2020年1月26日(日) 主日礼拝
聖書:ヨハネによる福音書 4:35〜38(新共同訳)
イエスは弟子たちに語ります。「あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。」
「刈り入れまでまだ四か月もある」というのは「まだ慌てなくてもいい。焦らなくてもいい」ということを表す言い回しのようです。
それに対してイエスは「わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている」と言います。
イエスは伝道について話されます。
イエスの食べるものを探してきた弟子たちが「食事をどうぞ」と言ったとき、イエスはわたしの食べ物は「わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と言われました。イエスを遣わされた天の父の御心とは何か、その業とは何かをイエスが語られたのが、きょうの箇所です。
一言で言うと「伝道」がそれであると示されます。具体的に言うと、罪人をイエス キリストへと案内することが神の御心である、ということです。
イエスは「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」と言われます。わたしたちは「果たしてそうだろうか」と思います。中会でも大会でも「伝道の困難な時代」という言葉をよく聞きます。「本当に畑は刈り入れを待っているのだろうか」と思います。
おそらくここでは、イエスが考えておられる畑を弟子たちは畑だとは思っていません。イエスはサマリアの一人の女性と出会われ、彼女が他のサマリアの人たちにイエスを伝えました。けれど弟子たちには、サマリア人は他の民族と混交した純粋な神の民ではなく、イエスが話しておられても関心を持ちませんでした。
わたしたちは今、イエスの言葉を聞いて、自分にとって畑とは誰のことだと思われるでしょうか。自分に伝道するのを託されている人は誰だと考えているでしょうか。イエスはわたしたちに問いかけておられます。真剣に考えてみなくてはなりません。
続いてイエスは「既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている」と言います。「刈り入れる人」は伝道に仕える人です。牧師などの特定の人だけでなく、すべてのキリストの弟子、キリスト者を指しています。「報酬」とは神の祝福です。天に積まれる宝と言ってもいいかもしれません。そして「永遠の命に至る実」というのはキリストを信じて、永遠の命を受けた人を表します。
イエスは「既に」と言われました。既に刈り入れている人は誰なのでしょうか。弟子たちより先に神の御心に従って仕えたのは、福音書の人で言えば洗礼者ヨハネです。ヨハネが神の御心に従ってイザヤの預言を成就し「主の道を整え・・まっすぐに」したのです(ヨハネ 1:23、マタイ 3:3、マルコ 1:3、ルカ 3:4~6)。イエスはヨハネが整えた道を歩み、救い主としての業を成されました。イエスの弟子にはヨハネの弟子がいました。アンデレです(ヨハネ 1:40)。ヨハネに促されイエスに出会ったアンデレは、兄弟シモン ペトロをイエスの許へと連れてきました(ヨハネ 1:42)。
洗礼者ヨハネだけではありません。名の知られていない多くの神の民がいるのです。聖書に名前が出てくる、あるいは歴史に名を残す抜きん出た信仰者がいれば、神の救いの歴史が紡がれるのではありません。旧約の中にはいくつもの系図がありますが、そこに出てくる多くは誰か分からない人たちです。そういった無名の数え切れない信仰の民がいたからこそ、今に至るまで信仰は継承されてきたのです。
こうして主の御業が前進していくとき、イエスが言われた「種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ」ことが起こるのです。これは教会だけの話ではなく、巷でも『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざが言われていたようです。
イエスは言われます。「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。」伝道は自分の手柄にすることはできません。そもそもこの時サマリアの女性を導かれたのはイエス キリストご自身であって、弟子たちは何も関わっていませんし、誇ることはできません。信仰を与えるのは神の御業です。そして民は、神の救いの歴史の中で与えられた務めを果たすのです。
伝道は「他の人々が労苦し・・その労苦の実りにあずかっている」ものです。
しかし、わたしたちはしばしば自分で労苦し、その実りを自分で収穫したがるのです。教会が一番勘違いするのが伝道です。自分で収穫し、教会を大きくしようとする中で、伝道が困難な時代だと言い、伝道は割に合わない・コストパフォーマンスが低いと言いだし、伝道以外に教会の存在価値を見出そうとしてしまいます。
教会の第一の務めは「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ 14:6)と言われた「道」であるイエス キリストを伝え証しすることです。サマリアの女性がイエスと出会って罪の呪縛から解放されたように、神が愛しておられる一人ひとりがイエス キリストと出会うために仕えることです。
伝道は種まきです。良い土地か悪い土地か関係なく蒔くのです。自分で収穫することを考えずに蒔くのです。どのように蒔くのか。救いを祈り願いつつ、御言葉と祝福を蒔くのです。アブラハムが言われたように「祝福の源」(創世記 12:2)となって蒔くのです。神が無償で与えてくださったキリストの祝福と恵みを惜しみなく蒔くのです。神の国が到来するまで蒔くのです。
アブラハムは「あなたの子孫は天の星のようになる」(創世記 15:5)という神の約束が実現するのを見ませんでした。モーセもピスガの頂上から約束の地を見渡しましたが自分が入ることはありませんでした(申命記 34:1~4)。
自分で蒔いたものを自分で手に入れようという誘惑を捨てましょう。成果を気にするのを止めましょう。神から与えられたすべての関係に祝福を注ぎ、恵みを分かち合えるように神に祈り求めましょう。イサクやヤコブが子どもたちを祝福したように(創世記 27, 48章)祝福しましょう。
そうしていったとき、わたしたちは、終わりの日に、神の御前で蒔く人も刈る人も共に喜び、さらには神ご自身の「主人と一緒に喜んでくれ」(マタイ 25:21, 23)という喜びに与るのです。
伝道は、神の喜びへと続く業です。悔い改める一人の罪人のために、天には大きな喜びがあります(ルカ 15:7)。神はすべての人が救われることを望んでおられます(1テモテ 1:15)。神はあきらめておられません。だから神の愛と真実を信じて、救いを祈り求めていきましょう。愛する者、大切な人のために祈り続けましょう。
イエスは言われます。「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」
ハレルヤ
父なる神さま
わたしたちは罪ゆえにイエスの御心をなかなか受けとめることができません。聖霊を注ぎ、あなたの御業に仕えさせてください。どうかあなたと共に生きる喜びを与えてください
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:ヨハネによる福音書 4:35〜38(新共同訳)
イエスは弟子たちに語ります。「あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。」
「刈り入れまでまだ四か月もある」というのは「まだ慌てなくてもいい。焦らなくてもいい」ということを表す言い回しのようです。
それに対してイエスは「わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている」と言います。
イエスは伝道について話されます。
イエスの食べるものを探してきた弟子たちが「食事をどうぞ」と言ったとき、イエスはわたしの食べ物は「わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と言われました。イエスを遣わされた天の父の御心とは何か、その業とは何かをイエスが語られたのが、きょうの箇所です。
一言で言うと「伝道」がそれであると示されます。具体的に言うと、罪人をイエス キリストへと案内することが神の御心である、ということです。
イエスは「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」と言われます。わたしたちは「果たしてそうだろうか」と思います。中会でも大会でも「伝道の困難な時代」という言葉をよく聞きます。「本当に畑は刈り入れを待っているのだろうか」と思います。
おそらくここでは、イエスが考えておられる畑を弟子たちは畑だとは思っていません。イエスはサマリアの一人の女性と出会われ、彼女が他のサマリアの人たちにイエスを伝えました。けれど弟子たちには、サマリア人は他の民族と混交した純粋な神の民ではなく、イエスが話しておられても関心を持ちませんでした。
わたしたちは今、イエスの言葉を聞いて、自分にとって畑とは誰のことだと思われるでしょうか。自分に伝道するのを託されている人は誰だと考えているでしょうか。イエスはわたしたちに問いかけておられます。真剣に考えてみなくてはなりません。
続いてイエスは「既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている」と言います。「刈り入れる人」は伝道に仕える人です。牧師などの特定の人だけでなく、すべてのキリストの弟子、キリスト者を指しています。「報酬」とは神の祝福です。天に積まれる宝と言ってもいいかもしれません。そして「永遠の命に至る実」というのはキリストを信じて、永遠の命を受けた人を表します。
イエスは「既に」と言われました。既に刈り入れている人は誰なのでしょうか。弟子たちより先に神の御心に従って仕えたのは、福音書の人で言えば洗礼者ヨハネです。ヨハネが神の御心に従ってイザヤの預言を成就し「主の道を整え・・まっすぐに」したのです(ヨハネ 1:23、マタイ 3:3、マルコ 1:3、ルカ 3:4~6)。イエスはヨハネが整えた道を歩み、救い主としての業を成されました。イエスの弟子にはヨハネの弟子がいました。アンデレです(ヨハネ 1:40)。ヨハネに促されイエスに出会ったアンデレは、兄弟シモン ペトロをイエスの許へと連れてきました(ヨハネ 1:42)。
洗礼者ヨハネだけではありません。名の知られていない多くの神の民がいるのです。聖書に名前が出てくる、あるいは歴史に名を残す抜きん出た信仰者がいれば、神の救いの歴史が紡がれるのではありません。旧約の中にはいくつもの系図がありますが、そこに出てくる多くは誰か分からない人たちです。そういった無名の数え切れない信仰の民がいたからこそ、今に至るまで信仰は継承されてきたのです。
こうして主の御業が前進していくとき、イエスが言われた「種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ」ことが起こるのです。これは教会だけの話ではなく、巷でも『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざが言われていたようです。
イエスは言われます。「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。」伝道は自分の手柄にすることはできません。そもそもこの時サマリアの女性を導かれたのはイエス キリストご自身であって、弟子たちは何も関わっていませんし、誇ることはできません。信仰を与えるのは神の御業です。そして民は、神の救いの歴史の中で与えられた務めを果たすのです。
伝道は「他の人々が労苦し・・その労苦の実りにあずかっている」ものです。
しかし、わたしたちはしばしば自分で労苦し、その実りを自分で収穫したがるのです。教会が一番勘違いするのが伝道です。自分で収穫し、教会を大きくしようとする中で、伝道が困難な時代だと言い、伝道は割に合わない・コストパフォーマンスが低いと言いだし、伝道以外に教会の存在価値を見出そうとしてしまいます。
教会の第一の務めは「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ 14:6)と言われた「道」であるイエス キリストを伝え証しすることです。サマリアの女性がイエスと出会って罪の呪縛から解放されたように、神が愛しておられる一人ひとりがイエス キリストと出会うために仕えることです。
伝道は種まきです。良い土地か悪い土地か関係なく蒔くのです。自分で収穫することを考えずに蒔くのです。どのように蒔くのか。救いを祈り願いつつ、御言葉と祝福を蒔くのです。アブラハムが言われたように「祝福の源」(創世記 12:2)となって蒔くのです。神が無償で与えてくださったキリストの祝福と恵みを惜しみなく蒔くのです。神の国が到来するまで蒔くのです。
アブラハムは「あなたの子孫は天の星のようになる」(創世記 15:5)という神の約束が実現するのを見ませんでした。モーセもピスガの頂上から約束の地を見渡しましたが自分が入ることはありませんでした(申命記 34:1~4)。
自分で蒔いたものを自分で手に入れようという誘惑を捨てましょう。成果を気にするのを止めましょう。神から与えられたすべての関係に祝福を注ぎ、恵みを分かち合えるように神に祈り求めましょう。イサクやヤコブが子どもたちを祝福したように(創世記 27, 48章)祝福しましょう。
そうしていったとき、わたしたちは、終わりの日に、神の御前で蒔く人も刈る人も共に喜び、さらには神ご自身の「主人と一緒に喜んでくれ」(マタイ 25:21, 23)という喜びに与るのです。
伝道は、神の喜びへと続く業です。悔い改める一人の罪人のために、天には大きな喜びがあります(ルカ 15:7)。神はすべての人が救われることを望んでおられます(1テモテ 1:15)。神はあきらめておられません。だから神の愛と真実を信じて、救いを祈り求めていきましょう。愛する者、大切な人のために祈り続けましょう。
イエスは言われます。「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」
ハレルヤ
父なる神さま
わたしたちは罪ゆえにイエスの御心をなかなか受けとめることができません。聖霊を注ぎ、あなたの御業に仕えさせてください。どうかあなたと共に生きる喜びを与えてください
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン