聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 4:21〜26

2019-10-27 18:11:12 | 聖書
2019年10月27日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 4:21〜26(新共同訳)


 イエスの一行は、ガリラヤへと行く途中、サマリヤのシカルという町に立ち寄りました。このシカルという町にはヤコブの井戸と呼ばれる井戸があって、イエスはその井戸の傍らに座り込んで休んでおられました。
 時は正午頃、一人の女性が水を汲みにやってきます。イエスはこの女性に「水を飲ませてください」と頼みます。その言葉から自分に話しかけたのが、ユダヤ人だと気づいたのでしょう。この女性は驚きます。ユダヤ人はサマリア人を嫌っていて、付き合うのを避けていたからです。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」とこの女性が答えたところからイエスとこの女性との対話が始まります。

 何とも不思議な対話でした。「この人は頭がおかしいんじゃないかしら」と考えて、さっさと井戸に降りていってもおかしくないような対話でした。
 井戸というと、わたしたちは時代劇などのイメージで、つるべ井戸を思い浮かべますが、おそらくこの井戸は、水が湧いているところまで階段で降りていく井戸であったろうと思います。
 おそらく聖書を読む多くの人には「何だこの会話は」と思えるような対話でしたが、彼女は引きつけられるものを感じていました。それはイエスがこの女性を知っておられたからです。彼女の心が必要としているところを静かにノックするように、イエスは語りかけました。
 イエスはこの女性と会うために、シカルの町へ来られました。井戸の側でへたり込むほど、少し無理をして来られたのでしょう。そうまでしてなぜこの女性に会いに来られたのか、それは神の御心としか申し上げられません。

 彼女が、イエスが与えるという渇くことのない水をほしがると、イエスは「あなたの夫を呼んで来なさい」と言われます。彼女が「夫はいません」と言うと、「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言った」とイエスは言います。

 彼女は驚きました。旅のユダヤ人が自分のことを知っている。しかも彼女が心の奥に隠してふたをしておきたい自分の痛み・悲しみを知っている。彼女は自分の目の前にいる男が預言者かもしれないと思いました。ついに神が自分を憐れんでくださり、預言者を遣わし、神の恵みに与る道を示してくれるのかもしれないと思いました。
 彼女は尋ねます。「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは答えます。「この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。・・まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。・・父はこのように礼拝する者を求めておられる。」

 イエスは、彼女に必要なものは神ご自身であることを知っていました。しかし現代のほとんどの人は、イエスのこの判断に同意しないでしょう。おそらく現代の人であれば、彼女に必要なのは、話を真剣に聞いて適切なアドバイスをしてくれるカウンセラーではないか、あるいは彼女に付き合って酒を飲んで話を聞いてくれる友だちではないか、などと思うのではないでしょうか。現代人にとって、このイエスの考えは納得のいかないものかもしれません。

 時代の区分に「近代」というものがありますが、今もわたしたちは近代に生きています。この近代というのは、神を排除し、人間を中心にして、人間がコントロールできるものに囲まれて生きていこうとする時代です。科学技術の進歩に期待して未来を見ようとする時代です。「ポストモダン(近代の後)」という言葉も使われますが、全体としては世界は今も近代に生きています。
 しかし、神を排除していくとき、大きな問題が生じます。それは意味を喪失していくということです。科学や技術は、あなたが生きている意味を解明はしません。あなたがどうしてこういう性格なのか、能力なのか、どうしてこんな病気になるのか、寿命がいくつなのか、その意味を解明しません。今や遺伝子からその仕組み・メカニズムを説明するかもしれません。しかしそうである意味を説明することはありません。人や世界の存在の意味は、お造りになられた神の愛が与えるのです。あなたに存在してほしい、わたしと共に生きてほしいと願い愛される神から意味は生まれてくるのです。そして神がなし給う救いの業が、あなたは滅んでいい存在ではないことを告げるのです。

 今、彼女には自分を愛し、自分を意味あるものとする神との出会いが必要だったのです。5回もの夫との別れ、その痛みも悲しみも知っておられる神がそのことさえ導いてくださる。死からさえ命へと導くことができる神が、命を意味あるもの価値あるものとしてくださる。その神との出会いが、彼女には、そしてわたしたち一人ひとりには必要なのです。それを誰よりも知っておられるので、イエスは人となってこの世に来てくださったのです。わたしたちと出会い、神へと導くためにイエスは人となられたのです。

 イエスは言われます。「神は霊である。」この「霊」という言葉は、この世のもの「肉」に対する「霊」を意味します。つまり、目に見えない。触れられない。この世の時間・空間に縛られない存在であることを示しています。例えば、先週、わたしは豊中中央教会で説教しました。わたしが豊中中央教会にいるということは、池田教会にはいないということです。わたしの体はこの世に属していますから、時間と空間の制約を受けます。ある時、ある場所にしか存在できないのです。しかし、神は霊でありますから、そのような制約は受けません。池田教会の礼拝にもご臨在くださり、同時に豊中中央教会の礼拝にも、日本全国の日本キリスト教会の礼拝、そして全世界の公同の諸教会の礼拝にもご臨在くださいます。
 だから「この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」と言われたのです。神はこの世の場所に閉じ込めることなどできません。どこででも神に立ち帰り、礼拝することができます。庭で草むしりしているときも、掃除機をかけているときも、神の名を呼び、神と共にあることができます。教会でないと、礼拝堂でないと神を礼拝できない、などということもありません。
 必要なのは「霊と真理をもって礼拝する」ことです。
 ここの「霊」は「聖霊」を表します。聖霊は、わたしたちに信仰を与え、神と結び合わせてくださいます。イエス キリストと結び合わせ、キリストの救いに与らせてくださいます。
 真理はイエス キリストを表します。イエスは言われます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ 14:6)わたしたちは、イエス キリストを知るとき、独り子を遣わすほどにわたしたちを愛していてくださる神を知るのです。以前、神の存在証明という話をしたときにも申し上げましたが、神が存在するということを論理的に証明できたとしても、その神がどのような神であるかは説明できません。ただイエス キリストだけが、神は独り子を遣わすほどにわたしたちを愛しておられることを証しするのです。イエス キリストこそ、神ご自身を証しする真理なのです。
 ですから、聖霊とイエス キリストによって父なる神に礼拝を献げるとき、わたしたちは父・子・聖霊なる三位一体の神ご自身のただ中に入れられて、その愛の交わりの内に神を礼拝するのです。そのように神の交わりのただ中に入れられ、神ご自身に満たされて献げられる礼拝を、神は求めておられるのです。

 彼女は今まで聞いたこともないことを聞いて、唖然とし、動揺します。こんな今まで聞いたこともないこと、しかも初めて会った人の言うことを聞いて大丈夫だろうか。しかし、この人はわたしのすべてを知っておられた。驚き、不安、迷いで彼女は混乱しています。この人は誰なんだろう。彼女はかろうじて言います。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」
 イエスははっきりとお答えになります。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

 彼女に「わたしを信じなさい」と言われたイエスは、その理由を明らかにされます。彼女が最初に問うた「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか」という言葉に答えられます。「あなたと話をしているこのわたしがメシアである。このわたしこそ神の民が待ち望んだ救い主である。」

 この「わたしである」という言葉は、神がモーセに「わたしはあるという者だ」と言われた(出エジプト 3:14)言葉と同じです。イスラエルの民にとってこの「わたしはある」「わたしである」あるいは「わたしだ」(エゴー エイミ:ギリシャ語)という言葉は、「わたしは神である」という意味の言葉です。ヨハネによる福音書は、この言葉によって、イエス キリストが救い主であり、神であること、イエスがそのようにご自分を理解しておられたことを証ししているのです。

 イエスは今も、決して空しくなることのない神の言葉を通してわたしたちに出会ってくださいます。イエスは証しされます。わたしたちがどこにいても神が共にいてくださり、父・子・聖霊なる神の交わりの中に生きることができることを。イエスは証しされます。わたしたちが神に愛されている意味のある価値ある存在であることを。
 イエスは今、わたしたちにもお語りになります。「わたしを信じなさい。あなたと話しているこのわたしがメシア、救い主である。」


ハレルヤ


父なる神さま
 礼拝において、あなたの御言葉を通してイエス キリストと出会うことができますように。イエス キリストがわたしたち一人ひとりに語りかけてくださる言葉を聞くことができますように。どうか霊と真理をもってあなたを礼拝する恵みに与ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 9:11〜18

2019-10-14 17:17:36 | 聖書
2019年10月13(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 9:11~18(新共同訳)


 パウロは、神の民を自認するイスラエルに対して、神の民は神の選びと約束によって生まれるということ、そして神はご自身の御子イエス キリストを選び、イエス キリストに救いの約束を委ねられたことを語ります。
 神はイスラエルとの約束のとおり、イスラエルの子孫にイエス、救い主を与えられました。イエス キリストにおいてイスラエルとの約束は成就されました。そして今度は、イエス キリストを救い主と信じて、神の御心と御業を受け入れた者が神の子として選ばれ、救いの約束を担う務めを与えられたのです。

 救いは、神の御心、神のご計画によるものです。わたしたちから「こういう風に救ってください」「ユダヤ人だけ救ってください」と要求することはできません。パウロは、イスラエルの民、ユダヤ人が「救いは神の御心による」ということを理解するようにと語ります。

 11節「その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に仕えるであろう』とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。『わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです。」
 神は自由な、そして不思議な御心によって、世界のあらゆる民の中からアブラハムを選び、そしてエサウではなくヤコブを選ばれました。そしてわたしたちも選ばれました。
 ここで「憎んだ」という言葉に引っかかる方もおられると思いますので、簡単に説明しますと、この言葉は「より少なく愛する」という意味で、ヘブライ語などセム語系言語の誇張した表現である、という説明のついた聖書があります(フランシスコ会訳)。ですから、わたしたちが日本語で「憎んだ」と言うよりも、柔らかさを含んだ言い方なのだろうと思います。神はヤコブの方をより愛されたのです。聖書で「愛する」というのは「共に生きる」ということですから、神はヤコブを神の民と選び、ヤコブと共に歩んで救いの業を進めていかれた、ということです。

 14節「では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。」
 この問いは、神の民の中にずっと漂い続けているものです。なぜ神はみんなを選ばずにある者を選ばれるのだろうか。神はえこひいきをしておられるのだろうか。「わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ」と言われるならば、わたしは憎まれる方、少ししか愛されない方かもしれない。どこまでも疑いは尽きず、疑いは不安へと変わります。

 パウロは「決してそうではない」と言いますが、その後の言葉を聞いても、疑いも不安も晴れません。
 「神はモーセに、/『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ』と言っておられます。」
 やっぱり神の気まぐれじゃないか、と思います。
 しかしパウロはこう続けます。「従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです。」

 17節「聖書にはファラオについて、『わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである』と書いてあります。このように、神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです。」

 きょうの箇所では「神の憐れみ」と「わたしの名を全世界に告げ知らせるため」の2つが大事です。

 神の憐れみが選びの基にあるとパウロは語ります。
 「主よ、憐れんでください」という祈りは、詩編に何度も出てくる祈りです。パウロがこの神の憐れみということを指摘したのは、神の選びは救いのためのものであるということを明らかにしようとしているからです。そしてこの手紙が語ってきたように、神の選びは、御子イエス キリストへと向かいました。
 聖書は、イエス キリストこそ「わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」(1ヨハネ 2:2)と語ります。神はお造りになったすべてのものを救うために、イエス キリストを選ばれました。ですから、神の選びはすべての人を救うためであり、すべての人を憐れむためなのです。神はすべての人を憐れみ、救うために、アブラハムを選び、ヤコブを選ばれたのです。そしてイエス キリストをお選びになり、さらにわたしたちも選ばれたのです。その選びの根底にあるのは、神の憐れみなのです。

 そして神の名を「全世界に告げ知らせるため」に、憐れみ・かたくなを御心のままに用いられるというのです。神の名が告げ知らせられるというのは、神の救いの御業が進められるということです。

 神は人と世界を救うために御業をなしてこられました。聖書に記されているすべての業が救いのためのものです。そして救いの御業は、わたしたちに対する愛と憐れみの故に、神の御心によってなされてきました。わたしたちが神に救いの御業をなさせるために努力したのではありません。わたしたちがイエス キリストを遣わすように神を説得したのでもありません。ただ神の愛と憐れみの故に、神の御心と御業によって、わたしたちは救いへと導き入れられたのです。

 わたしたちが選ばれ、信仰が与えられたのは、神の救いの御業のためです。ですから、まだ信仰を持たない家族・友人のために祈り、社会・世界に神の国が到来するように祈り、イエス キリストを証ししていくのです。神はわたしたち一人ひとりの多様な賜物を必要としておられ、お用いになられます。
 わたしたち一人ひとりの救いも、この世の救いも、神の御心、計画にあります。わたしたちは愛と憐れみに満ちた神の御心を信じて大丈夫なのです。

 聖書は語ります。「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。」(テモテ 3:5)


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたはすべての御業を救いのためになされます。あなたの御業にはわたしたちへの憐れみがあります。どうかあなたの愛と憐れみに満ちた御心に気づかせてください。どうかあなたの御心が成りますように。あなたの栄光が豊かに現されますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ヨハネによる福音書 4:19〜23

2019-10-06 23:41:19 | 聖書
2019年10月6日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 4:19〜23(新共同訳)


 イエスは、弟子たちとガリラヤへ行く途中、サマリアのシカルという町に立ち寄られました。イエスはそこで、名も知れぬ一人の女性と出会われました。
 イエスが「水を飲ませてほしい」と頼まれたことから対話が始まりました。イエスはお願いしている立場なのに、彼女に対してかなり偉そうに語ります。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

 実は彼女には、町の人が集まる井戸に来たくない理由がありました。そこで彼女は「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」と頼みます。
 するとイエスは突然訳の分からないことを言われます。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」彼女は「なぜ、そんなことを」と思ったかもしれませんが、答えます。「わたしには夫はいません。」するとすぐさまイエスは言われます。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」
 イエスは彼女を知っておられたのです。彼女の魂の渇きを知っておられました。イエスは彼女と出会うためにこのシカルの町に立ち寄られたのです。

 彼女は理由を探します。5回も別れることになった理由を探します。自分の何がいけないのだろうか。それともわたしは神に嫌われているのだろうか。わたしには神に喜ばれない何かがあるのだろうか。彼女は5回の別れによって自分に対して不安を募らせていました。
 彼女はイエスの言葉を聞いて、イエスが神から遣わされた預言者ではないのかと思い、イエスに尋ねます。
 「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
 この人に尋ねたら、今の不幸を抜け出し、神の恵みに与れる方法が分かるのではないかと彼女は期待しました。

 イエスは言われます。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。」
 不安に包まれている彼女にイエスは言います。「わたしを信じなさい。」

 現代は、目に見える世界だけを信じる方向へと進んで行っています。この世での成功者を勝ち組と呼ぶ律法主義で、人間の価値を計り、傷つき疲れています。けれども、この世の力や方法の及ばないものがもたらす不安に絶えず脅かされています。それは時間であり、時間がもたらす老いと死です。このサマリアの女性は自分が経験した5回の別れにより、時は愛をも変えてしまうという不安に脅かされています。だから今は、正式に結婚せずに男と暮らしています。そんな罪の世の不安のただ中に、イエスは信じられる存在となって来てくださいました。罪によって、目に見える世界だけを信じる方向へと歩むわたしたちに、神だけが時間に打ち勝つ永遠の命を与えてくださるのです。そしてイエスがわたしたちを神へと導くのです。

 「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。」
 罪は、わたしたちを神のいない世界へと導こうとします。そして罪に導かれて、目に見える世界だけを見ようとしています。しかしこの世の力や方法の及ばないものに振り回されます。それが人間自身の行為であることもあります。それはこの世で最も重んじられる富、経済です。経済は、人間の営みなのに制御できません。目に見える世界だけを見ようとしているのに、その世界の中心にある経済に振り回される。そして目に見える世界だけで生きようとしても、逃げ出すことのできない時間の中で現れてくる病と老いと死。そんな中で、罪人は成功と幸せをもたらしてくれる神々を手軽に利用しようとします。そういう中では、神は誰でもいいのです。神が誰かを知る必要もないのです。

 しかし、神はご自身を啓示し、知ることを求めておられます。イエス キリストにおいてご自身の愛を伝え注がれる方です。そして神の民を用いて、代々にイエス キリストを宣べ伝えていかれます。イエスがこの名もなき女性を知っておられたように、神はわたしたちを知っておられます。そして、神はわたしたち人間も神を知ってほしいと願っておられます。だから救いは、神を証しし宣べ伝える神の民、ユダヤ人、キリスト者から来るのです。

 「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。」
 神は、不安に満ち揺らぎに満ちているこの世にあって、まことの礼拝が必要だと考えておられます。まことの礼拝とは何か。それは霊と真理をもってなされる礼拝です。
 霊とは、神とのつながりです。神の霊、聖霊によってわたしたちがイエス キリストを知るようになったように、聖霊により、神を知り、神が注いでくださる恵みを受けて礼拝するのです。聖霊により、聖書が分かり、神を知り、神の恵みを喜んで礼拝するのです。
 真理とは、イエス キリストです。イエスは言われます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ 14:6)神とわたしたちとの間に立って、わたしたちを神の子としてくださったイエス キリストにより礼拝するのです。

 つまり、まことの礼拝が献げられるとき、そこには父と子と聖霊の三位一体の神との交わりがあるのです。父がまことの礼拝を求め、聖霊と真理であるイエス キリストをもってまことの礼拝がなされます。まことの礼拝には、父と子と聖霊の三位一体の神の交わりが現れます。
 父は御子を遣わしてまでわたしたちを救おうと計画されました。その父の計画、御心を、御子は人となってこの世に来られ、実現されました。そのイエス キリストご自身に聖霊が結び合わせてくださいます。わたしたちの救いには、父・子・聖霊なる三位一体の神がすべて関わっていてくださいます。
 まことの礼拝を献げるというのは、父・子・聖霊なる三位一体の神の交わりに入れて頂くことなのです。「父はこのように礼拝する者を求めておられ」ます。神がこのサマリアの女性を知っておられ、イエスが彼女を求めてシカルの町まで来られたように、神はわたしたち一人ひとりを知っておられ、わたしたちと交わり、共に生きることを求めておられます。そして神がわたしたちを求め捉えてくださったので、わたしたちは今、神の御前に集っているのです。

 罪がもたらす不安の中で生きるわたしたちは、父・子・聖霊なるまことの神と出会うときに、わたしを支える確かなものに出会うのです。わたしの人生の始まりには、神の愛と喜びがあった。罪を犯してなお、神は赦しと愛を与えてくださった。そしてイエス キリストによって、死を超える命の道が開かれ、神を喜ぶ永遠の命が与えられている。絶えず不安に揺さぶられるわたしたちを、神が支えてくださり、導いてくださいます。このサマリアの女性は、5回も別れを経験し、悲しみを負っています。しかし神は、わたしたちを「見放すことも、見捨てることもない」(ヨシュア 1:5)お方。御子を遣わしてまでわたしたちを求めるお方です。わたしたちには、このまことの神が必要なのです。神と共に生きることが必要なのです。このサマリアの女性にも、わたしたちにも必要なのです。その神を知るようにと、神はわたしたちをこのまことの礼拝へと招き、与らせてくださるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたがわたしたちを知っていてくださり、求めていてくださることを感謝します。わたしたちをまことの礼拝へと招いてくださり、父・子・聖霊なる神の交わりの中に入れてくださることを感謝します。わたしたちと共に生きようとしてくださるあなたを日ごとに深く知っていくことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 9:6〜13

2019-10-06 23:39:13 | 聖書
2019年9月29(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 9:6〜13(新共同訳)


 パウロは今、イスラエルの救いについて考えています。イスラエルは、神の選びの民です。神がアブラハムを召し出されて以来、神の民として歩んできました。ヤコブのときにイスラエルという名前を与えられてからイスラエルの名で呼ばれるようになりました。ソロモン王の後、国は北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂しました。それぞれアッシリア、新バビロニアに滅ぼされ国を失いました。残された人々がユダヤという国を建てて、何とか歩んできました。パウロがこの手紙を書いている時、ユダヤはローマ帝国の属国として存在していました。
 パウロは知りませんが、この後紀元70年にユダヤはローマによって滅ぼされ、2,000年近く流浪の民として歩みます。
 長い歴史の中で、彼らはイスラエルと呼ばれ、時にヘブライ人と呼ばれ、そしてユダヤ人と言われてきました。

 パウロは思います。神は約束を実現して救い主をお遣わしてくださった。神の約束を信じて歩んできたイスラエルこそ、その救いに与ってほしい。けれど、イエス キリストを受け入れない多くのイスラエルの気持ちも分かります。パウロ自身、キリスト教徒を迫害してきたからです。彼もイエス キリストを信じない者の一人でした。復活のキリストが出会ってくださらなければ、今も迫害者のままだったかもしれません。だからパウロは考えます。どうしたらイスラエルの民はイエス キリストを信じて、救いに与れるだろうか。
 これはすべての伝道に仕える者に共通する思いです。「どうしたらイエス キリストを伝えられるだろうか。」

 パウロは言います。「神の言葉は決して効力を失ったわけではありません。」これは、旧約の民イスラエルと交わした神の約束が無効とされたのではない、ということを言おうとしています。パウロは、神の約束、神の御心からイスラエルに語りかけようとしています。
 「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならず、また、アブラハムの子孫だからといって、皆がその子供ということにはならない。かえって、『イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる。』すなわち、肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。」
 アブラハムには、ハガルというそばめが生んだイシュマエルという息子もいました。しかし神はサラが生んだ「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われました。神の民は、神がお決めになるのです。パウロは言外に「神はキリストから生まれる者が、神の民と呼ばれるとお決めにられたのだ。これが新しい約束なのだ」と言っているのです。

 「約束の言葉は、『来年の今ごろに、わたしは来る。そして、サラには男の子が生まれる』というものでした。」この言葉を聞いた時、サラはひそかに笑いました。しかし主はアブラハムに言われます。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子どもが生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今頃、わたしはここに戻ってくる。その頃、サラには必ず男の子が生まれている。」
 神が告げられた時、アブラハムは100歳、サラは90歳になっていました。信じられないのは当然です。しかしアブラハムとサラは、神の約束は必ず実現するということを経験しなければなりませんでした。

 「それだけではなく、リベカが、一人の人、つまりわたしたちの父イサクによって身ごもった場合にも、同じことが言えます。」リベカはイサクの妻で、ヤコブとエサウの母親です。
 「その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に仕えるであろう』とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。『わたしはヤコブを愛し、/エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです。」

 ここで「憎んだ」という言葉に引っかかりを覚える方もおられると思いますので、少しだけ説明します。この言葉は「より少なく愛する」という意味で、ヘブライ語などセム語系言語の誇張した表現である、という説明のついた聖書がありました(フランシスコ会訳)。ですから、わたしたちが日本語で「憎んだ」と言うよりも、柔らかさを含んだ言い方なのだろうと思います。

 神はご自身の民としてヤコブを選ばれました。ヤコブとエサウが生まれる前からの選びです。行いは全く関係ありません。ただ神がヤコブを選び、彼を用いて救いの業をするとお決めになったのです。

 わたしの両親はキリスト者ではありません。弟も弟の家族も違います。なぜ、わたしだけがキリストを信じたのでしょうか。他の家族よりもまじめだったからでしょうか。優しかったからでしょうか。優れていたからでしょうか。どれも違います。わたしの思いを超える、神の選びがあり、神が救いの御業の中でどういう風になのかは分かりませんが、用いるとお決めになったからです。それによって「今どき神が命を創造しただなんてたわけたことを信じる人がいるのか」と信仰を愚かだと思っていた人間が、キリストを宣べ伝えるようにされたのです。

 神は、ご自身の独り子イエス キリストを選ばれました。救い主として選ばれました。自由な選び、人の業にも囚われない自由、その自由を神は救いのためにお用いになります。イエス キリストはユダヤ人として、イスラエルの一員としてお生まれになりました。アブラハムの子孫、ダビデの子孫として、神の約束のとおりお生まれになりました。およそ30歳から救い主として歩まれ、十字架を負い、陰府に降り、死を打ち破って復活し、天に昇られ、救いの道を開かれたのです。そして、キリストを信じることにより、わたしたちは神の子として新しく生まれるのです。ここから新たな神の民が生まれます。これが神の約束であり、選びなのです。

 パウロは、イスラエルの民が、自分の誇りに執着するのではなく、神の約束と選びに思いを向け、心を開くように願っています。神の約束は揺るがなかった。ただ人の思いを超えるものだったのです。

 今、神はパウロの手紙を通してわたしたちにも、ご自身の約束・選びを示されます。なぜ今皆さんが神の御前に集っておられるのか。それはただただ神の選びにより、神の約束の中に入れられているからです。

 旧約・新約の約は、約束の約です。神は全能で自由な方です。それなのにわたしたちの救いのために、ご自身を約束の中に置いてくださいます。わたしたちが神の約束によって、守られ支えられるためです。わたしたちの揺らぐ信仰は、神の約束によって守られ支えられます。そして、神が選ばれた救い主イエス キリストを仰ぎ見る時、わたしたちはキリストによって救われていることを信じることができるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 イエス キリストの救いの御業の中で、わたしたちを選び、約束の子としてくださったことを感謝します。あなたの愛と真実により、わたしたちはあなたの選びと約束に守られ、支えられております。どうか聖霊を注ぎ、あなたをいよいよ知る者、あなたを喜ぶ者で在らせてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン