真に人であると言います(二性一人格)。神は全能であるから人になることも問題なくできるだろうと考える人もいるかもしれません。けれど人となるというのは、弱くなるということです。疲れれば動けなくなる。喉も渇けば、お腹もすく。釘で十字架につけられれば動けない。痛みも感じれば、血も流れる。そしてついには死んでしまう。およそ神として持っておられたものを手放して、弱くなる。それが、神が人となるということです。
 わたしたちは弱くなりたいとは思いません。年を取ってできることが次第に失われていくことを恐れます。わたしも病気をしていろんなことができなくなりました。こんなこともできなくなったのかとため息が出ることもあります。弱くなりたいとは思いません。
 しかし、イエスは弱くなってわたしたちのところへ来られました。そして、その弱さによって一人の女性と出会います。おそらくこの女性と出会うために、イエスはヤコブの井戸に来られました。続きを読んでいくと分かりますが、イエスはこの女性を知っておられました。イエスはこの女性と出会うために、そしてわたしたちと出会うために、弱くなり人となられたのです。イエスはわたしたちと出会うために弱くなることも恐れずに人となってくださいました。

 このサマリアの女性が井戸に水を汲みに来たのは、昼の12時頃でした。水は生活に欠かせないものですし、運ぶのは重くて大変ですから、大抵暑くならない朝のうちにすませるものです。この女性が暑いさなかに水を汲みに来たのは、たぶん他の人と会いたくなかったからではないかと思います。

 イエスはこの女性に「水を飲ませてください」と頼みます。弟子たちは食べ物を買いに行っていて、側にいませんでした。するとこのサマリアの女性は「どうして、ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、水を飲ませてほしいと頼むのですか」と尋ねます。先ほど言いましたように、ユダヤとサマリアの間には差別と反発があって、互いに関わることを避けていたからです。

 イエスは答えて言われます。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
 何とも上から目線の言葉です。「水を飲ませてください」と頼んでいる人の言葉とは思えません。この女性もおかしなことを言うと思ったのでしょう。イエスに向かってこう言います。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手に入れるのですか。」

 「生きた水」という表現は通常「流れている水」を表します。流れていない水、池や貯水池の水に対して、川の水や湧き水のような流れているきれいな水を表します。サマリアの女性はこの意味でイエスの言葉を聞きました。
 けれど、イエスが言われた「生きた水」は、神がイエス キリストを通して注ぎ与えてくださる恵みのことを言っておられます。エレミヤ 2:13にはこうあります。「まことに、わが民は二つの悪を行った。/生ける水の源であるわたしを捨てて/無用の水溜めを掘った。/水をためることのできない/こわれた水溜めを。」神ご自身が「生きた水」の源なのです。14節では「永遠の命に至る水」と言われています。神がイエス キリストを通して与えてくださる「永遠の命に至る」恵みなのです。だからイエスは10節では「神の賜物」という言い方もされたのです。

 サマリアの女性は通常の意味で「生きた水」を理解しました。だから器も持っていないし、井戸の傍らでへたり込んでいるイエスが何かを与えられるとは思えませんでした。ただイエスの言葉、言い方に何か感じるものがあったのでしょう。もしかしたら、新たな井戸を与える力でもあるのかと思い、「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」と尋ねてみました。

 するとイエスはこう答えます。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
 するとこの女性はすぐさまイエスに訴えます。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」彼女はまだイエスが言っておられることを誤解しています。イエスの言っていることが水くみをしなくてもすむ自分に都合のいいこととして理解しています。
 けれども、イエスの言われていることを正しく理解できない、自分の都合で聞いてしまうという点ではわたしも同じです。わたしは常に渇いているように感じています。この箇所を読むと、いつも躓きを感じます。わたしは渇くということの反対は、満たされているというイメージです。イエスによって満たされると言うとき、神が万事を益としてくださることを信じてイライラしない。神が必要なときに必要なものを備えてくださることを信じて、足りないと言って不満を言わない。そんなイメージでいると、自分はいつも渇いているように思えます。
 しかしこれは、自分の信仰の成長や立派さを見て満足しようとする律法主義と同じです。自分の信仰を自分で見て満足する。それはイエスが与えようとしておられる信仰とはまるで違います。

 ここでイエスが言われているのは「永遠の命に至る水」のことです。イエス キリストから与えられる恵みはすべて、永遠の命へと至る恵みです。十字架も復活も、義認も聖化もすべて永遠の命へと至る恵みです。イエス キリストご自身により、わたしたちは圧倒的な恵みを受けています。わたしたちが欠けだらけだろうと、信仰が小さかろうと弱かろうと、自分自身の罪に絶望しそうだろうと、それらを圧倒するイエス キリストの尽きることのない恵みによって、わたしたちは永遠の命へと導かれているのです。わたしたちの努力や熱心ではなく、わたしのイメージや実感ではなく、ただひたすらにイエス キリストご自身によって、わたしたちは救いへ、永遠の命へと導き入れられているのです。まさにイエス キリストが生きた水の泉なのです。そしてイエス キリストが聖霊によりわたしたちの内に住み、共にいてくださり、絶えず生きた水を注ぎ与えてくださっているのです。

 だからわたちたちは、イエス キリストによって確信を与えられています。「このわたしはイエス キリストによって救われている」という確信です。
 わたしたちの信仰の先輩は、ハイデルベルク教理問答で「わたしたちは生きているときも、死ぬときも、わたしたちの真実な救い主イエス キリストのものである」と信仰を告白しました。そしてパウロはローマ 8:38, 39でこう告白します。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」

 イエスはここで生きた水と言われましたが、わたしたちの信仰も生きています。毎日食べて、常に呼吸するように、生きているものは絶えず活動します。信仰も同じです。迷いがなくなったり、不満が消えて、神に祈らなくてもいいようになるのではありません。神との生きた交流があり、人とも生きた交流があるのです。神との間に、人との間に、聖霊が注がれ流れて、生きた関係、生きた信仰になるのです。
 だからわたしたちは、わたしたちの内にあって永遠の命へと至る水を与えてくださるイエス キリストに目を向け、心を向けるのです。わたしたちのために人となって弱くなることも厭われない方。嘲られることも拒絶されることも捨てられることも厭われない方。わたしたちの罪を担い、ご自分の命さえも差し出される方。死を打ち破って、命の道、神の国の道を拓かれる方。この方が、わたしたちのすべてを受けとめ、永遠の命に生きる者としてくださる真の救い主なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 主イエスは、わたしたちに出会うために弱さを負い、人となって来てくださいました。わたしたちに永遠の命に至る水を与えるために、自らを献げ与えてくださいました。わたしたちの救いの確かさは、イエス キリストにあります。どうかわたしたちも、イエス キリストに出会い、その恵みに与り、永遠の命に至ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ヨハネによる福音書 3:31〜36

2019-09-02 08:10:24 | 聖書
2019年9月1日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 3:31〜36(新共同訳)


 福音書はイエスのことを「上から来られる方」と言って、イエスがどこから来たのか、誰の許から来たのかを示します。そしてイエスを受け入れず、神に従わない人たちを「地から出る者」「地に属する者」と語ります。
 福音書は、3章でニコデモに対して救いとは何かを語り、救い主を遣わされた神の愛を語りました。続いて洗礼者ヨハネがイエスこそ救い主であることを証ししました。それらを受けて、福音書はイエスがどのような方であるかを語ります。

 3章まで語ってきたことを踏まえて、イエスは上から、つまり神の許から来て、すべてのものの上にあって、すべてを治める方だと言っています。マタイによる福音書では、復活されたイエスご自身が「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(マタイ 28:18)と言われました。福音書は、このことを証しするために語り、4つの福音書とも最後は十字架と復活によって救いの業が成し遂げられたことを記します。

 ヨハネによる福音書が冒頭から語るように、イエス キリストこそ神の言葉であり、ご自身が見たこと聞いたことを証しされます。しかし「だれもその証しを受け入れない」と福音書は言います。この「だれも」というのは、福音書がキリストを伝えようとしている人たちを指すのではないかと思います。イエスを信じる者たちがいたから今に至るまでキリストが宣べ伝えられたので、誰も信じなかった訳ではありません。ですから、証しを受け入れなかった「だれも」は、福音書が伝えようとした特定の人たちを指しているのだろうと思います。

 一方、キリストの証しを受け入れる者は、イエス キリストを信じ受け入れたことによって、神が旧約の約束のとおりに救いの御業をなしてくださったことを証しするのです。「確認した」と訳されている言葉は「印・はんこを押す」という言葉です。書類に承認のはんこを押すように、イエス キリストの証しを信じることによって「神は真実です」という書類に判を押すのと同様の証しをしたのです。わたしたちは、洗礼を受けること、信仰告白をすることにより、神の真実を証ししたのです。

 イエス キリストは、神の言葉です。わたしたちはイエス キリストによって、神の御心、神がわたしたちを愛しておられることを知ります。
 世には哲学的・神学的課題として「神の存在証明」というテーマがあります。神の存在を理論的に証明しようとするもので、中世から近代にかけて議論されました。現代ではほぼ取り上げられることはありません。そのような証明が意味を持たなくなったからだろうと思います。単純なものですと、時計がある。これを作った人がいる。時計よりもはるかに複雑・精密な人間が自然にできるのではなく、造られた神がおられる、といったものです。
 仮にこの論理が正しいとして、神の存在が証明されたとしましょう。ですが、こういった証明では、神がどのようなお方なのか分かりません。神がわたしたちを愛しておられるかどうか分かりません。わたしたちの知性や理性では、神を知ることはできないのです。わたしたちは、神が自らを現してくださらなければ(これを啓示と言います)神を知ることはできません。

 神は、救いの御業と御言葉によってご自身の民に自らを啓示してこられました。そして、ヘブライ 1:2によれば「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」ヨハネによる福音書が言うように、イエス キリストこそ神の言葉なのです。わたしたちはイエス キリストによって神の御心、神がわたしたちを愛しておられること、わたしたちを救おうとしておられることを知るのです。旧約は、来たるべき救い主を指し示し、新約は、救いを成し遂げられた救い主を証ししています。イエスご自身が言われたとおり「聖書はわたしについて証しをするもの」(ヨハネ 5:39)なのです。そしてわたしたちは、イエス キリストによって神の愛を知り、神の真実を知り、神ご自身を知るのです。

 神は、イエス キリストによってわたしたちが神を知ることができるように、聖霊を与えてくださいます。
 イエス キリストが救い主としての公生涯を始められるとき、洗礼を受けられました。本来、罪のないイエス キリストに罪の洗い清めの洗礼は必要のないものですが、わたしたちが歩むべき救いの道を拓くために洗礼を受けてくださいました。そのとき「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえ」(ルカ 3:21, 22)たのです。神は、イエス キリストの救い主としての歩みにおいて父・子・聖霊なる神の姿を現してくださるのです。
 新共同訳は「限りなくお与えになる」と訳しますが、ここは「升を使わずに与える」というのが直訳です。つまり計量カップなどできっちり量って与えるのではなく、「惜しみなく」与えてくださるという意味です。
 イエスも「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ 14:26)と言っておられます。神はご自身の言葉としてイエス キリストを遣わされ、その神の言葉を理解できるように聖霊を注いでくださるのです。

 罪によって神が分からなくなってしまったわたしたちに、神は自らをお示しくださいます。イエス キリストが救い主であることを知ること、信じることにより、父なる神、そして聖霊なる神を知り、父・子・聖霊なる神ご自身の交わりに入れて頂けるようにしてくださったのです。

 父なる神は、救いのために人となり、その命さえも献げた御子イエス キリストを愛され、すべてをキリストの御手に委ねてくださいました。ですから、救いはイエス キリストにかかっています。だから福音書は「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」と語るのです。イエス キリストは、信じても信じなくてもどちらでもかまわないどうでもいい存在なのではありません。わたしたちキリスト者は「神が独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ 3:16)ことの大きさを覚えていることが必要です。
 それには、キリストに思いを向けることが大切です。イエス キリストがよく知り、神の思いが聞こえてくるようになることが大切です。

 さきほど、神の存在証明ということを申し上げましたが、神はイエス キリストによってご自分を明らかにされました。イエス キリストこそ、神の存在証明なのです。ですから、キリストを抜きにして神の存在証明をしようとしても、神を知ることはできないのです。

 この池田教会に集うお一人おひとりが、礼拝を始めとする教会の営みによってイエス キリストと出会い、キリストを通して父・子・聖霊なる神との交わりに生きることができますように。神の愛を喜び、神からの希望に生きることができますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたが導いてくださったこの教会において、イエス キリストをよく知ることができますように。イエス キリストによって、あなたの御心をいよいよ深く知ることができますように。どうかあなたの御心を喜び、御業を喜び、そしてあなたご自身を喜ぶあなたの民、あなたの子として導いてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン