2019年10月27日(日) 主日礼拝
聖書:ヨハネによる福音書 4:21〜26(新共同訳)
イエスの一行は、ガリラヤへと行く途中、サマリヤのシカルという町に立ち寄りました。このシカルという町にはヤコブの井戸と呼ばれる井戸があって、イエスはその井戸の傍らに座り込んで休んでおられました。
時は正午頃、一人の女性が水を汲みにやってきます。イエスはこの女性に「水を飲ませてください」と頼みます。その言葉から自分に話しかけたのが、ユダヤ人だと気づいたのでしょう。この女性は驚きます。ユダヤ人はサマリア人を嫌っていて、付き合うのを避けていたからです。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」とこの女性が答えたところからイエスとこの女性との対話が始まります。
何とも不思議な対話でした。「この人は頭がおかしいんじゃないかしら」と考えて、さっさと井戸に降りていってもおかしくないような対話でした。
井戸というと、わたしたちは時代劇などのイメージで、つるべ井戸を思い浮かべますが、おそらくこの井戸は、水が湧いているところまで階段で降りていく井戸であったろうと思います。
おそらく聖書を読む多くの人には「何だこの会話は」と思えるような対話でしたが、彼女は引きつけられるものを感じていました。それはイエスがこの女性を知っておられたからです。彼女の心が必要としているところを静かにノックするように、イエスは語りかけました。
イエスはこの女性と会うために、シカルの町へ来られました。井戸の側でへたり込むほど、少し無理をして来られたのでしょう。そうまでしてなぜこの女性に会いに来られたのか、それは神の御心としか申し上げられません。
彼女が、イエスが与えるという渇くことのない水をほしがると、イエスは「あなたの夫を呼んで来なさい」と言われます。彼女が「夫はいません」と言うと、「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言った」とイエスは言います。
彼女は驚きました。旅のユダヤ人が自分のことを知っている。しかも彼女が心の奥に隠してふたをしておきたい自分の痛み・悲しみを知っている。彼女は自分の目の前にいる男が預言者かもしれないと思いました。ついに神が自分を憐れんでくださり、預言者を遣わし、神の恵みに与る道を示してくれるのかもしれないと思いました。
彼女は尋ねます。「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは答えます。「この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。・・まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。・・父はこのように礼拝する者を求めておられる。」
イエスは、彼女に必要なものは神ご自身であることを知っていました。しかし現代のほとんどの人は、イエスのこの判断に同意しないでしょう。おそらく現代の人であれば、彼女に必要なのは、話を真剣に聞いて適切なアドバイスをしてくれるカウンセラーではないか、あるいは彼女に付き合って酒を飲んで話を聞いてくれる友だちではないか、などと思うのではないでしょうか。現代人にとって、このイエスの考えは納得のいかないものかもしれません。
時代の区分に「近代」というものがありますが、今もわたしたちは近代に生きています。この近代というのは、神を排除し、人間を中心にして、人間がコントロールできるものに囲まれて生きていこうとする時代です。科学技術の進歩に期待して未来を見ようとする時代です。「ポストモダン(近代の後)」という言葉も使われますが、全体としては世界は今も近代に生きています。
しかし、神を排除していくとき、大きな問題が生じます。それは意味を喪失していくということです。科学や技術は、あなたが生きている意味を解明はしません。あなたがどうしてこういう性格なのか、能力なのか、どうしてこんな病気になるのか、寿命がいくつなのか、その意味を解明しません。今や遺伝子からその仕組み・メカニズムを説明するかもしれません。しかしそうである意味を説明することはありません。人や世界の存在の意味は、お造りになられた神の愛が与えるのです。あなたに存在してほしい、わたしと共に生きてほしいと願い愛される神から意味は生まれてくるのです。そして神がなし給う救いの業が、あなたは滅んでいい存在ではないことを告げるのです。
今、彼女には自分を愛し、自分を意味あるものとする神との出会いが必要だったのです。5回もの夫との別れ、その痛みも悲しみも知っておられる神がそのことさえ導いてくださる。死からさえ命へと導くことができる神が、命を意味あるもの価値あるものとしてくださる。その神との出会いが、彼女には、そしてわたしたち一人ひとりには必要なのです。それを誰よりも知っておられるので、イエスは人となってこの世に来てくださったのです。わたしたちと出会い、神へと導くためにイエスは人となられたのです。
イエスは言われます。「神は霊である。」この「霊」という言葉は、この世のもの「肉」に対する「霊」を意味します。つまり、目に見えない。触れられない。この世の時間・空間に縛られない存在であることを示しています。例えば、先週、わたしは豊中中央教会で説教しました。わたしが豊中中央教会にいるということは、池田教会にはいないということです。わたしの体はこの世に属していますから、時間と空間の制約を受けます。ある時、ある場所にしか存在できないのです。しかし、神は霊でありますから、そのような制約は受けません。池田教会の礼拝にもご臨在くださり、同時に豊中中央教会の礼拝にも、日本全国の日本キリスト教会の礼拝、そして全世界の公同の諸教会の礼拝にもご臨在くださいます。
だから「この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」と言われたのです。神はこの世の場所に閉じ込めることなどできません。どこででも神に立ち帰り、礼拝することができます。庭で草むしりしているときも、掃除機をかけているときも、神の名を呼び、神と共にあることができます。教会でないと、礼拝堂でないと神を礼拝できない、などということもありません。
必要なのは「霊と真理をもって礼拝する」ことです。
ここの「霊」は「聖霊」を表します。聖霊は、わたしたちに信仰を与え、神と結び合わせてくださいます。イエス キリストと結び合わせ、キリストの救いに与らせてくださいます。
真理はイエス キリストを表します。イエスは言われます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ 14:6)わたしたちは、イエス キリストを知るとき、独り子を遣わすほどにわたしたちを愛していてくださる神を知るのです。以前、神の存在証明という話をしたときにも申し上げましたが、神が存在するということを論理的に証明できたとしても、その神がどのような神であるかは説明できません。ただイエス キリストだけが、神は独り子を遣わすほどにわたしたちを愛しておられることを証しするのです。イエス キリストこそ、神ご自身を証しする真理なのです。
ですから、聖霊とイエス キリストによって父なる神に礼拝を献げるとき、わたしたちは父・子・聖霊なる三位一体の神ご自身のただ中に入れられて、その愛の交わりの内に神を礼拝するのです。そのように神の交わりのただ中に入れられ、神ご自身に満たされて献げられる礼拝を、神は求めておられるのです。
彼女は今まで聞いたこともないことを聞いて、唖然とし、動揺します。こんな今まで聞いたこともないこと、しかも初めて会った人の言うことを聞いて大丈夫だろうか。しかし、この人はわたしのすべてを知っておられた。驚き、不安、迷いで彼女は混乱しています。この人は誰なんだろう。彼女はかろうじて言います。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
イエスははっきりとお答えになります。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
彼女に「わたしを信じなさい」と言われたイエスは、その理由を明らかにされます。彼女が最初に問うた「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか」という言葉に答えられます。「あなたと話をしているこのわたしがメシアである。このわたしこそ神の民が待ち望んだ救い主である。」
この「わたしである」という言葉は、神がモーセに「わたしはあるという者だ」と言われた(出エジプト 3:14)言葉と同じです。イスラエルの民にとってこの「わたしはある」「わたしである」あるいは「わたしだ」(エゴー エイミ:ギリシャ語)という言葉は、「わたしは神である」という意味の言葉です。ヨハネによる福音書は、この言葉によって、イエス キリストが救い主であり、神であること、イエスがそのようにご自分を理解しておられたことを証ししているのです。
イエスは今も、決して空しくなることのない神の言葉を通してわたしたちに出会ってくださいます。イエスは証しされます。わたしたちがどこにいても神が共にいてくださり、父・子・聖霊なる神の交わりの中に生きることができることを。イエスは証しされます。わたしたちが神に愛されている意味のある価値ある存在であることを。
イエスは今、わたしたちにもお語りになります。「わたしを信じなさい。あなたと話しているこのわたしがメシア、救い主である。」
ハレルヤ
父なる神さま
礼拝において、あなたの御言葉を通してイエス キリストと出会うことができますように。イエス キリストがわたしたち一人ひとりに語りかけてくださる言葉を聞くことができますように。どうか霊と真理をもってあなたを礼拝する恵みに与ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:ヨハネによる福音書 4:21〜26(新共同訳)
イエスの一行は、ガリラヤへと行く途中、サマリヤのシカルという町に立ち寄りました。このシカルという町にはヤコブの井戸と呼ばれる井戸があって、イエスはその井戸の傍らに座り込んで休んでおられました。
時は正午頃、一人の女性が水を汲みにやってきます。イエスはこの女性に「水を飲ませてください」と頼みます。その言葉から自分に話しかけたのが、ユダヤ人だと気づいたのでしょう。この女性は驚きます。ユダヤ人はサマリア人を嫌っていて、付き合うのを避けていたからです。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」とこの女性が答えたところからイエスとこの女性との対話が始まります。
何とも不思議な対話でした。「この人は頭がおかしいんじゃないかしら」と考えて、さっさと井戸に降りていってもおかしくないような対話でした。
井戸というと、わたしたちは時代劇などのイメージで、つるべ井戸を思い浮かべますが、おそらくこの井戸は、水が湧いているところまで階段で降りていく井戸であったろうと思います。
おそらく聖書を読む多くの人には「何だこの会話は」と思えるような対話でしたが、彼女は引きつけられるものを感じていました。それはイエスがこの女性を知っておられたからです。彼女の心が必要としているところを静かにノックするように、イエスは語りかけました。
イエスはこの女性と会うために、シカルの町へ来られました。井戸の側でへたり込むほど、少し無理をして来られたのでしょう。そうまでしてなぜこの女性に会いに来られたのか、それは神の御心としか申し上げられません。
彼女が、イエスが与えるという渇くことのない水をほしがると、イエスは「あなたの夫を呼んで来なさい」と言われます。彼女が「夫はいません」と言うと、「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言った」とイエスは言います。
彼女は驚きました。旅のユダヤ人が自分のことを知っている。しかも彼女が心の奥に隠してふたをしておきたい自分の痛み・悲しみを知っている。彼女は自分の目の前にいる男が預言者かもしれないと思いました。ついに神が自分を憐れんでくださり、預言者を遣わし、神の恵みに与る道を示してくれるのかもしれないと思いました。
彼女は尋ねます。「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは答えます。「この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。・・まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。・・父はこのように礼拝する者を求めておられる。」
イエスは、彼女に必要なものは神ご自身であることを知っていました。しかし現代のほとんどの人は、イエスのこの判断に同意しないでしょう。おそらく現代の人であれば、彼女に必要なのは、話を真剣に聞いて適切なアドバイスをしてくれるカウンセラーではないか、あるいは彼女に付き合って酒を飲んで話を聞いてくれる友だちではないか、などと思うのではないでしょうか。現代人にとって、このイエスの考えは納得のいかないものかもしれません。
時代の区分に「近代」というものがありますが、今もわたしたちは近代に生きています。この近代というのは、神を排除し、人間を中心にして、人間がコントロールできるものに囲まれて生きていこうとする時代です。科学技術の進歩に期待して未来を見ようとする時代です。「ポストモダン(近代の後)」という言葉も使われますが、全体としては世界は今も近代に生きています。
しかし、神を排除していくとき、大きな問題が生じます。それは意味を喪失していくということです。科学や技術は、あなたが生きている意味を解明はしません。あなたがどうしてこういう性格なのか、能力なのか、どうしてこんな病気になるのか、寿命がいくつなのか、その意味を解明しません。今や遺伝子からその仕組み・メカニズムを説明するかもしれません。しかしそうである意味を説明することはありません。人や世界の存在の意味は、お造りになられた神の愛が与えるのです。あなたに存在してほしい、わたしと共に生きてほしいと願い愛される神から意味は生まれてくるのです。そして神がなし給う救いの業が、あなたは滅んでいい存在ではないことを告げるのです。
今、彼女には自分を愛し、自分を意味あるものとする神との出会いが必要だったのです。5回もの夫との別れ、その痛みも悲しみも知っておられる神がそのことさえ導いてくださる。死からさえ命へと導くことができる神が、命を意味あるもの価値あるものとしてくださる。その神との出会いが、彼女には、そしてわたしたち一人ひとりには必要なのです。それを誰よりも知っておられるので、イエスは人となってこの世に来てくださったのです。わたしたちと出会い、神へと導くためにイエスは人となられたのです。
イエスは言われます。「神は霊である。」この「霊」という言葉は、この世のもの「肉」に対する「霊」を意味します。つまり、目に見えない。触れられない。この世の時間・空間に縛られない存在であることを示しています。例えば、先週、わたしは豊中中央教会で説教しました。わたしが豊中中央教会にいるということは、池田教会にはいないということです。わたしの体はこの世に属していますから、時間と空間の制約を受けます。ある時、ある場所にしか存在できないのです。しかし、神は霊でありますから、そのような制約は受けません。池田教会の礼拝にもご臨在くださり、同時に豊中中央教会の礼拝にも、日本全国の日本キリスト教会の礼拝、そして全世界の公同の諸教会の礼拝にもご臨在くださいます。
だから「この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」と言われたのです。神はこの世の場所に閉じ込めることなどできません。どこででも神に立ち帰り、礼拝することができます。庭で草むしりしているときも、掃除機をかけているときも、神の名を呼び、神と共にあることができます。教会でないと、礼拝堂でないと神を礼拝できない、などということもありません。
必要なのは「霊と真理をもって礼拝する」ことです。
ここの「霊」は「聖霊」を表します。聖霊は、わたしたちに信仰を与え、神と結び合わせてくださいます。イエス キリストと結び合わせ、キリストの救いに与らせてくださいます。
真理はイエス キリストを表します。イエスは言われます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ 14:6)わたしたちは、イエス キリストを知るとき、独り子を遣わすほどにわたしたちを愛していてくださる神を知るのです。以前、神の存在証明という話をしたときにも申し上げましたが、神が存在するということを論理的に証明できたとしても、その神がどのような神であるかは説明できません。ただイエス キリストだけが、神は独り子を遣わすほどにわたしたちを愛しておられることを証しするのです。イエス キリストこそ、神ご自身を証しする真理なのです。
ですから、聖霊とイエス キリストによって父なる神に礼拝を献げるとき、わたしたちは父・子・聖霊なる三位一体の神ご自身のただ中に入れられて、その愛の交わりの内に神を礼拝するのです。そのように神の交わりのただ中に入れられ、神ご自身に満たされて献げられる礼拝を、神は求めておられるのです。
彼女は今まで聞いたこともないことを聞いて、唖然とし、動揺します。こんな今まで聞いたこともないこと、しかも初めて会った人の言うことを聞いて大丈夫だろうか。しかし、この人はわたしのすべてを知っておられた。驚き、不安、迷いで彼女は混乱しています。この人は誰なんだろう。彼女はかろうじて言います。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
イエスははっきりとお答えになります。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
彼女に「わたしを信じなさい」と言われたイエスは、その理由を明らかにされます。彼女が最初に問うた「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか」という言葉に答えられます。「あなたと話をしているこのわたしがメシアである。このわたしこそ神の民が待ち望んだ救い主である。」
この「わたしである」という言葉は、神がモーセに「わたしはあるという者だ」と言われた(出エジプト 3:14)言葉と同じです。イスラエルの民にとってこの「わたしはある」「わたしである」あるいは「わたしだ」(エゴー エイミ:ギリシャ語)という言葉は、「わたしは神である」という意味の言葉です。ヨハネによる福音書は、この言葉によって、イエス キリストが救い主であり、神であること、イエスがそのようにご自分を理解しておられたことを証ししているのです。
イエスは今も、決して空しくなることのない神の言葉を通してわたしたちに出会ってくださいます。イエスは証しされます。わたしたちがどこにいても神が共にいてくださり、父・子・聖霊なる神の交わりの中に生きることができることを。イエスは証しされます。わたしたちが神に愛されている意味のある価値ある存在であることを。
イエスは今、わたしたちにもお語りになります。「わたしを信じなさい。あなたと話しているこのわたしがメシア、救い主である。」
ハレルヤ
父なる神さま
礼拝において、あなたの御言葉を通してイエス キリストと出会うことができますように。イエス キリストがわたしたち一人ひとりに語りかけてくださる言葉を聞くことができますように。どうか霊と真理をもってあなたを礼拝する恵みに与ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン