聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 4:35〜38

2020-01-27 23:17:57 | 聖書
2020年1月26日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 4:35〜38(新共同訳)


 イエスは弟子たちに語ります。「あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。」
 「刈り入れまでまだ四か月もある」というのは「まだ慌てなくてもいい。焦らなくてもいい」ということを表す言い回しのようです。

 それに対してイエスは「わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている」と言います。
 イエスは伝道について話されます。
 イエスの食べるものを探してきた弟子たちが「食事をどうぞ」と言ったとき、イエスはわたしの食べ物は「わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と言われました。イエスを遣わされた天の父の御心とは何か、その業とは何かをイエスが語られたのが、きょうの箇所です。
 一言で言うと「伝道」がそれであると示されます。具体的に言うと、罪人をイエス キリストへと案内することが神の御心である、ということです。

 イエスは「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」と言われます。わたしたちは「果たしてそうだろうか」と思います。中会でも大会でも「伝道の困難な時代」という言葉をよく聞きます。「本当に畑は刈り入れを待っているのだろうか」と思います。
 おそらくここでは、イエスが考えておられる畑を弟子たちは畑だとは思っていません。イエスはサマリアの一人の女性と出会われ、彼女が他のサマリアの人たちにイエスを伝えました。けれど弟子たちには、サマリア人は他の民族と混交した純粋な神の民ではなく、イエスが話しておられても関心を持ちませんでした。
 わたしたちは今、イエスの言葉を聞いて、自分にとって畑とは誰のことだと思われるでしょうか。自分に伝道するのを託されている人は誰だと考えているでしょうか。イエスはわたしたちに問いかけておられます。真剣に考えてみなくてはなりません。

 続いてイエスは「既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている」と言います。「刈り入れる人」は伝道に仕える人です。牧師などの特定の人だけでなく、すべてのキリストの弟子、キリスト者を指しています。「報酬」とは神の祝福です。天に積まれる宝と言ってもいいかもしれません。そして「永遠の命に至る実」というのはキリストを信じて、永遠の命を受けた人を表します。
 イエスは「既に」と言われました。既に刈り入れている人は誰なのでしょうか。弟子たちより先に神の御心に従って仕えたのは、福音書の人で言えば洗礼者ヨハネです。ヨハネが神の御心に従ってイザヤの預言を成就し「主の道を整え・・まっすぐに」したのです(ヨハネ 1:23、マタイ 3:3、マルコ 1:3、ルカ 3:4~6)。イエスはヨハネが整えた道を歩み、救い主としての業を成されました。イエスの弟子にはヨハネの弟子がいました。アンデレです(ヨハネ 1:40)。ヨハネに促されイエスに出会ったアンデレは、兄弟シモン ペトロをイエスの許へと連れてきました(ヨハネ 1:42)。
 洗礼者ヨハネだけではありません。名の知られていない多くの神の民がいるのです。聖書に名前が出てくる、あるいは歴史に名を残す抜きん出た信仰者がいれば、神の救いの歴史が紡がれるのではありません。旧約の中にはいくつもの系図がありますが、そこに出てくる多くは誰か分からない人たちです。そういった無名の数え切れない信仰の民がいたからこそ、今に至るまで信仰は継承されてきたのです。

 こうして主の御業が前進していくとき、イエスが言われた「種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ」ことが起こるのです。これは教会だけの話ではなく、巷でも『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざが言われていたようです。

 イエスは言われます。「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。」伝道は自分の手柄にすることはできません。そもそもこの時サマリアの女性を導かれたのはイエス キリストご自身であって、弟子たちは何も関わっていませんし、誇ることはできません。信仰を与えるのは神の御業です。そして民は、神の救いの歴史の中で与えられた務めを果たすのです。

 伝道は「他の人々が労苦し・・その労苦の実りにあずかっている」ものです。
 しかし、わたしたちはしばしば自分で労苦し、その実りを自分で収穫したがるのです。教会が一番勘違いするのが伝道です。自分で収穫し、教会を大きくしようとする中で、伝道が困難な時代だと言い、伝道は割に合わない・コストパフォーマンスが低いと言いだし、伝道以外に教会の存在価値を見出そうとしてしまいます。
 教会の第一の務めは「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ 14:6)と言われた「道」であるイエス キリストを伝え証しすることです。サマリアの女性がイエスと出会って罪の呪縛から解放されたように、神が愛しておられる一人ひとりがイエス キリストと出会うために仕えることです。

 伝道は種まきです。良い土地か悪い土地か関係なく蒔くのです。自分で収穫することを考えずに蒔くのです。どのように蒔くのか。救いを祈り願いつつ、御言葉と祝福を蒔くのです。アブラハムが言われたように「祝福の源」(創世記 12:2)となって蒔くのです。神が無償で与えてくださったキリストの祝福と恵みを惜しみなく蒔くのです。神の国が到来するまで蒔くのです。
 アブラハムは「あなたの子孫は天の星のようになる」(創世記 15:5)という神の約束が実現するのを見ませんでした。モーセもピスガの頂上から約束の地を見渡しましたが自分が入ることはありませんでした(申命記 34:1~4)。
 自分で蒔いたものを自分で手に入れようという誘惑を捨てましょう。成果を気にするのを止めましょう。神から与えられたすべての関係に祝福を注ぎ、恵みを分かち合えるように神に祈り求めましょう。イサクやヤコブが子どもたちを祝福したように(創世記 27, 48章)祝福しましょう。
 そうしていったとき、わたしたちは、終わりの日に、神の御前で蒔く人も刈る人も共に喜び、さらには神ご自身の「主人と一緒に喜んでくれ」(マタイ 25:21, 23)という喜びに与るのです。

 伝道は、神の喜びへと続く業です。悔い改める一人の罪人のために、天には大きな喜びがあります(ルカ 15:7)。神はすべての人が救われることを望んでおられます(1テモテ 1:15)。神はあきらめておられません。だから神の愛と真実を信じて、救いを祈り求めていきましょう。愛する者、大切な人のために祈り続けましょう。
 イエスは言われます。「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちは罪ゆえにイエスの御心をなかなか受けとめることができません。聖霊を注ぎ、あなたの御業に仕えさせてください。どうかあなたと共に生きる喜びを与えてください
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 5:16〜17

2020-01-23 22:43:25 | 聖書
2020年1月22日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 5:16〜17(新共同訳)


 16節の最初に「この賜物」とありますが、これは直前に出てくる「イエス・キリストの恵みの賜物」のことです。
 「似て非なる」という言葉があります。「ちょっと見たかぎりでは似ているが、実際は全く違う」という意味ですが、パウロは(15節の最初にもあるように)「恵みの賜物」と「罪」を比較しながら、恵みの賜物と罪が似て非なるものであることを語り、恵みの賜物の素晴らしさを語ります。

 罪も恵みの賜物も、一人の人によってもたらされました。罪はアダムによって、恵みの賜物はキリストによってです。罪も恵みの賜物も一人の人によってもたらされ、すべての人がその影響下に置かれます。これが似ている点です。

 非なる点、異なる点は、一人の人アダムの罪が、すべての人を罪に定めることになりましたが、一人の人キリストの恵みは、多くの人の罪をキリストが担われた結果、罪人を義とすることになったことです。全く正反対のことが起こります。このことをパウロは6章の最後でこう書いています。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命」(6:23)であると。

 罪という言葉は、元々道を外れる、的を外すという意味を持っています。聖書においては、神から離れていく、神と共に生きることができないことを表します。
 一方、義という言葉は、正しい関係にあることを表します。神と正しい関係にあり、神との交わりの中にあって、神と共に生きていることを表します。

 罪は、命の創造者、命の源である神から離れていきます。命の源から離れ、行き着くのは死の世界なのです。死は命が失われた沈黙の世界です。
 しかし神の御業は、命を創造し、死から命へと救い出します。命は、色も音も、香りも手触りも多様な豊かな世界です。罪が導くのは、死が支配する世界。しかし神が導かれるのは、命の満ちあふれる世界なのです。

 神はその命満ちあふれる世界、そこに生きる人に向かって「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」(創世記 1:28)と祝福して言われました。
 この箇所は「従わせよ」や「支配せよ」という強い言葉が使われており、強制させるというマイナスのイメージがあるため、躓きを感じる方も多くいるかもしれません。
 しかし、この「従わせよ」「支配せよ」は、神の御心によって治めることを示しています。豊かな命の世界を創造し、よかったと喜ばれる神の御心によって治めるのです。命が生み出され、豊かさが生み出され、神の「よかった」が増し加わり、分かち合われるように治めるのです。

 神と共に生きるとき、わたしたちは神が祝福された命の世界へ向かって生きていきます。そして生きている世界、命ある世界においてわたしたちは出会います。豊かな命、驚くべき世界、そして救いの恵み。さらに、神に出会い、お互いに出会い、その出会いを喜び、共に生きるのです。
 命が出会いを喜び生きることができるように治めるのです。神はこの出会いの喜びを与えようとして、救いの御業、命の御業をなしておられます。ですから17節では「神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通していき、支配するようになるのです」とここでも「支配する」という言葉が使われるのです。

 命は自分の命であっても、自分のものではありません。自分で、生まれる時も場所も、能力も選んで生まれることはできません。そして、自分は200年、300年生きようと決意しても、生きることはできません。
 命は神から与えられたものであり、神が定められた時に神へと帰るものです。しかし、キリストの「神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人」、すなわち赦しと永遠の命という恵みを受けている人、神を信頼し神と共にあることを喜ぶ義の賜物を受けている者は、神が祝福される命が満ちあふれる世界、恵みが導く出会いある世界を神の御心によって治めていくのです。

 わたしたちは今、神の招きを受けているのです。罪が導く死が支配する世界に留まるのではなく、キリストが導く命の世界、恵みある出会いの世界に生きるように招かれているのです。
 だからわたしたちが献げる礼拝は、神の「招きの言葉」で始まるのです。神がいつも招いていてくださいます。だからわたしたちは主の日ごとに礼拝の恵み、すなわち神へと立ち帰り、神との交わりを楽しみ、神に祝福されて送り出されるという恵みに与っているのです。

 今、キリストを通して神の招きがあなたの前に差し出されています。


ハレルヤ


父なる神さま
 イエス キリストによりわたしたちの罪を贖い、死から命へと救い出してくださったことを感謝します。御言葉を通してあなたがわたしたちのために備えていてくださる恵みを知ることができますように。どうかあなたにあってわたしたちがこの命を、あなたが与えてくださる出会いを喜び楽しむことができるようにお導きください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 9:30〜10:4

2020-01-19 23:06:44 | 聖書
2020年1月19日(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 9:30~10:4(新共同訳)


 パウロは言います。「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。」パウロが救われることを願っているのは、旧約の民イスラエルのことです。彼らは父祖アブラハム以来の長い歴史の中で、イスラエルと呼ばれ、時にヘブライ人と呼ばれ、そしてユダヤ人と言われてきました。
 パウロは問います。「義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。なぜですか。」

 周りの民が偶像を礼拝しているのに、イスラエルは神の言葉を聞き続けてきました。そして救い主の到来を待ち続けてきました。パウロもその一員として熱心なユダヤ教徒として歩んできました。
 しかし復活のキリストに出会ったとき、パウロは自分の信仰の間違いに気づかされました。パウロもイスラエルも、行いによって義に到達できるかのように考えていました。そう考えるのも仕方ない面もあります。人間の罪によって神との関係が崩れてしまいました。ですから、人が律法を守り罪から離れることによって、神との関係が回復すると考えました。旧約の中でも、イスラエルが神の言葉・戒めを破ることによって裁かれることが繰り返されてきましたので、律法を守り、神に喜ばれる民になろうと考えられてきました。

 パウロもそう信じてきました。しかし復活のキリストと出会ったときに変わりました。キリストが十字架で死んで、パウロは神を冒涜する者を排除できたと考えていました。しかし、神が復活させられたキリストに出会い、目を見えなくされて、思い巡らすの中で(使徒 9:1~22)、イエス キリストが誰であるのかを知るに至りました。

 自分もユダヤ人たちも、イエス キリストに躓いたのです。その事に気づいたとき、33節に引用されたイザヤ書の言葉(イザヤ 8:14, 28:16)が分かるようになりました。「見よ、わたしはシオンに、/つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない。」イザヤが言った「つまづきの石、妨げの岩」とはイエス キリストだったのです。イエス キリストを信じ受け入れることが、神の御心を受け入れる鍵だったのです。

 そもそも律法は、イスラエルが考えてきたような義を得るためのものではありませんでした。律法を守れなかったときのために、様々な献げ物が定められています。神は、律法を落ち度なく守って、自分の力で義を得なさい、とは考えてはおられません。
 これまで語られたように、神の民の祖であるアブラハムにも「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記 15:6)と言われました。初めから神は「信仰による義」を与えようとされていたのです。
 それなのにイスラエルは行いによって義を得ること、義に到達することを求めてしまったのです。

 律法は、神が与えてくださったものですから、大切なものです。しかし、それは義に達するためのものではなく、罪の世で、神と共に、隣人と共に生きるための恵みだったのです。

 ですが、罪を抱えたわたしたちは神の御心に従うのではなく、自分の力でやりたいと考えてしまいます。自分の信仰を誇りとしたくなったり、自分で努力せずに初めからキリストに依り頼むのはダメじゃないかと考えたりします。
 パウロはそれを「正しい認識に基づくものではありません」と言います。

 信仰において大切なのは「神の御心」です。罪はその神の御心を受け入れられないことです。ですから、神の御心を無視して、自分は律法を守って自分で努力して義に到達しようとするのは、全くの的外れです。ちなみに罪のギリシャ語ハマルティアには「的外れ」という意味があります。
 ユダヤ人が熱心であることは、パウロも認めるところです。しかし神の御心に思いを向けることができない中で、熱心であるとき、自分の考え・善意が神の御心にかなう最上のものであるかのような勘違いが生じてしまします。

 救いにとって鍵となるのは「義」という言葉です。アブラハムに対しても「主は・・義と認め」られたと言われています。義というのは、正しい関係を表します。聖書では、神との正しい関係を表します。正しい関係は、共に歩める関係です。共にあることを喜べる関係です。神がわたしたちに求めておられるのは、この義なる関係、正しい関係です。
 わたしたちは関係の中で生きる存在です。神との関係、夫婦の関係、親子の関係、友人関係、仕事のつながりの関係、近隣との関係、社会・国・世界との関係。わたしたちは関係の中で生きています。その関係の基本、根底にあるのは、神との関係です。神との正しい関係が築かれるとき、わたしたちが抱えるすべての関係を神に祈り、神の導きに委ねていくことができます。わたしたちの罪に対して、ひとり子を遣わしてまで罪を贖い、救ってくださる神は、わたしたちに与えられているすべての関係がよきものとなるように導いてくださいます。

 しかし問題は、わたしたちは罪ゆえに神との間に正しい義なる関係を築くことができません。罪のせいでわたしたちの思いは、常に神の思いと違ってしまうので、正しい義なる関係が築けません。わたしたちの内に神の義はないのです。ここが分からないと、わたしたちはどこまでも自分の義を求め、神に自分の義を押しつけようとしてしまいます。
 律法も神の御心とは関係なく、自分の義、正しさで運用します。安息日には、どれくらいの距離を歩いてもいいのか、重さはどれくらいまで持っていいのか、文字は何文字書いていいのか、神の御心とは無関係に基準を決めていきます。現代の教会でも規則の運用などいろいろな基準、線引きがされます。そこでは主に公平という観点、組織の維持という観点から基準が設けられます。はたしてそれは神の御心にかない、神の栄光を現すものとなっているのでしょうか。

 罪あるわたしたちには、神の義が必要なのです。神の義とは、神が与えてくださる正しい関係です。神はご自身の義をイエス キリストにおいて与えてくださいました。イエス キリストこそ神の義なのです。
 神が与えてくださる義、神が正しいとされる関係は、神を信じるという関係です。わたしたちを造り、愛しておられる神を信じるのです。イエス キリストにより罪から救い出してくださり、神の子としてくださる神を信じるのです。神の許にわたしたちの命があり、未来があり、幸いがあることを信じるのです。この信じる関係を、神はイエス キリストにおいて与えてくださいました。わたしたちは信じるという仕方で、神との正しい関係、神の義に入れられるのです。
 そしてわたしたちは、イエス キリストによって与えられた神の義によって、神と共に生きる新しい命へと招き入れられたのです。

 イエス キリストへと思いを向けましょう。イエス キリストこそ、律法が指し示していた方、律法の目標なのです。律法が、神を愛することと、隣人を愛するために与えられたものであることを明らかにされた方です。神の言葉、神の御心を明らかにし、成就された方。そしてご自身を信じる者に義、神との正しい関係を喜ぶことのできる関係を与えてくださる方なのです。

 どうか教会へと導かれたお一人お一人が、礼拝においてイエス キリストに出会い、喜びをもってキリストを知り、神の義に生きることができますように。イエス キリストが自分と共にいてくださることを知り、キリストと共に救いの道を歩み行くことができますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたはわたしたちにイエス キリストにより神の義を与え、あなたを喜んで生きる救いに与らせてくださいました。神の義も救いも、あなたから来ます。自分の義への囚われを捨てて、あなたと共に生きるあなたの子としてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 5:12〜15

2020-01-16 11:07:24 | 聖書
2020年1月15日(水) 祈り会
聖書:ローマ 5:12〜15(新共同訳)


 聖書は、救いについて語ります。どのような救いかというと、罪からの救いです。マタイ 1:21では、イエスの誕生を告げる天使が「彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となる」と言っています。ですから、罪が分からないと、自分に救いが必要なのか、自分が救われているのか、よく分からなくなります。それでパウロは、罪をきちんと理解させ、イエス キリストが救い主である、イエス キリストによって救われているということを伝えようとしています。

 聖書はこう告げています。一人の人アダムによって罪がこの世に入ってきた。そして罪によって死が入ってきた。こうしてこの世は、死に支配される罪の世となってしまいました。
 聖書は、すべての人が罪を犯したと言います。罪とは、神と共に生きることのできない状態を言います。神と共に歩めない。神の御心に従えないことです。
 アダムとエバが、エデンの園において、禁じられていた善悪の知識の木の実を食べてしまいました。それによって、神の御心とは違う自分の善悪を持つようになり、神の御心に従うよりも自分の善悪に従うようになってしまいました。
 善悪の感覚は、人の思考の元にあるものです。「人は考える葦である」(パンセ)「我思う故に我あり」(デカルト)などと言われるように、思考はその人そのものでもあります。善悪の感覚もその人そのものです。それが神と相容れなくなってしまいました。様々な修行の中には、今までの自分から解放される、新しい自分へとなるためのものがありますが、神と一つになるのでなければ、新しい罪ある自分に変わるだけです。
 こうして人は、命の源である神から離れて、死に向かって生きるようになってしまいました。地を治めることを神から委ねられた(創世記 1:26, 28)人が罪を抱えてしまったため、世界全体が罪を抱えることになってしまいました。

 こうして世界全体が罪を抱えたため、この世に生まれてくるものは、すべて生まれながらに罪を抱え、罪を犯すようになってしまいました。幼子も、親の判断とは関係なく、自分にとってよいこと、心地いいことを求めます。親が危険だから触らないようにと言っても、子どもは興味を持ったら手を伸ばします。同じように、人も神の命令とは関係なく、自分が興味を持ったら、自分にとって楽しそう面白そう、自分がほしいと思ったら手を伸ばしてしまいます。
 ですから聖書は、生まれながらに悪を好むと言っているのではありません。聖書が言っているのは、生まれながらに神の御心とは違う自分の善悪で生きようとする罪を抱えている、と言っているのです。そして、神とは違う考えで、神から離れていくその先、命の源である神から離れていくその先には死と滅びがあると聖書は言っているのです。
 この罪と、罪がもたらした死と滅びを解決するには、罪からの救いが必要なのです。そして神は、わたしたちを罪から救う救い主としてご自身のひとり子イエス キリストを遣わしてくださったのです。

 神がアダムとエバに「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」(創世記 2:17)と命じられたことによって、それを守れない従えない罪が露わになりました。律法の働きの一つが、罪を明らかにすることです。
 わたしたちは、アダムとエバのように善悪の知識の木の実を食べたことはありません。しかし律法を知るとき、神の御心を自分の思いとして生きることのできない自分の罪を知るのです。そして、すべての人が死に囚われているという事実が、どんなに素晴らしく見える人であっても罪を抱えており、すべての人が罪からの救いを必要としていることが分かります。

 アダムの物語は、一人の人によって罪がこの世に入り、罪によって死が入ってきたことを示しています。このアダムが犯した罪を、神学では原罪( Original Sin )と呼びます。アダムの出来事は、罪の本質を示す出来事でした。
 神は、この罪の根本を解決するため、アダムを来たるべき救い主イエス キリストの型とされました。つまり、一人の人によって罪がこの世に入り、それによってすべての人が罪を抱えることになったと同じく、一人の人イエス キリストの救いの業によって、すべての人が救われるようにされたのです。

 このことを聖書はこう語ります。「一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」
 神はご自身のひとり子イエス キリストを救い主として遣わすことによって、罪を根本的に、徹底的に解決されたのです。しかも、罪と等しい大きさの恵みで解決されたのではなく、はるかに豊かな恵みで解決してくださったのです。
 例えば、わたしたちの罪がマイナス100点だとすると、神はプラス100点の恵みを与えて罪を相殺してゼロにしてくださるのではありません。神は遥かに大きな恵みを注ぎ、わたしたちを神の子としてくださるのです。アダムは、来たるべき救い主イエス キリストを指し示す型です。しかしイエス キリストによる恵みの賜物は、罪の場合とは異なり、はるかに豊かに多くの人々に満ちあふれるのです。わたしたちの罪をゼロにするだけでなく、豊かに満たす恵みなのです。

 その豊かさをエフェソの信徒への手紙はこう表現します。「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(エフェソ3:17~19)人の想像をはるかに超え、この世界、この宇宙を満たす豊かな恵みがイエス キリストを通して注がれているのです。

 わたしたちを罪から救えるのは、イエス キリストただお一人です。わたしたちを救うためにご自身を献げて十字架を負ってくださったのは、イエス キリストです。わたしたちを死から解放するために死を打ち破ってくださったのは、イエス キリストです。わたしたちはイエス キリストによって救われるのです。
 キリストの救いの恵みに満たされているとき、わたしたちは自分の罪を知ることができます。それは、キリストに救いによる希望があるからです。救いのないところで罪を見るならば、わたしたちには絶望しかありません。キルケゴールは絶望を死に至る病と言いました。望みのないところでわたしたちは生きることができません。しかし、キリストの救いに与るとき、わたしたちは罪ある自分に絶望するのではなく、キリストが罪ある自分を赦し、愛して、受け入れてくださるので、わたしたちも罪を抱えた自分自身を受け入れることができるのです。
 イエス キリストは、このわたしの過去も現在も未来も含めたわたしのすべてを救うただ一人の救い主なのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 イエス キリストの計り知ることのできない大きな恵みでわたしたちを満たしてくださることを感謝します。わたしたちは救いの恵みがあるところにおいてだけ罪を知ることができます。救いの希望のないところで、自分の滅びの原因である罪を見ることはできません。今、キリストの恵みにしっかりと支えられて自分の罪を知ることができますことを感謝します。どうかすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解し、わたしたちの思いを超えるこの愛を知り、ついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ヨハネによる福音書 4:31〜34

2020-01-12 19:25:07 | 聖書
2020年1月12日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 4:31〜34(新共同訳)


 待降節、降誕節があって、少し間が開きました。
 きょうの場面は、イエスの一行がガリラヤへと行く途中、サマリアのシカルという町に立ち寄ったところから始まります。このシカルという町にはヤコブの井戸と呼ばれる井戸があって、イエスはその井戸の傍らに座り込んで休んでおられました。そこで一人の女性と出会います。福音書はこの女性の名前を記しません。この女性とイエスの対話が始まります。何とも不思議な対話でした。しかしこの対話の中で、イエスはこの女性に自らのことを明らかにします。
 彼女は言います。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」するとイエスははっきりとお答えになります。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

 「ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚きました。しかし、『何か御用ですか』とか、『何をこの人と話しておられるのですか』と尋ねる者はいませんでした。」
 普通なら関わりを持たないサマリアの女性と話しているのは不思議でした。サマリアは、北イスラエルの首都であったサマリアを中心とする地域です。北イスラエルがアッシリアに滅ぼされた後、アッシリアの移住政策により民族の混合が進み、ユダヤの人たちからは純粋なイスラエル民族ではなくなったと差別されるようになり、ユダヤとサマリアとは関わりを避けるようになっていました。
 弟子たちはあえてサマリア人と関わろうとはせず、何も尋ねませんでした。しかしイエスは違いました。

 イエスが特別な人であることは、彼女にもよく分かりました。彼女は、水を汲むために井戸に来たのですが、水がめを置いたまま町へと駆け出し、出会う人々に「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」と言って回りました。

 弟子たちはと言うと、疲れて動けなくなってしまったイエスのために食べ物を探しに行っていたので、「ラビ、食事をどうぞ」とイエスに食事を勧めます。「ラビ」というのはユダヤ教の教師に呼びかける言葉です。
 するとイエスは「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われます。弟子たちはイエスの意図が分からず、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言い合いました。それを見てイエスは「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と言われました。

 イエスに「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われて、「あぁ、イエス様、あなたをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることが、あなたの食べ物ですものね」とはなりません。もちろんイエスも弟子たちが自分の思いと同じく感じられるとは思っておられないと思います。
 ではなぜイエスはこんなことを言われたのでしょうか。

 一つには、弟子たち、つまり人間の思いと神の思いとは異なることを気づかせるためです。キリストの弟子は、絶えず主の御心は何なのかを問い、「御心をお示しください」と祈らなければなりません。わたしたち罪人は、主の御心を悟ってしまったり、神が分かってしまうなどということはありません。もし、神の言葉がみんな分かった気になってしまったならば、説教者は神の御心ではなく、自分の考えを語るようになってしまうでしょう。神の言葉に従って歩もうとする者は、主の思いと自分のの思い、感覚が違っていることをわきまえていなくてはなりません。

 次に「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」とイエスは言われましたが、主の御心を成し遂げたら空腹がなくなるなどということもありません。それでも、イエスが言われたということは、キリストの弟子、神の民には、第一にして揺るがすことのできない務めがあることを教えようとされたということです。
 そもそも4:4からのこの出来事を読むと、名も知られぬ一人の女性、周りから白い目で見られていたであろう一人の女性をイエスは知っておられ、この女性と出会うために来られたことがうかがい知れます。

 しかし、弟子たちはその女性に興味を持ちませんでした。主が心を向けている一人の人に、弟子たちは関心が持てなかったのです。弟子たちは、イエスの空腹を心にかけていましたが、イエスの心がどこに向いているかは分からずにいました。
 イエスは、イエスが心に留める名も知れぬ一人の人を弟子たちに託されるのです。イエスが天に帰られた後、弟子たちが主の御心を成すのです。弟子たちは、主の御心は何なのかを問い続け、聞き続けなくてはなりません。

 日本キリスト教会 憲法の前文の最後にはこうあります。「キリストのご支配に服し、聖なる公同の教会の本旨を実現するため、日本キリスト教会は憲法および規則を定める。」わたしたちの教会の本分は、主の御心の実現のために仕えることにあるのです。

 わたしたちは主の御心、神の御旨をよく考える必要があります。救いは主の御心によるのです。神のひとり子イエス キリストが世に遣わされたのも、神の御旨によるものです。
 けれど教会の会議では、この世の知恵やわたしたちの良識が優先されてしまうことが多々あります。わたしたちが必要と感じることが必要でない訳ではありません。けれど、神の民は主の御心を第一とし、主の御心を成すために召されたのです。

 今月末、わたしたちの教会は定期総会を開きます。そこで確認されなければならないことは、わたしたちの教会は主の御心を成すために仕えるということです。日本キリスト教会信仰の告白は、教会の務めに対して「主の委託により」と言っています。教会は、わたしたちがよいと思うことをするのではありません。そうではなく、主から委託されたこと、主の御心をなすのです。そして主に祝福されて歩むのです。
 この新しい1年が、神の御心をさらに知り、主と共に歩み、主にある喜び、希望が増し加えられることを願っています。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたは、わたしたちがあなたと共に歩み、あなたが与えてくださる救いに与り、喜び生きるようにと語りかけてくださいます。どうか語りかけてくださるあなたの御言葉を通してあなたを知っていくことができますように。信仰から信仰へと歩んでいけるよう聖霊の導きをお与えください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン