聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 8:1〜4

2019-01-28 08:50:37 | 聖書
2019年1月27日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマ 8:1〜4(新共同訳)


 「従って」とパウロは言います。
 パウロは3章(21節)からずっと「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義」(3:22)について語ってきました。
 言葉を尽くしてこれでもかと言うくらい「キリストによる義」を語ってきたことを踏まえてパウロは言います。「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」。

 「キリスト・イエスに結ばれている」とは、キリストを救い主と信じる信仰によってイエス キリストご自身のただ中に入れられていることを表しています。
 ここは新約が書かれているギリシャ語では「エン クリストォ イエスゥ」英語だと「in Christ Jesus」一番新しい「聖書協会共同訳」では「キリスト・イエスにある者」となっています。これは、イエス キリストご自身、つまりイエス キリストの救いの恵みに頭のてっぺんから足の先まで、前も後も、右も左も、上も下も、イエス キリストに包まれていることを表します。一部分でイエスとつながっているのではなく、自分という存在が丸ごと、欠けなくキリストの救いに与っているのです。自分自身のどこをとってもキリストの救いが満ちているのです。キリストの救いが及ばないところはもはやわたしにはないのです。だから「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められる」ことがないのです。イエス キリストによって罪が贖われ、義とされたのです。

 パウロはさらに言います。「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」。
 すべての人に影響を及ぼす法則というものがあります。たとえば重力の法則。この地上で生きる限り、すべての人が重力の法則の影響下で生きています。同様にすべての人に明らかなのが、死の法則です。すべての人が必ず死を迎えます。そして、信仰を持つ人、聖書を神の言葉と信じる人なら分かるのが、罪と死の法則であり、命をもたらす霊の法則です。
 聖書に導かれる人は、死が罪によってもたらされたことを知っています。神と共に歩めなくなった罪を抱えてしまったがゆえに、命の源である神から離れてついに死に至るのです。善人であっても誠実な人、親切な人であっても、罪を抱えてしまったがゆえに死に至るのです。
 その誰をも支配する罪と死の法則を打ち破るのが、命をもたらす霊の法則です。この命をもたらす霊とは、聖霊のことです。聖霊なる神が、わたしたちをイエス キリストのただ中へ導き入れ、永遠の命に至らせてくださいます。ですから、この罪と死の法則に勝利する法則は「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則」と呼ばれているのです。命をもたらす霊、聖霊が働いてくださるとき、死から命へとわたしたちを支配するものが大転換するのです。

 続けてパウロは言います。「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」。
 「肉の弱さのために律法がなしえなかったこと」とは、罪を取り除くことです。律法は罪を指摘します。そして罪の贖いが必要であることを教えてきました。旧約には数多くの贖いの規定があります。わたしたちは贖われなければならない罪人です。しかし、罪人が律法をなすことによって罪を取り除くことはできませんでした。罪がなくなるということは、神の御心に生きるということです。律法を自分の満足、自分の安心のために守っても、神の御心に生きることにはなりません。
 この罪を取り除くことを、神は救いの御業としてなしてくださいました。神は、御子を人としてこの世に送り、人の罪を人となられた罪なきイエス キリストにおいて裁かれました。神が罪に決着をつけてくださったのです。神が罪を裁いて、けりをつけてくださったのです。

 「それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした」。
 律法の要求とは、神との正しい関係です。神と共にあり、神に依り頼み、神に導かれて生きることです。自分の善悪を離れて、神の御心を祈り求めるのです。そのために神は罪を裁き処断して、わたしたちを罪から解放してくださったのです。イエス キリストのただ中にあって神の子とされ、新しくされて、イエス キリストのただ中で恵みから恵みへと生きるのです。神の恵みの中にあってこそ、律法の要求=神の御心は満たされるのです。

 教会は、恵みに満たされ神との正しい関係を喜んで歩めるように、御言葉によって自らを整えていきます。礼拝を中心に、祈りの訓練、御言葉の学び、伝道、交わりをなしていきます。すべては、神の御業に応えて、恵みに満たされ神との正しい関係を喜んで歩むためであり、神がわたしたちと共にいてくださることを感謝し、神を喜び讃えるためです。

 わたしたちはこの後、定期総会を持ちます。そこにおいて確認されることは、神の御心に従って歩む、ということです。わたしたちの教会ですが、わたしたちの自由にすることはできません。教会もわたしたち自身も、神のものです。キリストがこの教会の、そしてわたしたちの主であります。神に献げ、神に従って歩むのです。
 神と共にあるところに救いがあり幸いがある、それこそが教会が証しする事柄、教会に託された聖なる務めなのです。

ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたち一人一人を、そしてわたしたちの教会を、イエス キリストのただ中に置いてください。キリストの恵みに包まれて、感謝と喜びをもって歩ませてください。父・子・聖霊なる神を証しし、救いの御業のために清め整えてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ヨハネによる福音書 1:29〜34

2019-01-25 11:06:37 | 聖書
2019年1月20日(日) 主日礼拝  
聖書箇所:ヨハネ 1:29〜34(新共同訳)

 洗礼者ヨハネは、イエスを証しするため、神から遣わされました(1:5)。
 ある日(ファリサイ派の人々の質問に答えた翌日)、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言います。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」。

 創世記にアブラハムが神から、イサクを焼き尽くす献げ物とするように命じられた出来事が記されています。アブラハムが命じられたとおりイサクを献げるため屠ろうとしたとき、天から主の御使いがアブラハムに語りかけます。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」。アブラハムは目を凝らして見回しました。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていたのです。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげました(創世記 22:1~14)。
 このイサクの命を贖うために神が用意してくださった雄羊こそ、イエス キリストを指し示すものでした。イエス キリストがこの世に来られる遙か昔に、神が救いの御業を証しし、その命を献げて罪人の救いを成し遂げる救い主を指し示されたのです。
 そして預言者イザヤが「そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。・・屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった」(イザヤ 53:6, 7)と語ったのは、イエス キリストのことでした。

 そして洗礼者ヨハネもまた、イエス キリストを指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証しをしたのです。
 さらにヨハネは語ります。「『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである」。
 ヨハネは、自分の後から救い主が登場することを知っていました。これはまさしく神の啓示によるものです。ヨハネは自分が救い主ではないことを知っていました。自分の務めは、救い主を証しすることであることを知っていました。そして救い主は、アブラハムに示され、イザヤに告げられた方であり、初めから神と共におられた方であることを知っていました。

 けれど、イエスが救い主として活動を始め、世に登場するのはヨハネよりも後でしたから、ヨハネは「わたしはこの方を知らなかった」と告白します。
 ヨハネは、イエスに出会って、語らい、共に働いたからイエスを理解したのではありません。神から啓示を受けたので、ヨハネは旧約で預言され示された救い主を知っており、救い主を証しする自分の務めを知っていたのです。
 そして、彼がなしていた洗礼も救い主を指し示す証しです。「この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た」。神の許に立ち帰り、神と共に歩むには、罪を洗い清めて頂く必要があること、キリストの十字架の恵みに与らねばならないことを、ヨハネは悔い改めの洗礼を授けることで証ししていたのです。

 そしてヨハネは証ししました。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

 このイエスに霊が下る場面を、ヨハネによる福音書は記しておりません。洗礼者ヨハネの弟子たちが、自分たちの先生がイエスに洗礼を授けてあげたと言って、イエスに従う躓きになると考えたのかもしれません。一番古く編纂されたと考えられているマルコによる福音書は、イエスの洗礼の場面を次のように記しています。
 「イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」。(マルコ 1:9~11)
 ヨハネはこれを目の前で見たのです。だから「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」と証ししたのです。

 ヨハネの語った言葉の中に「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた」とありますが、これが、神がヨハネに語られた啓示です。神ご自身が教えてくださるのです。その点では、イエスの洗礼、そして「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」というのも啓示です。
 わたしたちの信仰は、神がなしてくださる救いの御業、それを教える神の御言葉、つまり神の御業と御言葉という啓示によって導かれているのです。信仰は神ご自身によって与えられ、育まれ、導かれていくのです。神の御業、御言葉によってわたしたちの信仰の目は開かれていくのです。

 ヨハネが受けた啓示に「その人が、聖霊によって洗礼を授ける人」とありました。水の洗礼は目に見えるしるしです。罪を洗い流し、清められ、神の民として新しく生まれ変わることを想起させる目に見るしるしです。その本質は、聖霊なる神の御業によって、イエス キリストと一つに合わせられ、キリストの十字架と復活の恵みに与ることです。父・子・聖霊なる神との命の交わりに入れられ、神の子とされることです。

 イエスはこのヨハネによる福音書で「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(14:26)と言われ、復活してから弟子たちに「息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される』」(20:22, 23)と言われました。まさしくイエス キリストこそ、聖霊によって洗礼を授けるまことの救い主なのです。

 教会も、神から啓示により信仰を与えられ、洗礼者ヨハネと同じく、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」とまことの救い主イエス キリストを証しし、指し示してきたのです。
 どうかイエス キリストを信じ、証しするこの教会に集う皆さんが、キリストの救いに与り、キリストにある喜び、平安、希望に満たされていきますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 どうかこの教会に集うわたしたち一人ひとりに聖霊を注ぎ、父・子・聖霊なる神の命の交わり、愛の交わりにいれてくださいますように。礼拝に集うごとに、あなたと出会い、心新たにあなたを知ることができますように。キリストの救いの中で、あなたの子として育み導いていってくださいますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン