2020年2月26日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 6:15〜19(新共同訳)
パウロは、3:21から5:21までキリストを信じることを通して与えられる救い、神の義について語ってきました。
しかし「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです」(5:20, 21)と語るに至って、批判されるようになりました。
「恵みが増し加わるのを期待して、罪の中に留まる」というのはどうでしょうか(6:1 フランシスコ会訳)とか「恵みの下にあるのだから、罪を犯してもいいんじゃないでしょうか」(6:15)とか言われ、「あなたの言っていることはおかしい」と非難されました。
それに対してパウロは「決してそうではない」(6:2, 15)とはっきりと言います。
6章の前半では、洗礼を取り上げ、キリスト者はイエス キリストと結び合わされ、キリストと共に罪に死に、キリストと共に復活し、新たに神に対して生きる者とされていることを示しました。
パウロは6章の後半で、新たに奴隷の例えを使って語ります。その理由を19節で「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです」と言います。神の秘義である洗礼を用いた説明だけではなく、当時の人々の周りにいた奴隷を例にとって、理解してもらおうとしているのです。
奴隷と訳されている単語(ドゥーロス)は僕(しもべ)とも訳されています。パウロはこの手紙の冒頭で、自分のことを「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」と自己紹介しています。
僕とは、主人に従う者です。主人の意志に従うのです。パウロが自分を「キリスト・イエスの僕」というときには、主であるイエス キリストの御心に従って福音宣教をしている、この手紙を書いていることを表明しているのです。
わたしたちはしばしば、自分は自由だと勘違いしてしまいますが、実はそうではありません。わたしたちは常に、何らかの価値基準に縛られています。それは、その時代の常識であったり、自分のこだわりであったり、自分の損得の基準だったりします。
問題は、神以外に従うとき、それらは罪に属するものだということです。それらがどんなに大事に思えても、神以外の基準を持つとき、人は罪の支配下に入ります。罪は、神の御心から離れるということです。神以外の基準は、必ず罪の支配下に入ります。
つまり、人には、神に従い神と共に歩む道か、罪に従い神から離れる道か、いずれかなのです。罪は、神のようになれる(創世記 3:5)とささやきながら、わたしたちを誘います。神から自由になれることは素晴らしいことだとささやきながら、罪はわたしたちを神から引き離します。
その罪の誘惑を絶えず受けて、繰り返し神から離れてしまうわたしたちのために、神はひとり子イエス キリストを救い主としてお遣わしになった訳です。そして神は、キリストの救いの恵みを「感謝します」と信じて受け取ることを通して、神に従い、神と共に生きる道へとわたしたちを引き戻してくださるのです。
パウロはその神の恵みをこう言い表します。「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」(6:16~18)
わたしたちは、キリストの救いによって、死に至る罪の奴隷から解放されて、神と共に生きる義の僕とされたのです。
義とは正しいという意味です。正しさにもいろいろな正しさがあって、法的な正しさ、倫理的な正しさなどいろいろあります。しかし聖書の義が表す正しさは、関係の正しさを表します。親子の関係がよいとか、職場の仲間との関係がよいとか、隣国との関係がよいというような関係の正しさを表す言葉です。聖書においては、もちろん神との関係が正しい良いものとなっていることを表します。ですから義の僕というのは、神と正しい関係になり、神に愛されていることを喜び、神に信頼し、神の御心に導かれて神と共に歩む存在のことなのです。
パウロが伝えようとしていることはこういうことです。救いは、神と共に生きることです。神と共に生きる人間は「恵みの下にあるのだから、罪を犯してもいいんじゃないでしょうか」(6:15)とは考えませんし、「恵みが増し加わるのを期待して、罪の中に留まる」というのはどうでしょうか(6:1 フランシスコ会訳)とも言いません。パウロは「決してそうではない」と繰り返し(6:2, 15)言っています。
パウロは言います。「かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。」
わたしたちは知っておかねばなりません。わたしたちはキリストの十字架によって贖われ、神の子とされたのです。神は言われます。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ 43:1)
たとえ、神の国で救いが完成するまで罪を犯すことがあっても、わたしたちはもはや罪を求めてはいないのです。もっと罪を犯したいなどと願ってはいません。神に従うことを求め、神と共に生きることを求めています。わたしたちは救いに入れられて、求めるもの目指すものが新たにされたのです。神から離れたら、悔い改めへと導かれるのです。
わたしたちは「主と同じ姿に造りかえられて」(2コリント 3:18)いくことを期待しています。神から「忠実な良い僕だ。よくやった」(マタイ 25:21, 23)と祝福されることを目指して「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」(フィリピ 3:13)歩んでいるのです。神の戒め(律法)をきちんと守っているかどうか自己評価をせずに、キリストの救いに入れられた喜びと感謝をもって主に従っていくのです。「お用いください」と自らを神に献げ、神に委ね、導いて頂くのです。自分の五体を主の御心をなすものとして神に献げて「聖なるものとしてください」と祈るのです。
わたしたちをご自分の民とするために、ひとり子イエス キリストを与えてくださった神の愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」(エフェソ 3:18)を知って、安心して信じて、神に従い仕えていくのです。
洗礼は、わたしたちがキリストと一つにされたことを表し続けます。「見よ、世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(マタイ 28:20 口語訳)と約束してくださった主は、わたしたちの心の内に住んでくださり、わたしたちが「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ」(エフェソ 3:17)ように導き続けてくださいます。主は「私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる」(エフェソ 3:20 新改訳2017)お方であります。
わたしたちは、自分自身に依り頼むのではなく、わたしたちの真実な救い主イエス キリストを信じて、生きるのです。
神は、その神の事実を知り、信じるように、わたしたちを礼拝へと招き、御言葉を通して語り続けてくださるのです。
ハレルヤ
父なる神さま
きょうもキリストの救いの豊かさをお示しくださり感謝します。
わたしたちはあなたの恵みを忘れてしまいますが、あなたは何度でも繰り返しわたしたちを招き導いてくださいます。あなたの真実と愛こそがわたしたちを救います。どうかあなたの恵みに満たされて、あなたの平安の内に喜び生きることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:ローマの信徒への手紙 6:15〜19(新共同訳)
パウロは、3:21から5:21までキリストを信じることを通して与えられる救い、神の義について語ってきました。
しかし「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです」(5:20, 21)と語るに至って、批判されるようになりました。
「恵みが増し加わるのを期待して、罪の中に留まる」というのはどうでしょうか(6:1 フランシスコ会訳)とか「恵みの下にあるのだから、罪を犯してもいいんじゃないでしょうか」(6:15)とか言われ、「あなたの言っていることはおかしい」と非難されました。
それに対してパウロは「決してそうではない」(6:2, 15)とはっきりと言います。
6章の前半では、洗礼を取り上げ、キリスト者はイエス キリストと結び合わされ、キリストと共に罪に死に、キリストと共に復活し、新たに神に対して生きる者とされていることを示しました。
パウロは6章の後半で、新たに奴隷の例えを使って語ります。その理由を19節で「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです」と言います。神の秘義である洗礼を用いた説明だけではなく、当時の人々の周りにいた奴隷を例にとって、理解してもらおうとしているのです。
奴隷と訳されている単語(ドゥーロス)は僕(しもべ)とも訳されています。パウロはこの手紙の冒頭で、自分のことを「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」と自己紹介しています。
僕とは、主人に従う者です。主人の意志に従うのです。パウロが自分を「キリスト・イエスの僕」というときには、主であるイエス キリストの御心に従って福音宣教をしている、この手紙を書いていることを表明しているのです。
わたしたちはしばしば、自分は自由だと勘違いしてしまいますが、実はそうではありません。わたしたちは常に、何らかの価値基準に縛られています。それは、その時代の常識であったり、自分のこだわりであったり、自分の損得の基準だったりします。
問題は、神以外に従うとき、それらは罪に属するものだということです。それらがどんなに大事に思えても、神以外の基準を持つとき、人は罪の支配下に入ります。罪は、神の御心から離れるということです。神以外の基準は、必ず罪の支配下に入ります。
つまり、人には、神に従い神と共に歩む道か、罪に従い神から離れる道か、いずれかなのです。罪は、神のようになれる(創世記 3:5)とささやきながら、わたしたちを誘います。神から自由になれることは素晴らしいことだとささやきながら、罪はわたしたちを神から引き離します。
その罪の誘惑を絶えず受けて、繰り返し神から離れてしまうわたしたちのために、神はひとり子イエス キリストを救い主としてお遣わしになった訳です。そして神は、キリストの救いの恵みを「感謝します」と信じて受け取ることを通して、神に従い、神と共に生きる道へとわたしたちを引き戻してくださるのです。
パウロはその神の恵みをこう言い表します。「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」(6:16~18)
わたしたちは、キリストの救いによって、死に至る罪の奴隷から解放されて、神と共に生きる義の僕とされたのです。
義とは正しいという意味です。正しさにもいろいろな正しさがあって、法的な正しさ、倫理的な正しさなどいろいろあります。しかし聖書の義が表す正しさは、関係の正しさを表します。親子の関係がよいとか、職場の仲間との関係がよいとか、隣国との関係がよいというような関係の正しさを表す言葉です。聖書においては、もちろん神との関係が正しい良いものとなっていることを表します。ですから義の僕というのは、神と正しい関係になり、神に愛されていることを喜び、神に信頼し、神の御心に導かれて神と共に歩む存在のことなのです。
パウロが伝えようとしていることはこういうことです。救いは、神と共に生きることです。神と共に生きる人間は「恵みの下にあるのだから、罪を犯してもいいんじゃないでしょうか」(6:15)とは考えませんし、「恵みが増し加わるのを期待して、罪の中に留まる」というのはどうでしょうか(6:1 フランシスコ会訳)とも言いません。パウロは「決してそうではない」と繰り返し(6:2, 15)言っています。
パウロは言います。「かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。」
わたしたちは知っておかねばなりません。わたしたちはキリストの十字架によって贖われ、神の子とされたのです。神は言われます。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ 43:1)
たとえ、神の国で救いが完成するまで罪を犯すことがあっても、わたしたちはもはや罪を求めてはいないのです。もっと罪を犯したいなどと願ってはいません。神に従うことを求め、神と共に生きることを求めています。わたしたちは救いに入れられて、求めるもの目指すものが新たにされたのです。神から離れたら、悔い改めへと導かれるのです。
わたしたちは「主と同じ姿に造りかえられて」(2コリント 3:18)いくことを期待しています。神から「忠実な良い僕だ。よくやった」(マタイ 25:21, 23)と祝福されることを目指して「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」(フィリピ 3:13)歩んでいるのです。神の戒め(律法)をきちんと守っているかどうか自己評価をせずに、キリストの救いに入れられた喜びと感謝をもって主に従っていくのです。「お用いください」と自らを神に献げ、神に委ね、導いて頂くのです。自分の五体を主の御心をなすものとして神に献げて「聖なるものとしてください」と祈るのです。
わたしたちをご自分の民とするために、ひとり子イエス キリストを与えてくださった神の愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」(エフェソ 3:18)を知って、安心して信じて、神に従い仕えていくのです。
洗礼は、わたしたちがキリストと一つにされたことを表し続けます。「見よ、世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(マタイ 28:20 口語訳)と約束してくださった主は、わたしたちの心の内に住んでくださり、わたしたちが「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ」(エフェソ 3:17)ように導き続けてくださいます。主は「私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる」(エフェソ 3:20 新改訳2017)お方であります。
わたしたちは、自分自身に依り頼むのではなく、わたしたちの真実な救い主イエス キリストを信じて、生きるのです。
神は、その神の事実を知り、信じるように、わたしたちを礼拝へと招き、御言葉を通して語り続けてくださるのです。
ハレルヤ
父なる神さま
きょうもキリストの救いの豊かさをお示しくださり感謝します。
わたしたちはあなたの恵みを忘れてしまいますが、あなたは何度でも繰り返しわたしたちを招き導いてくださいます。あなたの真実と愛こそがわたしたちを救います。どうかあなたの恵みに満たされて、あなたの平安の内に喜び生きることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン