聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 6:15〜19

2020-02-29 22:35:47 | 聖書
2020年2月26日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 6:15〜19(新共同訳)


 パウロは、3:21から5:21までキリストを信じることを通して与えられる救い、神の義について語ってきました。
 しかし「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです」(5:20, 21)と語るに至って、批判されるようになりました。

 「恵みが増し加わるのを期待して、罪の中に留まる」というのはどうでしょうか(6:1 フランシスコ会訳)とか「恵みの下にあるのだから、罪を犯してもいいんじゃないでしょうか」(6:15)とか言われ、「あなたの言っていることはおかしい」と非難されました。
 それに対してパウロは「決してそうではない」(6:2, 15)とはっきりと言います。

 6章の前半では、洗礼を取り上げ、キリスト者はイエス キリストと結び合わされ、キリストと共に罪に死に、キリストと共に復活し、新たに神に対して生きる者とされていることを示しました。

 パウロは6章の後半で、新たに奴隷の例えを使って語ります。その理由を19節で「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです」と言います。神の秘義である洗礼を用いた説明だけではなく、当時の人々の周りにいた奴隷を例にとって、理解してもらおうとしているのです。

 奴隷と訳されている単語(ドゥーロス)は僕(しもべ)とも訳されています。パウロはこの手紙の冒頭で、自分のことを「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロ」と自己紹介しています。
 僕とは、主人に従う者です。主人の意志に従うのです。パウロが自分を「キリスト・イエスの僕」というときには、主であるイエス キリストの御心に従って福音宣教をしている、この手紙を書いていることを表明しているのです。

 わたしたちはしばしば、自分は自由だと勘違いしてしまいますが、実はそうではありません。わたしたちは常に、何らかの価値基準に縛られています。それは、その時代の常識であったり、自分のこだわりであったり、自分の損得の基準だったりします。
 問題は、神以外に従うとき、それらは罪に属するものだということです。それらがどんなに大事に思えても、神以外の基準を持つとき、人は罪の支配下に入ります。罪は、神の御心から離れるということです。神以外の基準は、必ず罪の支配下に入ります。
 つまり、人には、神に従い神と共に歩む道か、罪に従い神から離れる道か、いずれかなのです。罪は、神のようになれる(創世記 3:5)とささやきながら、わたしたちを誘います。神から自由になれることは素晴らしいことだとささやきながら、罪はわたしたちを神から引き離します。
 その罪の誘惑を絶えず受けて、繰り返し神から離れてしまうわたしたちのために、神はひとり子イエス キリストを救い主としてお遣わしになった訳です。そして神は、キリストの救いの恵みを「感謝します」と信じて受け取ることを通して、神に従い、神と共に生きる道へとわたしたちを引き戻してくださるのです。

 パウロはその神の恵みをこう言い表します。「知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」(6:16~18)
 わたしたちは、キリストの救いによって、死に至る罪の奴隷から解放されて、神と共に生きる義の僕とされたのです。

 義とは正しいという意味です。正しさにもいろいろな正しさがあって、法的な正しさ、倫理的な正しさなどいろいろあります。しかし聖書の義が表す正しさは、関係の正しさを表します。親子の関係がよいとか、職場の仲間との関係がよいとか、隣国との関係がよいというような関係の正しさを表す言葉です。聖書においては、もちろん神との関係が正しい良いものとなっていることを表します。ですから義の僕というのは、神と正しい関係になり、神に愛されていることを喜び、神に信頼し、神の御心に導かれて神と共に歩む存在のことなのです。

 パウロが伝えようとしていることはこういうことです。救いは、神と共に生きることです。神と共に生きる人間は「恵みの下にあるのだから、罪を犯してもいいんじゃないでしょうか」(6:15)とは考えませんし、「恵みが増し加わるのを期待して、罪の中に留まる」というのはどうでしょうか(6:1 フランシスコ会訳)とも言いません。パウロは「決してそうではない」と繰り返し(6:2, 15)言っています。

 パウロは言います。「かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。」

 わたしたちは知っておかねばなりません。わたしたちはキリストの十字架によって贖われ、神の子とされたのです。神は言われます。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」(イザヤ 43:1)
 たとえ、神の国で救いが完成するまで罪を犯すことがあっても、わたしたちはもはや罪を求めてはいないのです。もっと罪を犯したいなどと願ってはいません。神に従うことを求め、神と共に生きることを求めています。わたしたちは救いに入れられて、求めるもの目指すものが新たにされたのです。神から離れたら、悔い改めへと導かれるのです。
 わたしたちは「主と同じ姿に造りかえられて」(2コリント 3:18)いくことを期待しています。神から「忠実な良い僕だ。よくやった」(マタイ 25:21, 23)と祝福されることを目指して「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」(フィリピ 3:13)歩んでいるのです。神の戒め(律法)をきちんと守っているかどうか自己評価をせずに、キリストの救いに入れられた喜びと感謝をもって主に従っていくのです。「お用いください」と自らを神に献げ、神に委ね、導いて頂くのです。自分の五体を主の御心をなすものとして神に献げて「聖なるものとしてください」と祈るのです。

 わたしたちをご自分の民とするために、ひとり子イエス キリストを与えてくださった神の愛の「広さ、長さ、高さ、深さ」(エフェソ 3:18)を知って、安心して信じて、神に従い仕えていくのです。
 洗礼は、わたしたちがキリストと一つにされたことを表し続けます。「見よ、世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(マタイ 28:20 口語訳)と約束してくださった主は、わたしたちの心の内に住んでくださり、わたしたちが「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ」(エフェソ 3:17)ように導き続けてくださいます。主は「私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる」(エフェソ 3:20 新改訳2017)お方であります。

 わたしたちは、自分自身に依り頼むのではなく、わたしたちの真実な救い主イエス キリストを信じて、生きるのです。
 神は、その神の事実を知り、信じるように、わたしたちを礼拝へと招き、御言葉を通して語り続けてくださるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 きょうもキリストの救いの豊かさをお示しくださり感謝します。
 わたしたちはあなたの恵みを忘れてしまいますが、あなたは何度でも繰り返しわたしたちを招き導いてくださいます。あなたの真実と愛こそがわたしたちを救います。どうかあなたの恵みに満たされて、あなたの平安の内に喜び生きることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 10:9〜13

2020-02-23 18:49:17 | 聖書
2020年2月23日(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 10:9~13(新共同訳)


 神はわたしたちを罪から救いたいと願っておられます。罪を犯したため、神と共に歩めず、死に囚われてしまったわたしたちを、死から解放し、神と共に歩めるようにしようと願っておられます。

 神は救いのためにご自身の御子、イエス キリストを遣わしてくださいました。罪の支配からわたしたちを解放し、イエスご自身がわたしたちの主となるために救いの御業を成し遂げてくださいました。ご自身の命を代価としてわたしたちの主となってくださいました。日本キリスト教会信仰の告白も冒頭から「わたしたちが主とあがめる神のひとり子イエス・キリスト」と、イエス キリストがわたしたちの主であってくださることを告白しています。

 このイエス キリストこそわたしの主であってくださる。わたしは主のものとされている。わたしのすべてはイエス キリストと結び合わされている。わたしはキリストにあって神の民、神の子とされている。これがわたしたちの救いの核心の部分です。

 この救いに与らせ、神の民として新しく生きさせるために、神は「宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えに」(1コリント 1:21)なりました。宣教を通してイエス キリストに出会い、イエス キリストが救い主であることを知るように、信じるように導かれたのです。

 そしてきょうの箇所です。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われる」(9節)。「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(10節)
 9節で語ったことを10節で、更に簡潔に、神はこのようにして救われるのだと確認するように語ります。9節でも10節でも「公に言い表し」と「信じる」と言われます。
 「公に言い表し」は他の訳では「告白する」と訳されます。信じることと告白することが一つとなって語られます。神は、救いの御業を信じて、神の愛と恵みを受けつつ神と共に生きることを願っておられます。神との間に「信じる」という関係が築かれることを望んでおられます。そして、神にかたどられた者として言葉が出来事と成るように、神が「光あれ」と言われたときに「光」が現れたように、信仰を告白したときに、救いが出来事として現れるようにしてくださったのです。神の救いの業の中で、言葉が救いを生み出すようにしてくださったのです。

 神がこのようにしてくださったので、わたしたちの教会は告白を重んじます。
 告白するという言葉は「ホモロゲオー」というギリシャ語で「同じ言葉を語る」という意味です。神が成してくださった救いの業に対して「神はイエスを死者の中から復活させられた。こうしてイエスはわたしの主となってくださった」と一つの告白するのです。この一つの告白、同じ言葉によって、神と結び合わされ、わたしたちも一つに結び合わされるのです。
 わたしたちの信仰は一人ひとり違います。けれど救いの御業の前で、同じ信仰告白の言葉が共有されるのです。礼拝において、聖書の解き明かしに対して「アーメン(その通りです。真実です)」と同じ言葉で応答し、日本キリスト教会信仰の告白、あるいは使徒信条を共に告白することで神に応答します。神の救いの出来事が、性格も考え方も違うわたしたちに同じ言葉を与え、救いへと招き入れてくださるのです。神が、信じることを造り出してくださり、救いの御業が救いを生み出す言葉を与えてくださるのです。

 ここで気をつけて頂きたいのは、聖書は洗礼を受けたら救われるとは言いません。わたしたちは洗礼という儀式を受けることによって救われるのではありません。洗礼、そして聖晩餐は、救いを指し示すものです。救いを信じるために与えられたしるしです。しかし、救いそのものではありません。聖礼典という儀式によって救われるのではありません。わたしたちはイエス キリストによって救われるのです。イエス キリストこそが救いなのです。
 神は、救いの御業を通して、イエス キリストが救い主であると信じる、神の愛を信じるという信じる関係を造り出してくださいました。そして信じたことを告白し、言葉が出来事となるという神にならう神の民、神の子としてくださったのです。
 神は「信じる」ことと「告白」を通して、神ご自身、神の救いの御業と一つに結び合わせてくださったのです。

 ここでパウロはイザヤ書を引用します。「主を信じる者は、だれも失望することがない。」(イザヤ 28:16)なぜパウロはこの言葉を引用したのでしょうか。それは、どうしても人は目に見える確かさを求めてしまうからです。割礼であったり、お守りであったり、洗礼も含めた儀式など、目に見える確かさです。
 救いの確かさ、根拠は、わたしたちの側にあるのではありません。「洗礼を受けたときよりも、信仰がさめてきているから、洗礼を受けたときほど救われていないと思う」ということではないのです。救いは神の真実によるのです。
 救いは、人間の側に確信を求めようとすると、律法主義になっていきます。人間の業で救いを測ろうとしてしまいます。9〜11章はイスラエルの救いについて書いているので、律法主義的な信仰の中で育ってきた人たちに対して語っています。神の側に救いの確かさがあり、神は真実なお方です。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない」(ヘブライ 13:8)真実な救い主です。だから神を信じるのです、神を信じて大丈夫なのです、と伝えたいのです。だから旧約の預言者の言葉を引用して「あなた方もそう聞いてきたではないか」とパウロは言うのです。

 ユダヤ人であれ、ギリシャ人であれ、日本人であれ、信じている人も信じていない人も、すべての命は神が造られたもの。「すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みに」(12節)なるのです。

 救いについて、罪人は人間の論理でいろいろなことを言いますが、救いは神の側にある事柄です。ですから、神の御心、神の御業から聞いていかねばなりません。そこでパウロは最後にもう一度旧約(ヨエル 3:5)を引用して語ります。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(13節)のです。

 神は、救いを求める者に、信じることを与え、告白によって神に応答する者としてくださいます。神は、救いを求める者に、共に生きることのできる恵みを与えてくださいます。「主の名を呼び求める者はだれでも」神が救ってくださるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたご自身が、信じることができる存在となってくださったことを感謝します。どうかあなたご自身に支えられて救いの道を歩ませてください。あなたとの交わりを喜び楽しむことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 6:12〜14

2020-02-20 22:10:27 | 聖書
2020年2月19日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 6:12〜14(新共同訳)


 パウロは、「キリストを信じることを通して与えられる神の義によって救われる」(3:21~)ということを丁寧に語ってきました。キリスト以外のものに望みを置かず、自分を誇ることがないように、救いについて語ってきました。

 ところが、パウロが「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(5:20)と語るに至って、では「恵みが増し加わるのを期待して、罪の中に留まる」というのはどうでしょうか(6:1 フランシスコ会訳)という批判が投げかけられました。「あなたが言っていることはおかしいだろう」と言うのです。

 それに対してパウロは「決してそうではない」(6:2)と、さらに洗礼が示す救いの恵みを明らかにします。
 救いは、キリストと一つにされることです。特に、その十字架の死と復活に結び合わされることです。つまり、キリストと共に死んで罪から解放され、キリストと共に神に生きるという神の奇跡なのだとパウロは言います。
 パウロはガラテヤの信徒への手紙でこう言います。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ 2:20)
 この「キリストと一つに結び合わされて神と共に生きる」というのが聖書が伝える救いです。イエスも言われます。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(マタイ 28:20 口語訳)

 パウロが今語っている内容は、神学では「聖化」と呼ばれます。聖化とは、神のものとされる、この世から分けられる、清められることを意味します。これはパウロが批判した律法で生きるのとは何が違うのでしょうか。

 律法で生きるのは、自分に生きるのです。救われた者が神に生きると言われるのとは反対です。律法で生きる者は、自分を誇りとします。キリスト者の場合、神を讃え、感謝しつつ、自分の信仰を誇ります。わたしは罪人ですと言いつつ誇ります。さりげなくですが、誇ります。自分が信じていること、自分が奉仕していること、自分に目を向けています。やっかいなことに自分に目を向けていることにも気づかず自分を誇ることがしばしばあります。
 一方聖化は、神の恵みによって神に生きるのです。自分でこういうことをしようではなく、神が自分に何を願っておられるのか、神の御心は何かを祈り求め、思い巡らしていくのです。そのとき、神の救いの出来事、神の恵みの事実を基準に考えます。ここでパウロは、キリストの十字架と復活、それを指し示す洗礼に基づいて考えていきます。そして、神の救いの御業、神の恵みにふさわしい在り方を求めていくのです。きょうの聖書の箇所は、パウロが救いの出来事、イエス キリストに思いを向けて、神の御心を聞いていった箇所です。

 わたしたちは、自分で立つことはできません。大地に支えられているから立てるのです。支えるものが何もない空中で立つことはできません。またわたしたちは、自分で泳ぐことはできません。水に支えられて浮かせてもらうから泳げるのです。同じようにわたしたちは、神の救いの御業、神の恵みに支えられて神の民として立つことができ、歩むことができるのです。聖化も、自分でやる、自分の願い通りにするなどと力を入れるのではなく、恵みに支えてもらい、そして神の御心を祈り求めつつ、従っていくのです。

 キリスト者は、キリストの十字架と復活に結び合わせられるため、洗礼を受けました。洗礼により、キリストと共に葬られ、キリストと共に復活しましたことを覚えさせられます(6:5)。キリストと共に死んで、キリストと共に生きる(6:8)のです。キリスト者は、罪に対して死んだ者であり、神に生きている者です(6:11)。これが神の救いの御業です。神がなしてくださった事実です。だから「自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げ」る(6:13)のです。

 ここで注意点が一つあります。この自分を献げるとき、できたできないの自己評価はしないのです。ただひたすら神の御心に思いを向けるのです。自己評価を止めるのです。自己評価は、神の恵みを忘れて、自分で立とう泳ごうすることです。既にイエス キリストが十字架を負って罪を贖ってくださいました。わたしたちはキリストによって救われているのです。評価は神がなさるものであり、神はわたしたちを義としてくださいました。わたしたちは救いの恵みの中で、安心して神に委ねて生きるのです。思いを向けるのはイエス キリストであり、神の言葉です。繰り返して言いますが、自己評価はしないのです。思いは神に向けるのです。

 その際にパウロが繰り返ししているように、神の恵みの事実を確認します。きょうの箇所の最後に出てくる「あなたがたは・・恵みの下にいる」もそれです。この神の救いの御業の中にある事実を確認することが、罪を抱えて生きるわたしたちには大切です。
 わたしたちは罪を赦されました。罪の支配から解放されました。しかし罪がなくなった訳ではありません。日々罪を重ねています。救いが完成するのは、神の国に復活するときです。しかし、神の国を目指してキリストと共に歩むことが大切です。神と共に生きること、それが救いだからです。わたしたちはその恵みの下にあるのです。だから、その事実を知って、確認することが大事なのです。わたしたちは、キリストに救われ、キリストと一つにされ、今恵みの下にいるのです。

 自分自身を神に献げることは、時間かけて行うリハビリや体質改善に似ています。本来持っている命の力を回復させるために、日々行います。体が忘れてしまっている動き・働きを回復するため、毎日行います。
 わたしたちが神に従うときもこれと同じです。本来、神にかたどって造られ、愛され、祝福されています。けれど罪のギブスをはめていたため、動かなくなっています。また罪による曲がった姿勢・生き方で歪んでしまったものを整え直していくことになります。急には治りません。日々行っていくのです。それも自己流で行うのではありません。神の御心によって導かれていくのです。

 使徒言行録16章に、パウロたち一行がアジアで御言葉を語ることを聖霊に禁じられたと書かれています。信仰を持ってキリストの福音を宣べ伝えるために仕えていても、神が道を閉ざし神の計画は違うことを示されました。わたしたちも信仰を持って仕えようとしていても道を閉ざされることがあります。信仰から出た思いであっても、神は「それは違う」と示されて、わたしたちが神の御心を求めるように神は訓練をし、導かれます。自分の思いではなく、神の御心に委ねて歩むように、神が訓練されるのです。

 到達点ははっきりしています。イエス キリストです。「わたしたちは皆・・栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント 3:18)とはっきり語られています。
 神の国で復活するとき、わたしたちは復活のイエス キリストと同じ姿に変えられます。そして今は、その途上にあって日々「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」のです。

 これは律法によって自分を高め、自分を誇り、自分を喜ぶのとは、全く違います。恵みを受け、恵みに満たされ、恵みを味わって生きるのです。そして神に支え導かれ、神を喜び讃えて、神の国に至るのです。これが聖書が語っている聖化なのです。

 義認も聖化も、救いの一面を表すものです。義認は神がなしてくださるけれども、聖化はわたしたちの努力目標だ、などということはありません。義認も聖化も神の御業です。イエスはこう言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように・・わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ 15:16)
 イエス キリストがわたしたちを選び、任命してくださいました。だからパウロはフィリピの信徒への手紙でこう言います。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」(フィリピ 1:6)

 わたしたちは、信仰から信仰へ、恵みから恵みへと救いの道を導かれているのです。ですから恵みの下にあるわたしたちは、自分自身を神に献げ、委ねて生きるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちの人生を、イエス キリストへ、神の国へと導いていてくださることを感謝します。どうかあなたの恵みを味わい、喜びつつ、あなたが愛していてくださるわたしたち自身を献げていくことができますように。御国の到来を待ち望みつつ、日々栄光から栄光へとキリストの姿に変えられていきますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ヨハネによる福音書 4:39〜42

2020-02-16 19:40:03 | 聖書
2020年2月16日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 4:39〜42(新共同訳)


 昨年の9月からこの 4:1 から始まるサマリアのシカルで名も知られぬ女性とイエスが出会われた話を聞いてきました。きょうはその物語の最後の場面です。

 イエスの一行はガリラヤへと行く途中、サマリアのシカルという町に立ち寄りました。このシカルという町にはヤコブの井戸と呼ばれる井戸があって、イエスはその井戸の傍らに、疲れと空腹のため座り込んでいました。そこで一人の女性と出会います。この女性とイエスの不思議な対話が始まります。この対話の中で、イエスはこの女性に自らのことを明らかにします。
 彼女は言います。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」するとイエスははっきりとお答えになります。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
 イエスが特別な人であることは、この対話を通して彼女にもよく分かりました。彼女は、水を汲むために井戸に来たのですが、水がめを置いたまま町へと駆け出し、出会う人々に「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と言って回りました。

 町の多くの人たちは、彼女の言葉を信じました。町の人たちにとって、彼女は運のない女、5人の夫がいたが、連れ添うことのできなかった女、今では傷つくことを恐れて結婚せずに男と暮らしている女。
 町の人たちはどうして彼女の言葉を信じたのでしょう。
 それは彼女が「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と言ったからです。町の人たちは、彼女の行ったことを知っていました。そして彼女がそれに触れられたくないことも知っていました。顔を合わせるのを避けて、昼日の中、井戸に水を組みに来ることも知っていました。その彼女が「わたしの行ったことをすべて言い当てた人がいる」と言い、さらには「この方がメシアかもしれません」と言って回って語るのを止めないのです。

 福音書は彼女の言葉を「証言」と言っています。元になる言葉「マルトュレオー」は「証しする」という意味で、「殉教、殉教者」という言葉にもつながっていく言葉です。彼女は自分自身をかけて伝えました。町の人たちにもそれが分かりました。顔を合わせたくない自分たちのところへ飛びこんで来て「わたしの行ったことをすべて言い当てた人がいる」と言って止めないのです。彼女はまさしくイエスを証言し、証ししたのです。
 彼女の証言は、彼女の人生がかかったものでした。しかし内容は、旧約の引用もなく、メシアつまり救い主がどういう存在なのかの説明もありません。けれど「この方です」とイエスを指し示すには、知識が必要なのではありません。「このわたしを知っていて」くださり「このわたしのために来てくださった」イエス キリストと出会ったかどうかだけなのです。

 町の人たちは「イエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるように」と頼みました。ガダラ人の地で悪霊に憑かれた人を癒やしたとき、豚が湖に飛び込むということがあって、町の人たちがイエスに「出て行ってもらいたい」(マタイ 6:34)と言ったのとは対照的です。

 そしてイエスは、二日間そこに滞在されました。たった二日間です。しかし、おそらく今回の出来事を通して、イエスの弟子たちとサマリアには繋がりができました。使徒言行録8章にはサマリアに再度福音が伝えられたことが記されています。
 「エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って」(使徒 8:1)行きました。フィリポも「サマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝え」(使徒 8:5)ました。「エルサレムにいた使徒たちは、サマリアの人々が神の言葉を受け入れたと聞き、ペトロとヨハネをそこへ行かせ」ました。「二人はサマリアに下って行き、聖霊を受けるようにとその人々のために祈」(使徒8:14,15)りました。「ペトロとヨハネは、主の言葉を力強く証しして語った後、サマリアの多くの村で福音を告げ知らせて、エルサレムに帰って行った」(使徒 8:25)のです。

 彼女がイエスと過ごした時間は1時間にも満たない時間だったかもしれません。イエスがシカルの町に滞在されたのは、二日間だけでした。しかし「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道 3:11 口語訳)のです。「そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じ」ました。

 町の人たちは彼女に言います。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからでは」ありません。「わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

 聖書は「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(ローマ 10:17)と言います。わたしたちは、キリストを指し示すことはできます。証しすることはできます。しかし信仰を与えることはできません。信仰は、一人ひとりがキリストと出会い、キリストご自身の言葉を聞くことによって与えられるのです。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(1テモテ 2:4)御言葉(聖書)と聖霊によりキリストと出会い、信仰が与えられ、信仰が与えられて、キリストにおいて現された神の真理、愛故に罪人を救うという神の真理を知るのです。

 教会は、信仰の要であるイエス キリストと出会うために建てられました。だからキリストの言葉を語り、神の御心を取り次ぎます。この教会に集う一人ひとりが「わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かった」と告白するためです。
 ある人(カール バルト)は「一人のキリスト者が生まれるということは、天地創造に匹敵する奇跡である」と言ったそうですが、わたしもその奇跡を神が起こしてくださると信じて説教するのです。

 サマリアの教会の最初の礎は、名も知られぬ一人の女性でした。敢えて人間的な表現をするなら取るに足らぬ一人の女性でした。しかし、神の御業は人の目には見えぬところ、人の思いの届かぬところにまで及びます。イエスご自身が譬えられたようにいなくなった一匹の羊(ルカ 15:1~7)、たった一人の女性をイエスは尋ね求められるのです。

 キリスト教会の2000年の歴史から見れば、わたしも皆さんも名も知れぬ者でしょう。しかし「名も知れぬ」は神にとって問題ではありません。神にとって問題なのは、キリストと出会ったかどうか、キリストがあなたを求めている救い主であると知ったかどうか、信じたかどうかなのです。
 どうかこの教会が、キリストと出会える教会でありますように。集う一人ひとりがキリストの恵みに与れる教会でありますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたは愛をもって造られた一人ひとりをお忘れになりません。どこまでも捜し求めて、あなたの許に連れ帰ってくださいます。そして用いてくださいます。どうかこの教会に集う一人ひとりもあなたが捉え、導いてくださいますように。どうかこの教会に集う者たちが、キリストと出会い、救いに与ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 6:5〜11

2020-02-13 17:38:36 | 聖書
2020年2月12日(水) 祈り会
聖書:ローマの信徒への手紙 6:5〜11(新共同訳)


 パウロは、「キリストを信じることにより与えられる神の義によって救われる」(3:21~)ということを丁寧に語ってきました。キリスト以外のものに望みを置かないように、割礼や律法を守っていることで自分を誇ることがないように、神がイエス キリストを遣わしてどれほど大きな恵みを注いでくださったかを語りました。

 しかし、神がわたしたちを罪から救い、わたしたちと共に生きたいと願っておられるのに、罪は神の御心をねじ曲げることを考えます。
 「罪が増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれたんですよね。それなら、恵みが増し加わるために罪に留まったらいいんじゃないでしょうか。」(6:1)「恵みが増し加わるのを期待して、罪の中に留まる」のはどうでしょう(フランシスコ会訳)。

 実は、このような言い方は、神に従うのを拒む人によってだけではなく、熱心に神に従おうとする人からも言われてきました。
 日本キリスト教会は改革派教会の伝統に立つ教会です。改革派教会は、救いについて「イエス キリストによってのみ救われる」と告白してきました。しかしこの理解は、公同の教会の中からも批判されてきました。何と言って批判されたかというと「キリストによってのみ救われるという教えは、善を行わない人間を育てる悪い教え」であると。つまり、キリストによってだけ救われるならば、人は救いのために何もしなくてもよいことになる。そうなったら、人は善を行おうとしなくなるだろう。キリストによってのみ救われるという教えは、善を行おうとしない人間を育てる悪い教えであると。

 しかし、「善を行おうとしないだろう」という人間の予測で聖書の教えを決めるのではありません。神の言葉である聖書が何と言っているかが問題なのです。
 パウロは、「恵みが増し加わるために罪に留まったらいいんじゃないでしょうか」と言われるほど徹底してキリストによる救い、キリストを信じる信仰の義について語りました。そのパウロが「恵みが増し加わるために罪に留まったらいいんじゃないでしょうか」という皮肉な問いかけに何を答えたかというと、「決してそうではない」と言って洗礼の秘義を示したのです。
 洗礼は、キリストと一体とされる神の秘義を指し示すものです。罪人をキリストと一体として、キリストの十字架と復活の恵みに与らせるという神の奇跡を洗礼は証ししています。

 キリストによって救われると言うとき、どう救われるのかというと、わたしたちの救いのために人となられたキリストと一つにされるのです。特に、救いの現れである「十字架・復活」と一つにされる。つまり、キリストの「死と復活」と一つにされるのです。
 一つとなり、一体となるということは、もはやキリストと分けることはできず、キリストのすべてに与るということです。そして死ぬということは、罪との関わりが断たれるということ。復活するということは、キリスト者となる、神の民、神の子とされるということです。
 キリストを救い主として信じ、洗礼を受けるということは、キリストと一つとされて、キリストと共に生きるということなのです。

 だからパウロは言います。「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」(6:6~8)

 ここで問題なのは、洗礼を受けた自分自身が、未だに罪を犯しており、罪から解放されているとは思えない、ということです。これはわたし自身ずっと感じ続けてきました。
 わたしは洗礼を受けたら、細かなことにいつもイライラせず、寛容で穏やかな人間になれると期待していました。しかし洗礼を受けて何年経っても、そんな風になることはなく今に至っています。

 けれどわたしは今になって、わたしの理想、わたしの期待どおりにならないことが神さまの訓練だと思っています。仮にわたしが信仰の修養を経て、キリスト者らしい寛容で穏やか、愛に満ちた人になったとしましょう。そのときわたしはきっと、自分に自信を持ち、自分を誇るようになるだろうと思います。そして自分の罪に苦しむ人に「信仰生活を続けていけば、必ず変われます。わたしも変わりました」などと重荷にしかならないことを無責任に負わせることになるだろうと思います。

 わたしたちはキリストにますます依り頼むために、赦された罪人として歩んでいくのだと思います。救いに到達してしまった者としてではなく、完成の途上にある者として生きるのだと思います。パウロ自身こう言っています。「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。」(フィリピ 3:13~15)

 わたしたちは実感がない中で、神の言葉である聖書とイエスが与えてくださった目に見えるしるし、聖礼典により、信仰に生きるのです。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」(ヘブライ 11:1)なのです。

 何を確信し、何を確認するのかと言うと、それはきょうの御言葉です。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。」(6:8~11)

 キリストと一つになった実感はありません。けれど、神のひとり子イエス キリストは、わたしたちの救いのために人となってくださったのです。そしてご自身の命をかけて十字架を負い、そして復活してくださいました。これはあなたのためだとイエスはご自身の存在を掛けて証ししておられます。そして、イエス キリストを指し示す旧約39巻、新約27巻の聖書も、神の御心はあなたがイエス キリストによって救われることだと証ししています。さらに、イエス キリストの名によって建てられた公同のキリスト教会で、キリストが復活された日曜日ごとに礼拝が守られ、聖書が朗読され、解き明かされ、洗礼と聖晩餐の聖礼典が執り行われて、皆さん一人ひとりに神の救いの出来事を宣べ伝えています。

 神の言葉は出来事となります。神の言葉は真実で揺るぎません。イエス キリストご自身がそれを証ししておられます。神の言葉は救いの出来事を成し遂げ、わたしたちの内に信じること、信仰を創り出します。
 イエス キリストに出会い、父・子・聖霊なる神を知り、その救いに入れられるとき、わたしたちは神の恵みに生きる幸いに与ります。その時にはもはや「恵みが増し加わるために罪に留まるべき」とはつぶやかないのです。
 聖書は語ります。「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ 2:20)「わたしにとって、生きるとはキリスト」(フィリピ 1:21)なのです。

 命は神の奇跡です。創造の奇跡により命を与えられ、救いの奇跡によりキリストの復活の命、永遠の命に入れられました。神の救いの恵みにより、わたしたちは今、キリストと一つにされて生きているのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたの奇跡によってわたしたちは今生きています。イエス キリストと一つにして、神の子としてくださったことを感謝します。御言葉に導かれて、イエス キリストを仰ぎつつ、信仰に生きることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン