聖書の言葉を聴きながら

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マタイによる福音書 2:13〜23

2019-12-30 22:08:41 | 聖書
2019年12月29日(日) 主日礼拝  降誕節後第1
聖書:マタイ 2:13〜23(新共同訳)


 神は、御子イエス キリストが生まれた時、東の方から異邦人である占星術の学者たちを救い主のもとへと導いてこられました。すべての人がキリストにあって救われることの先駆けとして、神はまず異邦人である占星術の学者たちをキリストの許へ導かれました。学者たちが生まれたばかりのキリストに会い、礼拝を済ませると、神は彼らの夢に現れて「ヘロデのところへ帰るな」との導きを与えました。
 これまで、星によって導かれてきた学者たちでありましたが、キリストのもとへ導かれますと、今度は占星術によってではなく、神自ら夢で語られるようになったのです。キリストとの出会いが、そして礼拝が、異邦人である彼らを真の神へと導くのです。学者たちは、ヘロデの悪意を全く知らずにいましたけれども、神の御告げにより、神の御業を阻もうとする悪意を避け、全世界の王と出会った喜びに満たされて自分たちのふるさとへと帰って行ったのです。

 学者たちが帰った後、神は今度はヨセフの夢に現れて語られました。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
 聖書は淡々と出来事を記しますが、ヨセフにとりましては実に大変なことです。キリストがマリアの胎に宿られた時もそうでしたが、ヨセフは大きな重荷を負うことを命じられたのです。生まれたばかりの子供と妻とをつれてエジプトヘ行け、と言われたのですから。
 400kmを超える旅です。もちろん歩いて行くわけです。相当な困難が予想されます。けれどヨセフには、躊躇は許されません。この時実は、キリストを襲う危機は、まだ現実のものとはなっていませんでした。回りの人には、なぜ彼が生まれたばかりの幼子と出産を終えたばかりの妻を運れて旅立たねばならぬのか理解できなかったことでしょう。これは、ノアが神の御告げを受けて箱舟を作った出来事に似ています。そしてさらに、神は「わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」と言われるのです。そこが気に入ったら留まりなさい、というのではありません。気に入ろうと気に入るまいとわたしが戻れと言うまでそこにいなさい、と神は言われるのです。ヨセフには、ただ従うことが求められています。
 マタイによる福音書は、ここでノアや出エジプトとのつながりを示そうとしているように思います。

 神がお語りになるとき、それはわたしたちを命へ、祝福へと導こうとしておられるときです。これは旧約の預言者のときもそうでした。イザヤもエレミヤもエゼキエルも、皆激しくイスラエルの罪を責めましたが、それは、神がイスラエルがこのまま罪を犯し続け、減びへとついには至ってしまうことをよしとされなかったために、預言者を通して強く悔い改めを求められたのです。どんなに厳しく語られるときにも、神はわたしたちを命へと、祝福へと導こうとされているのです。ですから、わたしたちに求められていることは、神の御言葉に従うことなのです。
 神のなさることは時としてわたしたちの思いをはるかに超えております。わたしたちは平凡に、穏やかに生きていければそれでいいと思っているのに、神はなぜこのような事をなさるのだろうか、と戸惑いを覚えます。そして、神の御言葉に従って行こうとするとき、それは相当な勇気を必要とするように思えます。けれど、聖書がわたしたちに語っておりますことは、神のなさること、そして神の御言葉はわたしたちを命と祝福へと導くものである、ということなのです。

 神はわたしたちを救い、命へと導こうとされますけれども、罪は何とかして神とわたしたちを引き離し、神の御業を妨げようと致します。ヘロデの行為もそうした罪の一つでした。ヘロデは、とても猜疑心の強い人物でした。彼は自分の地位を危うくするのではないかという疑いを抱くと、次々と人を殺しました。王位につくと間も無く、最高議会の議員たちを殺し、ついで議会関係者を300人殺しました。彼は、数人の妻によって10人近くの子供を得ましたが、ヘロデは、自分の王位を脅かすと見られる人物を次々と殺していきました。最愛の妻(マリアンヌ)も、姑(アレキサンドラ)も、3人の息子(アレクサンデル、アンティパル、アリストブロス)もです。この猜疑心の強い、残忍な王が学者たちにだまされた事が分かると大いに怒った、という事は容易に想像のつくことです。
 ヘロデ王は、既に学者たちに星の現れた時について詳しく聞いていたので、そこから計算して2才以下の男の子を一人残らず殺せば、自分の地位を脅かすユダヤ人の王を消し去ることができるはずだと考えました。これによってベツレヘムとその周辺の子どもたちが20人から30人殺されたのではないかと、考えられています。神に従おうとせず、自分の保身しか考えず、神から離れて自分の思いのままに生きていこうとする罪の恐ろしい結果を見ます。

 このような悲惨な出来事に直面致しますとわたしたちは神の存在を疑いたくなります。なぜわたしたちを愛し、救おうとしておられる神がいるのにこのような事が起こるのだろうか。わたしたちは自問自答します。けれども、神がいないのでこのような悲惨な出来事が起こるのではなく、神に背き、神から離れて生きていこうとするわたしたち人間の罪が悲劇を引き起こすのです。神はこのような恐ろしい人間の罪がご自身の御業の上に振り向けられても、なお人間を裁き減ぼし尽くすことなく、わたしたちを救おうとしてヨセフに命じてイエスをエジプトヘと導かれるのです。わたしたちは、このような悲劇に耐えていないで神がすぐにも審きをなさればいいのに、と思わずにはいられません。もちろん、神はこの出来事を悲しまれないわけではありませんし、子を失った母の悲しみを知らないわけではありません。そうではなく、誰よりもその悲しみを知っておられるので、神はこの上ない忍耐をもって審きと滅びではなく、命と祝福へとわたしたちを導こうとされるのです。だからこそ今、神はそのひとり子を十字架の死へ向けてこの世にお送りくださったのです。

 神はヘロデの死後、ヨセフをガリラヤのナザレヘと導かれました。父ヘロデ同様残虐な王アルケラオがユダヤを治めていたからです。
 このガリラヤという所は、イスラエルの北のはずれの地方で、神の民よりはむしろ異邦人との関係の方が強い地方です。そしてナザレという町は、旧約には名前が出てこない小さな町です。ですから、新約では「メシアはガリラヤから出るだろうか」(ヨハネ 7:41)だとか「ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」(ヨハネ 7:52)と言われていましたし、そのガリラヤ人の間でも「ナザレから、何の良いものが出ようか」と言われているような所でした。
 ですから、23節の「彼はナザレの人と呼ばれる」という言葉の意味は、イエスは回りの人から蔑まれる事になるだろう、という意味です。わたしたちは、自分たちが主と仰いでいるお方をもう一度よく見つめ直しましょう。真の王としてこの世に来られたのに、華々しくもなく、きらびやかでもなく、小さな町でひっそりとお生まれになった。生まれたばかりで憎しみを受け、命を狙われ、祖国を追われ他国へと逃げなければならない。民を救うために働かれたにも関わらず、理解されず、蔑まれる。そしてついには、犯罪人として十字架につけられ殺されてしまうお方であります。
 けれども、このお方の生まれた時からの苦難がわたしたちの救いのためのものなのです。イエス キリストは、このような罪の憎しみや試みや蔑みが初めからあることを承知の上で、救い主としての業を成し遂げるためにこの世に来られたのです。わたしたちを一切の罪の重荷から救い出すために、自らその重荷をすべて負ってくださったのです。
 だから、わたしたちはキリストの誕生を祝うのです。イエスに対して「誕生日、おめでとう」と言うのではなくて、「イエス様が生まれて、良かった」と言って、互いに喜びあい、互いに祝い合うのです。

 どのような人間の罪があろうとも、決して見捨てず、何としても救おうとしてくださる神がいてくださるかぎり、わたしたちには希望があるのです。どのような悪や憎しみ、試みや蔑みがあろうとも、わたしたちの救いのために来てくださるイエス キリストがいてくださる限り、わたしたちは救いを見ることができるのです。神が語り、約束されたこと、神の御心は、必ず成し遂げられ、成就するのです。

ハレルヤ

父なる神さま
 あなたはわたしたちを救うために、罪の困難の中にイエス キリストを遣わされました。罪の闇の中に光として来られた救い主を仰ぎ見ることができますように。どのような罪もあなたの御業を妨げることはできず、あなたの救いがなされることを知ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

マタイによる福音書 2:1〜12

2019-12-22 23:00:53 | 聖書
2019年12月22日(日) 主日礼拝  降誕節主日
聖書:マタイ 2:1〜12(新共同訳)


 きょうはイエス キリストの誕生を記念する降誕節、クリスマスの礼拝です。ご存じの通り、クリスマスは12月25日です。正確には、イエスがお生まれになった頃、ユダヤの一日は日没から始まり、翌日の日没までです。ですから12月24日の日没から、12月25日の夕方日が沈むまでがクリスマスです。
 日本の場合、12月25日が休日ではないので、25日の直前の日曜日に降誕節礼拝を守っています。

 今年はマタイによる福音書からイエス キリスト誕生の話を聞いてまいります。
 キリストというのは、ヘブライ語のメシアのギリシャ語訳です。メシアというのは「油注がれた者」という意味で、祭司や王などが任職されるときに油を注がれました。時代を経る中で、神が最後に立てられる救い主を表すようになりました。
 ですからイエス キリストというのは、イエスはキリスト=救い主です、という意味で、苗字と名前ではありません。

 救い主の誕生は、神の民が待ち望んでいた事柄でした。しかし、ほとんどの人はイエス キリストの誕生を知りませんでした。ここにイエス キリストの誕生を祝おうという異邦人がやって来ました。それは、東の方から来た占星術の学者たちでした。この学者たちが、一体どこの国から来たのか、一体何人だったのか、聖書はそれを語りません。
 占星術と言いましても、現在のものとは随分違いまして、この人たちは哲学、薬学、自然科学に秀てており、祭司の務めを果たし、占いをし、夢を解いていました。古代オリエントの人たちは、星の運行は一定していて、宇宙の秩序を表わしていると考えていました。そこに突然明るい星が現れたり、特別な現象が現れると、それは神が何か特別なことを啓示しているのだと考えられていました。

 不思議なことに、イエスがお生まれになった頃、世界中に王を待ち望む気運が満ちていました。スエトニウスやタキトゥス、ヨセフスといった当時の歴史を記した人々がそのことを書いています。
 そこで学者たちは、星によって示されたのは、ユダヤ人の王というだけでなく、全人類を治める真の王がこの世にお生まれになったと考えました。ですから学者たちは、今お生まれになった真の王によって待ち望んでいた真の平和が実現することを思い、この王の誕生を祝うために遠くの地から旅をして来たのです。
 この学者たちは、ユダヤヘはやってまいりましたが、ユダヤのどこで自分たちが探している真の王がお生まれになったのかを知りませんでした。ですから彼らは、エルサレムヘやって釆て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と尋ねたのです。彼らにしてみれば、自分たちがはるばる旅して来たようなことをユダヤ人自身が知らないなどというふうには思わなかったのです。

 しかし、学者たちのこの言葉は、ヘロデ王に、そしてエルサレムの人々に不安を抱かせました。ヘロデ王にとりましては、4節にありますように「メシア」つまりユダヤ人が待ち望んでいる救い主の出現でした。ヘロデは、このメシアのために革命が起きて、ヘロデ家の王位が覆されるのを恐れました。
 このヘロデ王は、通称「ヘロデ大王」と呼ばれ(紀元前40年にローマの元老院によってユダヤ王に任ぜられ、紀元前4年に没するまでその地位にありました)、政治的に優れた手腕を持っており、パレスチナにこれまでにない平和と秩序をもたらしました。エルサレム神殿の再建に着手したり、飢饅の際には自分の金の皿をとかして難民のために穀物を購入したりしました。
 しかし、彼の性格には致命的な欠点がありました。それは異常なほどに猜疑心が強かったのです。彼は、晩年には「殺意に満ちた老人」と呼ばれるようにまでなり、誰かが自分の権力の座を脅かすように思えれば、すぐにその人を殺してしまいました。彼は自分の妻とその母を殺し、長男とほかの二人の息子も殺害してしまいました。時のローマ皇帝のアウグストゥスが「ヘロデの息子であるよりもヘロデの豚である方が安全だ」と皮肉ったほどです。

 このような人物が、国民が待ち望んでいる救い主が生まれたということを聞けば穏やかにしておれないのは当然です。そして、そのような王の性格を知っているエルサレムの人々もまた、メシアが誕生したという話を聞いてこの王がどのようなことをするかを思い、穏やかではいられませんでした。

 ヘロデ王は、祭司長たち律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれるのかと、彼らに問い質します。彼らは、旧約のミカ 5:2を引用して答えました。
 「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
 これはヘロデ王の不安と恐れを確かにするのに十分すぎる答えでした。ヘロデ王は(自分の近くにいる者たちを誰も信じていませんでしたので)秘かに学者たちを呼んで詳しく話を聞き、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言って送り出しました。

 わたしたちの救い主「キリストが来られた」という知らせを聞いたこの世は実に騒がしく、落ち着かないのです。「救い主が来てくださった」という喜びではなく、不安と恐れと悪意がキリストの回りを渦巻きだします。神の民は、救い主の誕生を喜びをもって迎えたわけではありませんでした。
 しかしながら、神がわたしたちに働き掛けてくださる時も似ているのではないでしょうか。神が御心を成そうとされるとき、その御心はわたしたちの願い・期待とは違っており、しばしば戸惑いや悩みが伴います。「今のままでよかったのに、神様は何でこんなことをなさるんだろう」とわたしたちはしばしば思います。しかし、神の恵みはわたしたちの思いを超えたところから、けれども確実にわたしたちのもとへ届くのです。この場合もそうだったのです。

 神は御子の誕生を祝うために、遠く思いもよらぬところから学者たちを導いてこられました。彼らはユダヤ人ではありません。彼らは聖書に記された唯一の神を信じ、礼拝していたわけでもありません。わたしたちにはなぜ彼らがと、疑問に思います。わたしたちには、神を信じ歩んできた旧約の民こそが神の救いの御業を誉め称えるのがふさわしいように思えます。けれど、神は異邦人を選び、導いてこられました。神の救いの御業は、ユダヤ人だけのものではなく、すべての人を招いていることを明らかにするためだったのかもしれません。そして、このわたしたちの思いを超えた神の御心によって、キリストがお生まれになった時と場所からはるかに遠く隔たったわたしたちも神の国に入れらるようになった訳です。

 神は、キリスト者だけを祝福し、用いられるのではありません。神は、すべての命の造り主、造られたすべてのものを顧みておられます。神は「すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(1テモテ 2:4)。聖書はイエス キリストを指して「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れ」た(テトス 2:11)と言っています。神の救いはすべてを包みます。神の救いの前で「この人は救われない」などとあきらめなければならない人は一人もいないのです。
 信仰は、人が救われているかいないかを判断するための目印ではありません。信仰は、与えられた者にとって恵みなのです。信仰によって、わたしたちは罪を抱えたわたしたちを救うためにひとり子をさえ遣わしてくださること、神がわたしたちを愛していてくださることを知ります。ですから信仰は恵みなのです。信仰のあるなしで、救われているかいないかを論じるのは正しくありません。

 この学者たちは聖書の中でここにしか記されていません。学者たちはこの後のキリストの生涯には何の関わりも持ちませんでしたし、聖書もこの後の学者たちのことは何も記しておりません。けれども神は救い主の誕生に当たって確かにこの学者たちをお用いになったのです。彼らは神の救いの御業に与かりましたし、大きな喜びを味わいました。喜びにあふれました。学者たちは、彼らがなりわいとしている星を見ることによってイエス キリストのもとへ導かれました。星を見るということはユダヤの習慣にはありませんでした。しかしこの時神は、この異教的な習慣を用いて学者たちを御子のもとへ導いてこられました。エルサレムで御言葉により、キリストのお生まれになるのはベツレヘムであると示された後も、神は学者たちを星によって導いていかれるのです。神は、一人一人を顧みていてくださり、一人一人にふさわしい仕方、不思議な仕方で導かれるのです。

 わたしたちは自分の考えで神を小さなものにしてしまってはなりません。自分の考えに神を閉じ込めてはいけません。
 今、この時間には教会に集うことなく、神を知らずに生活している人たちが数多くいます。けれども、そのような人たちも、神の御支配の外にいるのではありません。
 イエスがお生まれになったときと同じく、この世は救い主の誕生を喜び祝うよりも罪の混沌の中にあるように思えます。しかし神は、罪の闇の中に救いの光としてひとり子を遣わしてくださいました。神はすべてを、全世界をその御手の内に治めておられます。神はすべての出来事を御心に従って、神の国の到来、救いの完成に向けて世界を導いていてくださいます。
 わたしたちも、この神の確かな導きを信じて、真の王イエス キリストの誕生を祝って礼拝を捧げるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 真の救い主、真の王をお与えくださり感謝します。イエス キリストの恵みがすべての人に届きますように。どうか罪の世の空しさから救いだし、わたしたちも主にある喜びで満たしてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

マタイによる福音書 1:18〜25

2019-12-20 11:32:20 | 聖書
2019年12月18日(水) 祈り会
聖書:マタイ 1:18〜25(新共同訳)


 イエスの母マリアは、ヨセフという人と婚約していました。けれども、一緒になる前にマリアは身ごもっていることが明らかになりました。
 当時のユダヤにおける婚約は、婚姻届を出すのと同じようなものでした。ユダヤでは婚約するとき、二人以上の証人の立ち会いのもとで神の前で夫婦の誓約をし、婚約成立と同時に二人は法律上夫婦となりました。実際に共に暮らす生活は、その後約1年ほどしてから始められるのですが、婚約は結婚したという契約であり、ちゃんとした法的な手続きでした。ですからヨセフは19節で「夫ヨセフ」と呼ばれていますし、20節で天使は「妻マリア」と言っています。

 夫ヨセフは正しい人、つまり神の律法を重んじ、神に従って歩もうとする敬虔なユダヤ人でした。自分の知らぬところで身重になったマリアをそのまま妻として迎え入れることはできませんでした。
 マリアは、自分が聖霊によって身ごもったことを話したかもしれません。けれども、ヨセフには信じられませんでした。もしマリアが乱暴されたのであれば、そのことについて正しく裁く律法がありました。しかし、マリアがそういうことを何も言わないということは、ヨセフには彼女が姦淫したとしか考えられませんでした。
 旧約の申命記 22:13〜29には、婚約・結婚に関する律法が記されていますが、それによると婚約中の妻が姦淫によって身重になれば、神の民の中から恥ずべき罪を取り除くため必ず死刑に処せられねばならないことになっています。
 ヨセフは考えた末、秘かに離縁しようとしました。ヨセフはこのことを表ざたにしてマリアを死刑にすることを望まず、当時の離婚の手続きに基づいて離縁状を書いて去らせることにしました。

 マタイによる福音書が記す救い主の誕生の記事は、喜びに満ちていると言うよりも、「なぜこのようなことが」という戸惑いをわたしたちに与えます。聖霊によって身ごもったなどということは、ヨセフはもとよりわたしたちにも信じることのできない出来事です。

 おそらく正しい人ヨセフは、日々祈りを欠かすことはなかったでしょう。そんなヨセフにとってもどう祈ったらいいか分からなくなったのではないかと思います。彼がなおもこのことについて思い巡らしていたとき、主の天使が夢に現れて次のように語りました。
 「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
 神の御旨を計りきれず思い悩んでいるヨセフに対して、神は、天使を通して語りかけられます。

 わたしたちキリスト者も生きていく中で、「なぜこのようなことが」「なぜよりにもよってわたしにこのようなことが起こるのだろうか」受け止めがたい出来事に直面します。けれども、時が経って「なぜ自分は今こうしているのだろう」と考えたとき、自分の人生の節目を考えていったとき、神が今もこのわたしにも働きかけ、導いていてくださることを思います。神の御旨を理解するには弱く鈍い者であります。しかし、慈愛に富みたもう神が、救いへと、恵みへと導くためにことあるごとにわたしたちに働きかけ、語りかけ、導いてくださることを思います。

 そして、わたしたちを顧み、恵みを注がれる神が、ご自身の独り子を救い主として世に遣わされたのです。
 「救う」という言葉を聞くとき、わたしたちは何から救われたいと願うでしょうか。聖書は、罪から救うと語ります。聖書が語る罪というのは、わたしたちが普通考える悪いこととは少し違います。聖書が教える罪というのは、神を疎んじ、神に背を向け、離れることです。罪を抱えたわたしたちは、神に従うのではなく、自分の思い通りに生きていこうとします。そして、命の創造者である神から離れて死に向かって行ってしまうのです。ですから罪から救うと言うときには、神に立ち帰らせるということです。わたしたちの命の源であり、わたしたちが本来いるべき神の御許に導くということです。
 わたしたちは、わたしであることを止めることはできません。いつも神の思いとは違う自分の思いに捕らわれ、神から離れていきます。ですから、自分で自分を救うことはできません。ただ神と一つである神の独り子、そしてわたしたちの救いのために人となることさえも厭わなかった救い主によってのみ、わたしたちは罪から救われ、神へと立ち帰るのです。

 神が世に遣わされた救い主に、神自らイエスと名付けられました。イエスという名前は、イェホシュアというユダヤの名前のギリシャ風の読み方です。その名前の意味は、まさに「神は救う」「神は救いである」という意味なのです。23節によれば、このイエスはインマヌエル「神は我々と共におられる」と呼ばれるとも言われています。
 わたしたちの救いとは、インマヌエルの名前が示すように、神を疎んじ、神から離れていこうとするわたしたちに対して、神ご自身の方から近づいてきてくださり、わたしたちと常に共にいて神の御許へと導いてくださる神の御業のことなのです。
 わたしたちの望みは、神がわたしたちを如何なるときにも見捨て、見放すことなく共にいてくださるところにあります。神は、救い主を世に遣わされたその最初の時からそのことを明らかにされているのです。ヨセフやわたしたちの思いをはるかに越えていましたが、救いを実現するため、神はイエスを世に遣わされたのです。
 救い主は人となって世に来られました。これは、わたしたちを求め、わたしたちと共に生きようとされる神の愛の現れであり、イエスの救いがわたしたち自身のものとなるため人となられたのです。神とわたしは関係ないのではなく、神の救いの業は人の中に出来事となって起こるのです。
 しかもイエスはごく普通の幼子としてお生まれになりました。神が救いの業をなされるのですが、神はその救いの業をわたしたちの手の中に置かれるのです。わたしたちが救いを受け取ることができるように、神は救い主を人の手の中に委ねてくださるのです。

 神がわたしたちに与えてくださった信仰も、幼子のように頼りなく思えるかもしれません。しかし、神がわたしたちの救いのために与えてくださったものを受け入れていくとき、わたしたちの思いを越える救いの業がなされていくのです。ヨセフは命じられたとおりにマリアを妻として迎えました。自分の思いを越える神の御業でありましたが、神が救いのためになされる御業に心を開き、受け入れていくとき、神の大いなる恵みが出来事となり、わたしたちを包みます。神は今も救いの業をなされます。わたしたち一人ひとりにイエス キリストを救い主として与え、神が与えてくださった命を喜び、神と共に生きることを喜べるように導いておられます。ヨセフと共に神の語りかけに心を開くものは幸いです。救いはあなたのものです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちの救いは、わたしたちの思いを超えるあなたの御心にあります。どうかあなたの御心を受け取ることができるように、わたしたちの心を開いてください。わたしたちに語りかけてくださるあなたの御言葉に心を傾けていくことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

創世記 3:1〜24

2019-12-15 21:09:09 | 聖書
2019年12月15日(日) 主日礼拝  待降節 第3主日
聖書:創世記 3:1〜24(新共同訳)


 神は愛と祝福とをもって創造の御業を行い、その業を見て「良かった」と言われました。神はご自分にかたどって人を創造されました。神は人をエデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされました。神は人に、神と共に生きる者として務めを与えられました。そして共に務めを担い、共に生きる者として、女を造られました。

 世界は神の祝福に満ちていました。しかし、ここに罪が入り込んできます。
 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇でした。古代東方世界において、蛇は知恵の神、命の神とあがめられていました。わたしたちは、罪が賢さをきっかけとしていたことに注意しなければなりません。わたしたちはいつも賢さを求めています。失敗したり、損をしたりしないように、知識を求め賢さを求めています。
 わたしたちは賢くあろうとするとき、聖書に「主を畏れることは知恵の初め」(箴言 1:7)と書かれていることを思い出さなければなりません。

 蛇は女に言います。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」蛇は木の実を食べることの是非を問題にします。実は木の実はエデンの園の管理を任された人に与えられた特別なものです。神は創造の第六日にこう言われました。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう。」(1:29−30)木の実は人に与えられたものでした。

 蛇は、神から特別な務めを与えられている人に神の言葉を破らせたかったのです。管理を任された人が破ることによって、自分もまた神の言葉から自由に振る舞うことを願っていたのです。神からの自由、これが罪が求めるものです。
 賢さの最大の危険は、神よりも賢いと思ってしまうことです。神の言葉に従うよりももっと良い方法があると思ってしまうことです。
 女は蛇に答えます。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」女は「触れてもいけない」などと付け加えてしまいました。神の言葉は削っても、付け加えてもいけません。御言葉に人間の知恵で付け加えたり、この世の常識で薄めていけば、神の言葉は神の言葉でなくなってしまいます。だからわたしたちは神の言葉に丁寧に聴こうとしてきました。教会が牧師の招聘権を所有しているのは、教会は聖書から正しく神の御旨を聞く権利があることを、宗教改革の際に文字どおり命がけで勝ち取ったからです。
 あやふやな信仰につけ込んで蛇は誘惑します。だからわたしたちは神の言葉に聴き続けるのです。何度でも生涯続く限り神の言葉によって、神へと立ち返っていくのです。

 蛇は女に言います。「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」あたかも神が自分の特権を守るために禁じているかのように語ります。賢さはいつも同じように語りかけます。神の言葉の外にはもっと自由で素晴らしい世界が広がっていると。
 神のようになれる、それはとても魅力的な響きです。自分が今よりもずっと素敵な自分になれる気がします。女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していました。神の言葉を離れたときに陥る錯覚です。
 女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。
 確かに蛇の言うとおり死んでしまうことはありませんでした。目も開きました。善悪を知る者となりました。しかし、想像していたものとは違いました。
 善悪の知識の木の実を食べ、人は善悪を知る者となりました。しかし、一人ひとり違う善悪、互いに違う思いを抱いていることが分かったとき、人は裸の自分、ありのままの自分を見せられなくなりました。あなたとは違う考え、あなたの意見を否定する自分の考えを隠さなくてはならなくなりました。人は自分を隠すためにいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。あまりにも頼りない、しかしその頼りないものにすがらなければならなくなりました。
 違う思い、違う善悪は、不一致をもたらします。そして不一致は孤独と争いへと人を導きます。人とも神とも争い、ただ一人で死へと向かう孤独に陥ってしまいました。この出来事を教会では原罪と呼びます。

 けれど人は一致を求めます。罪を抱えるようになってしまいましたが、人は神にかたどって愛し愛される者、共に生きる者として造られているからです。

 ところで、蛇はなぜ女に語りかけたのでしょうか。助け手である女が相手のためを思って勧めさせ、罪へと導くためです。罪は賢さの中に潜み、それが自分にとっても相手にとっても良いことであることを装って近づいてくるのです。

 その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきました。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれます。「どこにいるのか。」
 罪人は、神に自分のすべてが知られることに耐えられません。罪人は神から身を隠そうとします。神が近づいてこられることが恐ろしいことになってしまいました。
 しかし、神はその罪人に呼びかけてくださいます。どこにいるのか知らないのではありません。何が起こったのか分からないのではありません。ご自身のもとに立ち返らせるため、神から隠れ神から逃げようとする罪から救い出すために語りかけてくださるのです。神の呼びかける声に応えるところから救いは始まるのです。

 けれど、神の前に進み出るとき、罪が露わになってきます。
 アダムは答えます。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」神は言われます。「お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。」アダムは答えました。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」主なる神は女に向かって言われます。「何ということをしたのか。」女は答えました。「蛇がだましたので、食べてしまいました。」

 罪が与えてくれた賢さが教えるのは、罪の責任を回避し転嫁することでした。アダムは女が与えたから食べた。女は蛇がだましたので食べた。女は、神がアダムと共に入るようにしてくださったもの。蛇は、神が造られた野の生き物。彼らの答えは、罪の責任は神にあるということを暗に言っているのです。
 神が女を造られなければ良かったのか。蛇を造らなければ良かったのか。賢さがあることが悪いのか。そもそも食べてはいけないのであれば、善悪の知識の木を園に生えさせたのが間違っていたのではないか。

 食べてはいけない善悪の知識の木を生えさせたのは、自由を与えるためです。自由を与えたのは、人が愛する者であるためです。自由のないところに愛はありません。そして人はただ言うとおりに動くロボットになってしまいます。そして神の御業を喜ぶ感動も失ってしまいます。
 神の御業は良かったのです。人がしなければならなかったのは、神と共にあり、神の言葉に留まること。そして罪を犯してしまったときには悔い改めること。悔い改めるとは、神のもとに立ち返ることです。罪の責任を回避し転嫁するのではなく、人は悔い改めなければならなかったのです。

 神は蛇を断罪されます。主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。/お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。」
 神は実際に罪を犯した者よりも、罪を犯すように誘惑した者を厳しく裁かれます。わたしたちは罪へと誘惑するのではなく、神と共に生きる道を示し、共に歩むよう励ます者でなければなりません。
 神は蛇の子孫と女の子孫の間に敵意を置かれました。この世にある限り、罪との戦いがあります。罪はいつもわたしたちを傷つけます。しかし、神が罪に勝利するように御業をなされます。だから神と共に歩み、罪と戦うのです。
 そして、人は罪ゆえの苦しみを負わねばならなくなりました。神の祝福に苦しみが伴うようになりました。苦しみと共に罪を覚えなければならなくなりました。
 命を産み出す祝福に苦しみが伴うようになりました。なくてはならない助け手との関係が支配の関係になってしまいました。糧を得るために苦しんで働かなければならなくなりました。祝福に満ちた世界がそうではなくなってしまいました。「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。」(ローマ 8:22)

 そして、ついには塵に返ってしまいます。食べてすぐに死ぬということはではありませんでしたが、神が言われたとおり、必ず死ぬこととなってしまいました。「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ 5:12)

 主なる神は言われます。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
 この時から人は、不老不死、不老長寿、アンチエイジング、永遠に生きることを求めずにはいられなくなりました。しかし、その道は神により閉ざされています。「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」
 わたしたちは罪を忘れ、死から逃げる道を探すのではなく、悔い改め、神の救いを求める道を歩まねばならないのです。

 主なる神は、罪を犯して裸でいられなくなった人のために、皮の衣を作って着せてくださいました。これは罪人の救いのためにキリストが与えられることを指し示しています。聖書は語ります。「キリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている」(ガラテヤ 3:27)と。

 この出来事ははるか昔の出来事というのではなく、人が繰り返し行ってしまうことです。そのようなわたしたちを救うために、神は礼拝を定めてくださいました。神に呼ばれ招かれて神のもとに立ち返る。神の御前に進み出て悔い改める。神の命の言葉を正しく聴くときを与えられる。神は、わたしたちをご自分のもとに救い導くために礼拝へと招いてくださいました。自分を隠そうとするわたしをご自分の前に導き出すために語りかけてくださっています。神が注ぎ与えてくださる愛と恵みを喜び、神と共に生きるために礼拝を与えられているのです。ただ単に聖書の勉強をし、自分の賢さを増そうとするのではなく、語り掛けられる神の言葉の前に立って神に応答していくとき、わたしたちは神に出会うのです。そのときわたしたちは自分自身のための救いの出来事がこの礼拝においてなされていることを知るのです。
 そして、わたしたちは自らの罪の大きさと神の愛の豊かさを、神がお遣わしくださった救い主イエス キリストにおいて知るのです。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ 5:8)
 「恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。」(ローマ 5:15)
 「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」(ローマ 4:25)

 だからわたしたちはクリスマスを待ち望み、喜び祝うのです。イエス キリストにこそ、わたしたちの救いがあり、未来があるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちの苦しみ・悲しみの根源にある罪をお教えくださり、ありがとうございます。そしてこの罪からの救いも用意してくださり、感謝します。
 わたしたちにとって、この罪から救われることが必要であることを知ることができますように。わたしたちを造り、愛してくださるあなたの許に救いと希望があることを知り、求めていくことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

創世記 2:4〜25

2019-12-12 19:47:03 | 聖書
2019年12月11日(水) 祈り会
聖書:創世記 2:4〜25(新共同訳)


 天地創造の由来を記した聖書は、続いて人の創造について詳しく記します。
人の創造について最初に二つのことが言われます。人は土の塵で造られたということと、命の息を吹き入れられたということです。

 土の塵で造られたということは、人は自然に属するもので、それ自体に命はないことを示します。様々な苦難を負ったヨブは「もし神が御自分にのみ、御心を留め、その霊と息吹を御自分に集められるなら、生きとし生けるものは直ちに息絶え、人間も塵に返るだろう」(ヨブ 34:14, 15)と言っています。

 その人に神は命の息を吹き入れ、生きる者とされました。息(ネシャーマー)というヘブライ語は、霊という意味も持っています。
 人は息をすることによって生きたものであることができます。しかし、それは人に限ったことではありません。他の生き物も息をすることによって生きています。ですから、神が人に命の息を吹き入れられたということには、単に命あるものにしたという以上の意味があります。
 この命の息は、人を生きるものにすると共に、人を神と結び合わせ、神との特別な関係を与えるものです。息をすることによって、人は目に見える体と目に見えない心が命で結び合わされ、生きる者となります。同時に、霊を受けることによって、この目に見える世界に生きる人は、目に見えない神と結び合わされ、生物的に生きるだけでなく、神の命に満たされ、神の似姿として人は神と共に生きるのです。

 神は、人の生きる場としてエデンの園を造られました。エデンという言葉は、ヘブライ語で楽しみという意味を持っています。すべてのものを祝福をもって造られ、造ったものを見て「良かった」と言われる神は、生きることが楽しみである場所を整えて、人をそこに置かれました。
 川のことが描かれていますが、神の民イスラエルが生きた乾燥した地方では、川は命を支える恵みの象徴でした。ヨセフスという人が書いた『ユダヤ人古代史』によれば、ピションはガンジス川、ギホンはナイル川を指すと言われています。そしてチグリス川とユーフラテス川。つまり、古代の世界を支えた4つの大河はエデンの園に起源を持ち、生きることが楽しみであるようにという神の祝福に起源を持っていることを表しているのです。

 「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされ」ました。神の似姿に造られた人には、神から務めが与えられました。神が造られた世界は、そのままでも「見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生え出でさせ」ていましたが、創造の神にならってその世界を耕し、良いものを得、祝福を生み出す務めが与えられました。そして、世界を神に御心に従って治め、守っていくのです。

 さて、主なる神は人に命じて言われました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(2:16~17、2:9)
 善悪の知識の木ですから、この実を食べると、善悪の知識が身に付くのです。ですが、なぜこの木の実を食べてはいけないのでしょうか。どうして、食べると必ず死んでしまうのでしょうか。普通、善悪を知ること、やっていいことと悪いことを知ること、分別を持つことは大事だと考えられているに、なぜでしょうか。
 ここでよく考えてみなければなりません。自分で善悪を知る者は、神を必要としないのです。それどころか、神は自分に命令してくるじゃまな存在です。神は困ったときにだけ助けに来てくれればいいのです。善悪を知る者は、善も悪も分かっているので、自分で好きに生きていくのです。
 そして、神だけでなく、自分の善悪のとおりに生きることを妨げる他の人間もじゃまになってきます。神に対しても、隣人に対しても、違う善悪でもって争うようになってしまいます。(自分の善悪を通し、思い通りに生きようとします。自分の理屈で説得しようとしたり、社会的な力で、また物理的な力(暴力)で思い通りにしようとします。ついには戦争をして相手を滅ぼして、自分の善悪を通そうとしてしまいます。)
 そして、一人ひとりの善悪が違うから、理解し合うことも困難になってきます。そこに孤独が生じてくるのです。
 人は、結局、罪を犯してしまいます。その次第は3章に出てきます。罪を犯した人が何に気づいたかを「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」(3:7)と記しています。ここで告げられていることは、裸では生活できなくなったということではなく、一人一人の善悪が異なったとき人間は裸の自分・ありのままの自分、体も心もそのままの自分を他人に見せられなくなったことを示しています。互いに違う思いを持っていることを見せられなくなったのです。(そして、神からも隠れようとするのです。3:8 以下参照)
 さらに命の源である神から離れ、背を向けて生き始めたことによって死に向かって生きる存在となってしまったのです。
 そこから、分かり合えない、孤独という悲しみ、次に隣人を支配しようとする悲しみ、そして死に向かって生きる悲しみが生まれたのです。

 神は、罪を犯してしまった人を憐れみ、救いの御業をなしてくださいます。救いとは、まさしく罪の悲しみからわたしたちを解放することです。孤独ではなく、共に生きること、支配ではなく、仕え合うこと、死に向かってではなく、永遠の命に向かって生きることを与えようとしてくださっています。
 人は神のかたちに、愛である神のかたちに造られたています。(1:27)ヨハネの手紙一 4:16には「神は愛です」とあります。神は、愛によって結び合わされる関係、共に生きていく関係を、与えてくださったのです。それは 2:18 以下からも分かります。

 2:15 で、神は「人を連れて来てエデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされ」ました。耕すという言葉は、仕えると訳すことのできる言葉です。神は人に、神が造られた世界に仕え守るように務めを与えられました。
 そして、主なる神は言われます。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」つまり、世界に仕え世界を守る務めを果たすのには独りではふさわしくないということです。独りでいるとは、周囲との関わりがなく、孤独であることを示しています。

 主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられました。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となりました。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けましたが、自分に合う助ける者は見つけることができませんでした。
 動物たちも助けるものです。人は動物たちに名前を付けます。名前は単なる記号ではありません。そのものの本質を示す、あるいはそのものとの関係、そのものへの想いを表すものです。人は名前を付けることを通して、神が造られた世界を支えていく助けるものたちを知り、関係を築いていきました。

 しかし、彼に合う助けるものではありませんでした。合うというのは、神から託された務めを共に担っていくという意味です。
 そこで主なる神は人を深い眠りに落とされました。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれました。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられたのです。
 これは、男と女が一体のものであることを告げています。本来男のあばら骨はもう1本多かったというようなことを示しているわけではありません。
 主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。/これをこそ女(イシャー)と呼ぼう/まさに男(イシュ)から取られたものだから。」
 大いなる喜びを持って男は女を迎えます。神から賜った命、世界を共に生きる者。なくてならない存在。共に神の務めを担う者。そういう存在が与えられました。
 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となるのです。
 愛である神のかたちを築き、創造主なる神の御業に与り命を育むのです。「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(1:27)「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」(1ヨハネ 4:8)という聖書の御言葉が人間において実現するためです。
 神が造られた世界に仕え、世界を守る務めは、神の愛に満たされて、人が愛することにおいて果たされていくのです。

 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしませんでした。これは、罪が無かったことを表します。祝福に満ちた神の御心に満たされ、身も心も隠さなければならないことはなかったのです。
 しかし、今は罪を抱えており、そんな風にはできません。しかし、罪の中でも、夫婦は共に生きる存在として神から与えられた恵みです。ところが今や、夫婦、家族が崩壊してきています。それは、神が与えてくださった関係が失われてきているからではないでしょうか。

 神は罪を犯し、苦しんでいるわたしたちを憐れみ、救うために御業をなしてくださいました。神は、罪の悲しみからわたしたちを救い、罪を赦されて、神の愛に立ち返ることができるように、御子イエス キリストを世にお遣わしになりました。この救い主のもとでこそ、わたしたちは神の愛に生きる新しい命を生きることができるのです。
 だから、わたしたちは神の約束の成就であるキリストの誕生(そして再臨)を待ち望み、クリスマスを喜び祝うのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 罪を抱えてしまったわたしたちに語りかけ続けていてくださることを感謝します。あなたを忘れ、自分の好きに生きていきたいわたしたちに呼びかけ、招いていてくださいます。どうか御言葉を通してあなたの許にある幸い、あなたが差し出してくださる救いに気づくことができるよう導いてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン