2019年1月27日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマ 8:1〜4(新共同訳)
「従って」とパウロは言います。
パウロは3章(21節)からずっと「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(3:22)について語ってきました。
言葉を尽くしてこれでもかと言うくらい「キリストによる義」を語ってきたことを踏まえてパウロは言います。「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」。
「キリスト・イエスに結ばれている」とは、キリストを救い主と信じる信仰によってイエス キリストご自身のただ中に入れられていることを表しています。
ここは新約が書かれているギリシャ語では「エン クリストォ イエスゥ」英語だと「in Christ Jesus」一番新しい「聖書協会共同訳」では「キリスト・イエスにある者」となっています。これは、イエス キリストご自身、つまりイエス キリストの救いの恵みに頭のてっぺんから足の先まで、前も後も、右も左も、上も下も、イエス キリストに包まれていることを表します。一部分でイエスとつながっているのではなく、自分という存在が丸ごと、欠けなくキリストの救いに与っているのです。自分自身のどこをとってもキリストの救いが満ちているのです。キリストの救いが及ばないところはもはやわたしにはないのです。だから「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められる」ことがないのです。イエス キリストによって罪が贖われ、義とされたのです。
パウロはさらに言います。「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」。
すべての人に影響を及ぼす法則というものがあります。たとえば重力の法則。この地上で生きる限り、すべての人が重力の法則の影響下で生きています。同様にすべての人に明らかなのが、死の法則です。すべての人が必ず死を迎えます。そして、信仰を持つ人、聖書を神の言葉と信じる人なら分かるのが、罪と死の法則であり、命をもたらす霊の法則です。
聖書に導かれる人は、死が罪によってもたらされたことを知っています。神と共に歩めなくなった罪を抱えてしまったがゆえに、命の源である神から離れてついに死に至るのです。善人であっても誠実な人、親切な人であっても、罪を抱えてしまったがゆえに死に至るのです。
その誰をも支配する罪と死の法則を打ち破るのが、命をもたらす霊の法則です。この命をもたらす霊とは、聖霊のことです。聖霊なる神が、わたしたちをイエス キリストのただ中へ導き入れ、永遠の命に至らせてくださいます。ですから、この罪と死の法則に勝利する法則は「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則」と呼ばれているのです。命をもたらす霊、聖霊が働いてくださるとき、死から命へとわたしたちを支配するものが大転換するのです。
続けてパウロは言います。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」。
「肉の弱さのために律法がなしえなかったこと」とは、罪を取り除くことです。律法は罪を指摘します。そして罪の贖いが必要であることを教えてきました。旧約には数多くの贖いの規定があります。わたしたちは贖われなければならない罪人です。しかし、罪人が律法をなすことによって罪を取り除くことはできませんでした。罪がなくなるということは、神の御心に生きるということです。律法を自分の満足、自分の安心のために守っても、神の御心に生きることにはなりません。
この罪を取り除くことを、神は救いの御業としてなしてくださいました。神は、御子を人としてこの世に送り、人の罪を人となられた罪なきイエス キリストにおいて裁かれました。神が罪に決着をつけてくださったのです。神が罪を裁いて、けりをつけてくださったのです。
「それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした」。
律法の要求とは、神との正しい関係です。神と共にあり、神に依り頼み、神に導かれて生きることです。自分の善悪を離れて、神の御心を祈り求めるのです。そのために神は罪を裁き処断して、わたしたちを罪から解放してくださったのです。イエス キリストのただ中にあって神の子とされ、新しくされて、イエス キリストのただ中で恵みから恵みへと生きるのです。神の恵みの中にあってこそ、律法の要求=神の御心は満たされるのです。
教会は、恵みに満たされ神との正しい関係を喜んで歩めるように、御言葉によって自らを整えていきます。礼拝を中心に、祈りの訓練、御言葉の学び、伝道、交わりをなしていきます。すべては、神の御業に応えて、恵みに満たされ神との正しい関係を喜んで歩むためであり、神がわたしたちと共にいてくださることを感謝し、神を喜び讃えるためです。
わたしたちはこの後、定期総会を持ちます。そこにおいて確認されることは、神の御心に従って歩む、ということです。わたしたちの教会ですが、わたしたちの自由にすることはできません。教会もわたしたち自身も、神のものです。キリストがこの教会の、そしてわたしたちの主であります。神に献げ、神に従って歩むのです。
神と共にあるところに救いがあり幸いがある、それこそが教会が証しする事柄、教会に託された聖なる務めなのです。
ハレルヤ
父なる神さま
わたしたち一人一人を、そしてわたしたちの教会を、イエス キリストのただ中に置いてください。キリストの恵みに包まれて、感謝と喜びをもって歩ませてください。父・子・聖霊なる神を証しし、救いの御業のために清め整えてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書箇所:ローマ 8:1〜4(新共同訳)
「従って」とパウロは言います。
パウロは3章(21節)からずっと「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(3:22)について語ってきました。
言葉を尽くしてこれでもかと言うくらい「キリストによる義」を語ってきたことを踏まえてパウロは言います。「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」。
「キリスト・イエスに結ばれている」とは、キリストを救い主と信じる信仰によってイエス キリストご自身のただ中に入れられていることを表しています。
ここは新約が書かれているギリシャ語では「エン クリストォ イエスゥ」英語だと「in Christ Jesus」一番新しい「聖書協会共同訳」では「キリスト・イエスにある者」となっています。これは、イエス キリストご自身、つまりイエス キリストの救いの恵みに頭のてっぺんから足の先まで、前も後も、右も左も、上も下も、イエス キリストに包まれていることを表します。一部分でイエスとつながっているのではなく、自分という存在が丸ごと、欠けなくキリストの救いに与っているのです。自分自身のどこをとってもキリストの救いが満ちているのです。キリストの救いが及ばないところはもはやわたしにはないのです。だから「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められる」ことがないのです。イエス キリストによって罪が贖われ、義とされたのです。
パウロはさらに言います。「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」。
すべての人に影響を及ぼす法則というものがあります。たとえば重力の法則。この地上で生きる限り、すべての人が重力の法則の影響下で生きています。同様にすべての人に明らかなのが、死の法則です。すべての人が必ず死を迎えます。そして、信仰を持つ人、聖書を神の言葉と信じる人なら分かるのが、罪と死の法則であり、命をもたらす霊の法則です。
聖書に導かれる人は、死が罪によってもたらされたことを知っています。神と共に歩めなくなった罪を抱えてしまったがゆえに、命の源である神から離れてついに死に至るのです。善人であっても誠実な人、親切な人であっても、罪を抱えてしまったがゆえに死に至るのです。
その誰をも支配する罪と死の法則を打ち破るのが、命をもたらす霊の法則です。この命をもたらす霊とは、聖霊のことです。聖霊なる神が、わたしたちをイエス キリストのただ中へ導き入れ、永遠の命に至らせてくださいます。ですから、この罪と死の法則に勝利する法則は「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則」と呼ばれているのです。命をもたらす霊、聖霊が働いてくださるとき、死から命へとわたしたちを支配するものが大転換するのです。
続けてパウロは言います。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」。
「肉の弱さのために律法がなしえなかったこと」とは、罪を取り除くことです。律法は罪を指摘します。そして罪の贖いが必要であることを教えてきました。旧約には数多くの贖いの規定があります。わたしたちは贖われなければならない罪人です。しかし、罪人が律法をなすことによって罪を取り除くことはできませんでした。罪がなくなるということは、神の御心に生きるということです。律法を自分の満足、自分の安心のために守っても、神の御心に生きることにはなりません。
この罪を取り除くことを、神は救いの御業としてなしてくださいました。神は、御子を人としてこの世に送り、人の罪を人となられた罪なきイエス キリストにおいて裁かれました。神が罪に決着をつけてくださったのです。神が罪を裁いて、けりをつけてくださったのです。
「それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした」。
律法の要求とは、神との正しい関係です。神と共にあり、神に依り頼み、神に導かれて生きることです。自分の善悪を離れて、神の御心を祈り求めるのです。そのために神は罪を裁き処断して、わたしたちを罪から解放してくださったのです。イエス キリストのただ中にあって神の子とされ、新しくされて、イエス キリストのただ中で恵みから恵みへと生きるのです。神の恵みの中にあってこそ、律法の要求=神の御心は満たされるのです。
教会は、恵みに満たされ神との正しい関係を喜んで歩めるように、御言葉によって自らを整えていきます。礼拝を中心に、祈りの訓練、御言葉の学び、伝道、交わりをなしていきます。すべては、神の御業に応えて、恵みに満たされ神との正しい関係を喜んで歩むためであり、神がわたしたちと共にいてくださることを感謝し、神を喜び讃えるためです。
わたしたちはこの後、定期総会を持ちます。そこにおいて確認されることは、神の御心に従って歩む、ということです。わたしたちの教会ですが、わたしたちの自由にすることはできません。教会もわたしたち自身も、神のものです。キリストがこの教会の、そしてわたしたちの主であります。神に献げ、神に従って歩むのです。
神と共にあるところに救いがあり幸いがある、それこそが教会が証しする事柄、教会に託された聖なる務めなのです。
ハレルヤ
父なる神さま
わたしたち一人一人を、そしてわたしたちの教会を、イエス キリストのただ中に置いてください。キリストの恵みに包まれて、感謝と喜びをもって歩ませてください。父・子・聖霊なる神を証しし、救いの御業のために清め整えてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン