2021年2月21日(日) 主日礼拝
聖書:ヨハネによる福音書 6:60〜66(新共同訳)
イエスは言われました。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」(ヨハネ 6:53~55)
教会員の皆さんであれば「あぁ聖晩餐で示されている事柄だなぁ」と思われると思います。
ヨハネによる福音書は特に、キリストと一つにされる、新しく生まれるということを明らかにしようとしています。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ 3:3)キリストと一つにされて、キリストの命に生きるという、救いの秘義を明らかにしようとしています。
しかし、イエスがなされたしるしを見て、イエスに従ってきた弟子たちの多くが躓きます。
ここで気づかされることがあります。6章の始め、五千人の給食の出来事から「群衆」と言っていたのが、6:41では「ユダヤ人」と言い、それがきょうの6:60に来ると「弟子たち」に変わります。そして、この話の最後は「多くが離れ去り・・イエスと共に歩まなくなった」です。
これは、しるしを見て集まってきた人たちが、イエスの話や業に惹かれ、イエスに従うけれど、肝心のところで躓き、離れていくことを表しています。
彼らはイエスの救いの秘義とも言える話を聞いて、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」とつぶやき始めます。
教会員の皆さんにとっては、聖晩餐に与る中で当たり前になっているかもしれませんが、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る。・・わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」という話は、実にとんでもない話です。言葉通り受け止めれば、人の肉を食べ、血を飲むということです。とても正気の沙汰とは思えません。弟子たちがつぶやくのも仕方ないように思います。
けれどイエスは、弟子たちがつぶやいているのに気づいて言われます。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・。」
この言葉は、わたしたちの考えと神の考えの違いを示しています。つまり、わたしたちが罪を抱えていて、神の思いを理解できないことを表しています。
イエスは以前、自分を訪ねてきたニコデモに対して「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」(3:10)と言われました。イスラエルの教師であっても、新しく生まれるという神の御心は理解できないのです。
だからこれが分からないなら、このことの次に起こること、神のご計画を理解できるのだろうか、というイエスの思いを表しています。
わたしも40年近く聖晩餐に与っています。牧師になって30年近く聖晩餐の司式をしてきましたから、慣れてしまっていますが、この説教の準備をする中で思い出しました。そもそもイエスが救い主としてこられ、十字架に掛かるということが長い間理解できませんでした。なぜ神はそんなことをしなければならないのか。神が全能であるならば、自分のひとり子の命を献げるなどということをしなくても、罪人を救えるのではないかと思い、キリストの十字架が理解できませんでした。自分のひとり子を十字架に掛けて殺すなどというそんな残酷な神を、世界の人々は信じているのか、とても正気だとは思えない、そんな風に考えていました。神の思い、神の計画を理解できなかった自分が、かつて確かに存在していました。
罪は、神とは違う思いを抱くことですから、神がなされることに対して、どうしてそんなことが必要なのですか。なぜこうなさるのでしょうか、と理解できないことだらけです。自分が信仰を持ってからも、いろいろなことに出会う度に、なぜ神さまこんなことが起こるのでしょうか、あれほど神さまの導きを祈ってきたのに、どうしてこんな苦しいことに遭わなければならないのですか。神さまの導きが理解できないことだらけでした。
けれど、わたしたちをお造りくださったのも神の御心であるならば、わたしたちをどのようにしてお救いになるか、わたしたちにとって何が必要なのか、どうしたらわたしたちが救いに入ることができるのか、それは神だけがご存じのことです。わたしたちは自分の理性を駆使して、こうしたら上手く行くんじゃないか、こんなことをなくったって、こうしたらもっと上手に苦しまずにうまくやっていけるのじゃないだろうか、そういうことをしばしば思います。それと同じようなことを、イエスから救いの秘義を聞いた人たちも感じたのです。
イエスはさらに続けます。「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」
ヨハネによる福音書は、福音書を編纂する中で、霊、新しく生まれること(新生)、そして永遠の命ということを伝えようとして記事を選んでいるように思います。先程も引用したニコデモの出来事でも4章のサマリアの女性の話でも出てきます。「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3:3)「水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(3:5)「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(4:14)
イエスは言われます。「命を与えるのは霊である。」ここで言われている命は、罪によって死に至る命ではなく、神と共に生きる永遠の命のこと、神の国に入ることのできる新しく生まれた命です。
この命に対しては肉は役に立ちません。今わたしたちの周りではアンチエイジングということが言われ、いくつになっても若々しくあることの方が関心を集めています。けれどどんなに若々しくあっても、この世の肉の命は死に至ります。肉の命は、罪による死に囚われています。
死を超える神の命を与えるのは霊なのです。霊の働きは、結び合わせることです。聖霊は、神と結び合わせてくださいます。イエス キリストと結び合わせ、キリストの救いと復活の命に与らせ、神と共に生きる神の子としてくださいます。イエスは「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」と言われました。それはイエスが語られた言葉は、それを信じ受け容れる者を、神へと導き、永遠の命に与らせることを言っています。
さらに受け入れられたイエスの言葉は、キリストご自身をわたしたちの内に住まわせ、わたしたちを神の愛に根ざす者としてくださいます(エフェソ 3:17)。
イエス キリストこそ、わたしたちを神へと導く活ける神の御言葉です。
ここの一連の言葉で言われているのは、わたしたちが十字架の罪の贖いに与り、復活に至ること、キリストと一つになることによって霊の命に新しく生まれること、普段の食事が血肉となり、日々の命を支え育むように、イエス キリストの命を指し示すパンとぶどう酒(液)を頂くことを通して、聖霊なる神がイエス キリストご自身と結び合わせてくださり、イエス キリストの命に生きる神の子とされていることです。イエスは、救いの核心、救いの秘義をお語りくださったのです。
しかし自分の罪に気づかない者、自分の思いに囚われていることに気づかない者、あるいは命と未来は神の許にあることに気づかない者は、神の言葉、神の業を受け入れることができません。
イエスが言われた「あなたがたのうちには信じない者たちもいる」という言葉は、自分が今どこに立っているのかを気づかせようとしている言葉です。信じられない状態にある自分自身の姿に気づかせようとしておられます。
イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられます。しかしそれでも、この一連の言葉を命へと導くためにお語りくださいました。この者は信じないから、この者は裏切るから語っても無駄だと考えて、語らないのではなく、今は信じないことを、そして自分を裏切ることを知っていてもなお、イエスはお語りくださいます。
そのようにしてイエスがお語りくださったからこそ、十字架の前で逃げ去った弟子たちは聖霊降臨の後、イエスの語っておられたことに気づいて、あぁ自分たちが分からなかったとき、理解できなかったとき、信じられなかったときから、主はお語りくださっていた、その事に気づいて、イエスが語ってくださっていたことを語り継いでいったのです。
そしてイエスは言われます。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
自分の命、自分の人生、自分が考えるように生きる、とまるで命が自分の所有物であるかのように思っている間は、罪と死から自由になることはできません。わたしたち罪を抱えている罪人は、神の憐れみを求める方へと思いの向きを変えて頂かなくてはなりません。わたしは信じる、わたしはこう信じる、という自分が主体の信仰ではなく、自分自身を神に委ね、自分の信仰も神に導いて頂くのです。
イエスが救いの核心、救いの秘義とも言える話をしたために、弟子たちの多くが離れ去り、イエスと共に歩まなくなりました。彼らは、まだ罪に気づけず、命と未来が神の許にあることが分かりませんでした。
わたしたちは、信じない者から信じる者にパッと変わる訳ではありません。わたしはずっとイエスがなぜ十字架にお掛かりにならねばならなかったのか、なぜ神がひとり子を遣わすという仕方で救いをなさらなければならなかったのか、理解できずにいました。信仰をもって歩み始めてからも、なぜこのようなことがわたしの人生に起こるのか、神に祈り求めつつ歩んでいるのに、なぜこんな苦しみを経験しなければならないのか、神の御心が分からないことがたくさんありました。それでも、主はこのわたしに語り続けてくださいました。分からない理解できないときにも、語り続けてくださったから、理解できる時へと導かれてきました。そして今もまだ途上にあります。わたしの願いの一つは、神の御心が自分の思いになることですが、罪の世にあって生きる間は、なかなかそうはいきません。けれども一日一日、一つひとつの出来事を通して、神はわたしにお示しくださいます。あぁ主よ、そうだったのですかと、気づくように導いていてくださいます。イエスは自分の許を離れていく者、自分を裏切る者をもお見捨てにはなりません。その救いを願って、語り続けてくださいます。
そしてイエスは本物の救いを与えようとされました。いつも、誰に対しても、イエスは本当にその人を救う救い、神へと立ち帰らせ、神と共に生きる本当の救いを差し出しておられます。丁度聖晩餐において、「取って食べよ」とパンが差し出され、「この杯から飲め」と杯が差し出されるように、わたしたちを本当に救う救い、イエス キリストご自身を差し出していてくださいます。イエス キリストこそ、わたしたちの救いであり、わたしたちの命なのです。
ハレルヤ
父なる神さま
共に生きることを願ってわたしたちを造り、罪を犯してなおひとり子を遣わしてまで、わたしたちを命へと導いてくださり、感謝します。御子はその命のすべてを与えてくださり、わたしたちを御子の命に生きる者としてくださいました。あなたの救いの恵みは、わたしたちの思いを超えて、理解し尽くすことはできません。主がわたしたちのために備えてくださった聖晩餐の恵みを通して、あなたへと思いを馳せ、命を望み見ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:ヨハネによる福音書 6:60〜66(新共同訳)
イエスは言われました。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」(ヨハネ 6:53~55)
教会員の皆さんであれば「あぁ聖晩餐で示されている事柄だなぁ」と思われると思います。
ヨハネによる福音書は特に、キリストと一つにされる、新しく生まれるということを明らかにしようとしています。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(ヨハネ 3:3)キリストと一つにされて、キリストの命に生きるという、救いの秘義を明らかにしようとしています。
しかし、イエスがなされたしるしを見て、イエスに従ってきた弟子たちの多くが躓きます。
ここで気づかされることがあります。6章の始め、五千人の給食の出来事から「群衆」と言っていたのが、6:41では「ユダヤ人」と言い、それがきょうの6:60に来ると「弟子たち」に変わります。そして、この話の最後は「多くが離れ去り・・イエスと共に歩まなくなった」です。
これは、しるしを見て集まってきた人たちが、イエスの話や業に惹かれ、イエスに従うけれど、肝心のところで躓き、離れていくことを表しています。
彼らはイエスの救いの秘義とも言える話を聞いて、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」とつぶやき始めます。
教会員の皆さんにとっては、聖晩餐に与る中で当たり前になっているかもしれませんが、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得る。・・わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」という話は、実にとんでもない話です。言葉通り受け止めれば、人の肉を食べ、血を飲むということです。とても正気の沙汰とは思えません。弟子たちがつぶやくのも仕方ないように思います。
けれどイエスは、弟子たちがつぶやいているのに気づいて言われます。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば・・。」
この言葉は、わたしたちの考えと神の考えの違いを示しています。つまり、わたしたちが罪を抱えていて、神の思いを理解できないことを表しています。
イエスは以前、自分を訪ねてきたニコデモに対して「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」(3:10)と言われました。イスラエルの教師であっても、新しく生まれるという神の御心は理解できないのです。
だからこれが分からないなら、このことの次に起こること、神のご計画を理解できるのだろうか、というイエスの思いを表しています。
わたしも40年近く聖晩餐に与っています。牧師になって30年近く聖晩餐の司式をしてきましたから、慣れてしまっていますが、この説教の準備をする中で思い出しました。そもそもイエスが救い主としてこられ、十字架に掛かるということが長い間理解できませんでした。なぜ神はそんなことをしなければならないのか。神が全能であるならば、自分のひとり子の命を献げるなどということをしなくても、罪人を救えるのではないかと思い、キリストの十字架が理解できませんでした。自分のひとり子を十字架に掛けて殺すなどというそんな残酷な神を、世界の人々は信じているのか、とても正気だとは思えない、そんな風に考えていました。神の思い、神の計画を理解できなかった自分が、かつて確かに存在していました。
罪は、神とは違う思いを抱くことですから、神がなされることに対して、どうしてそんなことが必要なのですか。なぜこうなさるのでしょうか、と理解できないことだらけです。自分が信仰を持ってからも、いろいろなことに出会う度に、なぜ神さまこんなことが起こるのでしょうか、あれほど神さまの導きを祈ってきたのに、どうしてこんな苦しいことに遭わなければならないのですか。神さまの導きが理解できないことだらけでした。
けれど、わたしたちをお造りくださったのも神の御心であるならば、わたしたちをどのようにしてお救いになるか、わたしたちにとって何が必要なのか、どうしたらわたしたちが救いに入ることができるのか、それは神だけがご存じのことです。わたしたちは自分の理性を駆使して、こうしたら上手く行くんじゃないか、こんなことをなくったって、こうしたらもっと上手に苦しまずにうまくやっていけるのじゃないだろうか、そういうことをしばしば思います。それと同じようなことを、イエスから救いの秘義を聞いた人たちも感じたのです。
イエスはさらに続けます。「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。」
ヨハネによる福音書は、福音書を編纂する中で、霊、新しく生まれること(新生)、そして永遠の命ということを伝えようとして記事を選んでいるように思います。先程も引用したニコデモの出来事でも4章のサマリアの女性の話でも出てきます。「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3:3)「水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(3:5)「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(4:14)
イエスは言われます。「命を与えるのは霊である。」ここで言われている命は、罪によって死に至る命ではなく、神と共に生きる永遠の命のこと、神の国に入ることのできる新しく生まれた命です。
この命に対しては肉は役に立ちません。今わたしたちの周りではアンチエイジングということが言われ、いくつになっても若々しくあることの方が関心を集めています。けれどどんなに若々しくあっても、この世の肉の命は死に至ります。肉の命は、罪による死に囚われています。
死を超える神の命を与えるのは霊なのです。霊の働きは、結び合わせることです。聖霊は、神と結び合わせてくださいます。イエス キリストと結び合わせ、キリストの救いと復活の命に与らせ、神と共に生きる神の子としてくださいます。イエスは「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」と言われました。それはイエスが語られた言葉は、それを信じ受け容れる者を、神へと導き、永遠の命に与らせることを言っています。
さらに受け入れられたイエスの言葉は、キリストご自身をわたしたちの内に住まわせ、わたしたちを神の愛に根ざす者としてくださいます(エフェソ 3:17)。
イエス キリストこそ、わたしたちを神へと導く活ける神の御言葉です。
ここの一連の言葉で言われているのは、わたしたちが十字架の罪の贖いに与り、復活に至ること、キリストと一つになることによって霊の命に新しく生まれること、普段の食事が血肉となり、日々の命を支え育むように、イエス キリストの命を指し示すパンとぶどう酒(液)を頂くことを通して、聖霊なる神がイエス キリストご自身と結び合わせてくださり、イエス キリストの命に生きる神の子とされていることです。イエスは、救いの核心、救いの秘義をお語りくださったのです。
しかし自分の罪に気づかない者、自分の思いに囚われていることに気づかない者、あるいは命と未来は神の許にあることに気づかない者は、神の言葉、神の業を受け入れることができません。
イエスが言われた「あなたがたのうちには信じない者たちもいる」という言葉は、自分が今どこに立っているのかを気づかせようとしている言葉です。信じられない状態にある自分自身の姿に気づかせようとしておられます。
イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられます。しかしそれでも、この一連の言葉を命へと導くためにお語りくださいました。この者は信じないから、この者は裏切るから語っても無駄だと考えて、語らないのではなく、今は信じないことを、そして自分を裏切ることを知っていてもなお、イエスはお語りくださいます。
そのようにしてイエスがお語りくださったからこそ、十字架の前で逃げ去った弟子たちは聖霊降臨の後、イエスの語っておられたことに気づいて、あぁ自分たちが分からなかったとき、理解できなかったとき、信じられなかったときから、主はお語りくださっていた、その事に気づいて、イエスが語ってくださっていたことを語り継いでいったのです。
そしてイエスは言われます。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
自分の命、自分の人生、自分が考えるように生きる、とまるで命が自分の所有物であるかのように思っている間は、罪と死から自由になることはできません。わたしたち罪を抱えている罪人は、神の憐れみを求める方へと思いの向きを変えて頂かなくてはなりません。わたしは信じる、わたしはこう信じる、という自分が主体の信仰ではなく、自分自身を神に委ね、自分の信仰も神に導いて頂くのです。
イエスが救いの核心、救いの秘義とも言える話をしたために、弟子たちの多くが離れ去り、イエスと共に歩まなくなりました。彼らは、まだ罪に気づけず、命と未来が神の許にあることが分かりませんでした。
わたしたちは、信じない者から信じる者にパッと変わる訳ではありません。わたしはずっとイエスがなぜ十字架にお掛かりにならねばならなかったのか、なぜ神がひとり子を遣わすという仕方で救いをなさらなければならなかったのか、理解できずにいました。信仰をもって歩み始めてからも、なぜこのようなことがわたしの人生に起こるのか、神に祈り求めつつ歩んでいるのに、なぜこんな苦しみを経験しなければならないのか、神の御心が分からないことがたくさんありました。それでも、主はこのわたしに語り続けてくださいました。分からない理解できないときにも、語り続けてくださったから、理解できる時へと導かれてきました。そして今もまだ途上にあります。わたしの願いの一つは、神の御心が自分の思いになることですが、罪の世にあって生きる間は、なかなかそうはいきません。けれども一日一日、一つひとつの出来事を通して、神はわたしにお示しくださいます。あぁ主よ、そうだったのですかと、気づくように導いていてくださいます。イエスは自分の許を離れていく者、自分を裏切る者をもお見捨てにはなりません。その救いを願って、語り続けてくださいます。
そしてイエスは本物の救いを与えようとされました。いつも、誰に対しても、イエスは本当にその人を救う救い、神へと立ち帰らせ、神と共に生きる本当の救いを差し出しておられます。丁度聖晩餐において、「取って食べよ」とパンが差し出され、「この杯から飲め」と杯が差し出されるように、わたしたちを本当に救う救い、イエス キリストご自身を差し出していてくださいます。イエス キリストこそ、わたしたちの救いであり、わたしたちの命なのです。
ハレルヤ
父なる神さま
共に生きることを願ってわたしたちを造り、罪を犯してなおひとり子を遣わしてまで、わたしたちを命へと導いてくださり、感謝します。御子はその命のすべてを与えてくださり、わたしたちを御子の命に生きる者としてくださいました。あなたの救いの恵みは、わたしたちの思いを超えて、理解し尽くすことはできません。主がわたしたちのために備えてくださった聖晩餐の恵みを通して、あなたへと思いを馳せ、命を望み見ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン