聖書の言葉を聴きながら

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詩編 144:1〜2

2020-10-29 10:46:58 | 聖書
2020年10月28日(水) 祈り会
聖書:詩編 144:1〜2(新共同訳)


 この144篇は「王の詩篇」と呼ばれる詩編の一つです。王の詩編と呼ばれるものは全部で10篇あって、他には 2, 18, 20, 21, 45, 72, 101, 110, 132篇が王の詩編と呼ばれるものです。

 1節「【ダビデの詩。】主をたたえよ、わたしの岩を/わたしの手に闘うすべを/指に戦するすべを教えてくださる方を」
 これも表題に「ダビデの詩」とあります。表題にダビデと出てくると、ダビデ自身の祈りだと言う注解者でも、この詩篇についてはそうは言わないようです。それはこの詩篇が他の詩篇の引用が多いからです。8, 18そして104篇からの引用があるようです。中でも18篇とよく似ています。18篇を元に他の引用を入れて、神を讃美するために新たに編纂されたと理解されているようです。
 「主をたたえよ」詩人は人々を讃美へと導きます。
 「わたしの岩を/わたしの手に闘うすべを/指に戦するすべを教えてくださる方を」2節「わたしの支え、わたしの砦、砦の塔/わたしの逃れ場、わたしの盾、避けどころ/諸国の民をわたしに服従させてくださる方を。」様々な喩え、言葉を用いて、神がどのようなお方であるかを表現し、神を讃えます。言葉を重ねることで、神の豊かさを表そうとしています。このような表現は、ウェストミンスター信仰告白や大教理問答の神についての表現(神と三位一体の項目)にも反映されています。

 2節の最初に出てくる「支え」は、前回も出てきた「ヘセド」という言葉です。他の訳では「慈しみ」「恵み」などと訳されています。ヘセドは、契約関係の中で助けるまた愛することを表します。神の民を愛し助けてくださる神を表す言葉として使われています。
 2節最後の行の「諸国の民」は、写本が分かれているようです。最近の日本語訳はどれも「私の民」となっています。王が治め導く対象が誰なのかが、翻訳者の理解で変わってきます。新共同訳の理解だと、神の国を完成させるメシア的な王が、諸国の民を治め導くという理解になるでしょう。

 守ってくださる方としての表現は「岩」「砦」「逃れ場」などと言われます。
 一方、神の民を導く方としての表現は「わたしの手に闘うすべを/指に戦するすべを教えてくださる方」「諸国の民をわたしに服従させてくださる方」と言われます。

 「闘うすべ/戦するすべ」と言われます。旧約には異邦人と戦う場面がいくつもあります。現代では、この闘いを霊的な闘いとして解釈されることが多いと思います。けれど先程名前を出しましたウェストミンスター信仰告白の第23章「国家的為政者について」の項目では、一般に「正義の戦争」と言われる事柄が述べられています。
 23章2項にはこうあります。「キリスト者が、為政者の職務に召されるとき、それを受け入れ果たすことは、合法的であり、その職務を遂行するにあたって、各国の健全な法律に従って、彼らは特に敬けんと正義と平和を維持すべきであるので、この目的のために、新約のもとにある今でも、正しい、またやむをえない場合には、合法的に戦争を行なうこともありうる。」
 日本キリスト教会では、わたしが神学校に入学して(1986年)以降、この問題について論じられたことはありません。日本キリスト教会憲法 第2条(信仰の規範)の3項で、日本キリスト教会信仰の告白は、ウェストミンスター信仰告白で言い表されている信仰も継承している、と言われていますが、現在ウェストミンスター信仰告白の内容について論じられることはありません。
 わたしが神学校で授業を受けたある先生は「正義の戦争なんか受け入れられるの?」と言われたことがありました。おそらく受け入れられないだろうと思います。多分多くの牧師・長老たちは、日本国憲法 第9条「戦争の放棄」の立場だろうと思います。
 そしてプロテスタントの教派の中には、戦争・暴力を完全に否定するメノナイト、ブレザレン、クェーカーといった歴史的平和教会と呼ばれる教派もあります。

 それにも拘わらず、わたしは正義の戦争はあり得ると考えています。
 一つは、現実に戦争があるからです。わたしが最初に行った福島伝道所の松谷好明牧師が、ウェストミンスター信仰告白の学びをしてくださった際に、正義の戦争の項目があるために、いつもそれは正義の戦争なのかという問いかけがなされ、国家権力が暴走しないように議論がなされると話されたことが記憶に残っています。
 もう一つは、現実にヒトラーが登場し、多くのユダヤ人が強制収容所で殺されたという事実です。ユダヤ人は、ヒトラーが失脚するか寿命が尽きるまで殺され続けなければならないということなのかという疑問です。あの現実の中で、ナチスドイツと戦ったことを否定するのだろうか、強制収容所に連れて行かれてしまう人たちを前にして一切の戦争を否定する絶対平和主義を唱えるのかという疑問です。

 先ほども言いましたように、わたしの考えは今の日本キリスト教会においては少数です。もしかしたらわたし一人かもしれません。けれど、今回引き合いに出しましたウェストミンスター信仰告白は、世界の長老制の教会で最も多く採用されている信仰告白です。平和主義のキリスト者は多いと思いますが、戦争を完全に否定する絶対平和主義の立場に立つ人が多数ではないだろうと思います。

 旧約の時代、戦争は神の民と異邦人との間で起こりました。しかし今は違います。ヨーロッパで紛争が起きれば、キリスト者同士で戦うことになります。第一次世界大戦も第二次世界大戦でもそうでした。ユーゴスラビア紛争もそうです。ヨーロッパ内部だけでなくとも、今やキリスト者は世界中にいます。
 詩篇の時代、自動車も飛行機も、インターネットもありませんでした。文明は進み、社会は変化しました。しかし詩篇の時代から二千数百年が過ぎても、戦争はなくなりません。戦争に関わる国では、自国の勝利を願う祈りが献げられていることでしょう。戦場には、従軍牧師が連れて行かれ、戦闘の勝利を祈り、兵士の安全を祈っていることでしょう。
 イエスは言われました。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ 5:44)きょうのような箇所を「旧約の限界」と言って過ぎ去る人もいますが、そんなことを言っても戦争はなくなりませんし、勝利を願う祈りがなくなることもありません。
 戦争の問題は、今もまだ神学的、教義学的な課題だろうと思います。

 神は聖書を救いの歴史として書かれました。聖書において、歴史を理解するということは歴史を神の側から理解することです(A.ヴァイザー)。そして神は、この祈りを神の言葉とされました。わたしたちはこの祈り、この聖句からどのような神の御心を聴くのでしょうか。
 牧師や神学者が考えて、正解を出してくれるのではありません。神は、神の民一人ひとりが神の声を聞いて従うようにと、聖書を通して語りかけておられます。

 世界の様々なニュースを知ることのできる時代になりました。気持が重くなり憂鬱になるニュースが多く、ニュース自体聞くことが嫌になります。それでも耳に入ってくる目に留まるニュースがあったときには祈って頂きたいと思います。
 わたし自身は、きょうのような祈り・神への期待は、最終的には神の救いの御業の前進ための祈りへとつながっていくのだろうと思います。救いの御業の前進、神の国の完成を求めることへとつながっていくと思うのです。わたしたちは、それぞれが置かれた場所、直面している問題を祈ることを通して、救いの御業の前進、神の国の到来を求めていくのだと思います。そして神の国が到来するとき、わたしたちに与えられた約束、神が涙をことごとくぬぐい取ってくださり、悲しみも嘆きも労苦もない未来が成就するのです(黙示録 21:4)。そのために祈る務めが、神の民には与えられているのだと思います。


ハレルヤ


父なる神さま
 この罪の世にあって、わたしたちはあなたに願うこと、聞いて頂きたいことが数え切れないほどございます。そしてあなたは、教会・あなたの民を御心をなすためにお用いになります。どうかわたしたちにあなたの御心を明らかにお示しください。喜びをもってあなたに従い、仕えることができるようわたしたちの信仰をお導きください。どうか救いの完成へ向けて、御業を推し進め、御国を来たらせてくださいますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ヨハネによる福音書 6:28〜29

2020-10-25 17:17:36 | 聖書
2020年10月25日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 6:28〜29(新共同訳)


 イエスは自分を探してやってきた人たちに言います。「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(6:27)
 そこで人々は尋ねます。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」。命は神が与えてくださるもの。永遠の命もまた神が与えてくださいます。人々は、神から命を与えて頂くために、神の御心に適う業は何かと尋ねます。
 イエスは答えて言われます。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
 イエスは「自分を信じることが神の業である」と言われます。

 わたしたちは毎週「信じます」と告白し、信仰という言葉を当たり前に使います。しかし何故、信じることが神の業なのでしょうか。何故永遠の命を得るのに信じることが求められるのでしょうか。

 聖書は「罪によって死が入り込んだ」(ローマ 5:12)と言います。聖書が告げる最初の罪が創世記 3:6~7に記されています。聖書が記す最初の罪は、食べるのを禁じられていた善悪の知識の木の実を(創世記 2:17)食べることでした。
 善悪の知識の木の実を食べると、善悪の知識が身に付きます。ただしそれは神の善悪とは違うわたしたち一人ひとりの善悪です。この結果、人は神に従い、神と共に歩むことができなくなりました。神が言われることよりももっと良いと思えること、また神が言われることが自分にとって都合が悪い、良くないと思えることが出てくるようになってしまったからです。

 こうして人は、神の許に留まることができなくなってしまいました。人は自分の人生・自分の命を、神から離れ、自分の善悪に従って歩むようになったのです。命の造り主であり、命の源である神から離れていくその先は、死でありました。
 聖書はこの神から離れることを罪と言います。信仰がなくても立派な人はいます。尊敬できる人はいます。しかし罪のない人はいません。誰もが死に囚われています。歴史上の偉人であっても、聖人と呼ばれる人であっても、罪がもたらした死に囚われています。神の善悪と全く同じ善悪を持つ人、神の御心と全く同じ思いを持っている人は、一人もいないのです。

 人は自分の善悪を持ってしまったが故に、神の言葉を信じられなくなりました。「もっとこうした方がいいじゃないか」「なんでそんなことをしなければならないのか」という思いが常に湧いてきます。個人の自由が尊重される時代になればなるほど「わたしの人生はわたしのもの。わたしの好きに生きる」となって、罪に歯止めがかかりません。

 罪によって神が信じられなくなりました。神と共に生きられなくなりました。だから神の救いの御業は、信じることの回復なのです。

 信じることは、わたしたちの命に関わることです。もしわたしたちが、何も信じられなくなったとしたら、親も兄弟も友達も、社会も世界も、そして自分自身も信じられなくなったら、生きていくことはできません。
 お金も信用できない、お金を預ける金融機関も信じられない、売っている物の値段も信じられないとなったら、わたしたちは社会生活をすることができません。
 実にわたしたちが生きていくことの土台には、信じること・信用があるのです。信じることは、わたしたちが生きていくためになくてはならない必要なことの一つです。

 それが罪によって壊されてしまいました。噓をつく、だます、裏切るなど信じることを傷つけ、壊してしまうことが罪によって世に入ってきてしまいました。

 そのような罪の世で罪を抱えて生きるわたしたちのために、神自らが信じられる存在となって、信じることを回復してくださるのです。
 聖書に記された出来事は皆、神は真実であり、神は信じることのできるお方であることを証ししています。そして神は約束の成就として、独り子イエス キリストを救い主として世に遣わしてくださいました。
 ヨハネによる福音書は、イエス キリストを神の言葉として紹介します。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ 1:1,14)
 神の言葉は出来事となります。旧約の出来事、神の約束が、イエス キリストにおいて成就したこと、神の言葉は出来事となることを、ヨハネによる福音書は証ししているのです。だからヨハネによる福音書は、福音書を編纂した目的をこう記しています。「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネ 20:31)

 ヨハネによる福音書、そして聖書は、イエス キリストへの招きの言葉です。イエス キリストに出会い、神の真実を知り、神を信じて生きることへと招いています。信じることを通して、神と共に歩み、永遠の命に生きることへと招いています。
 イエスは言われます。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」
 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(ヨハネ 20:27)


ハレルヤ


父なる神さま
 どうか聖書を通してイエス キリストと出会うことができますように。イエス キリストによりあなたの真実を知ることができますように。どうかあなたを信じることの幸いに与らせてください。キリストを信じ、あなたを信じ、永遠の命に生きる者とさせてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

詩編 143:7〜12

2020-10-22 13:06:42 | 聖書
2020年10月21日(水) 祈り会
聖書:詩編 143:7〜12(新共同訳)


 神に助けを求める143篇の後半です。
 多くの願いが記されています。7節「答えてください」「隠さないでください」8節「聞かせてください」「教えてください」9節「助け出してください」10節「すべを教えてください」「導いてください」11節「命を得させ(てください)」「引き出してください」12節「絶やしてください」「滅ぼしてください」

 祈りは3つの要素からなります。一つは「神への感謝」もう一つは「神への讃美」そして三つ目は「願い」です。
 この中で一番多いのが「願い」です。感謝も讃美も大体一言で終わりますが、願いは自分への願いも、他者の執り成しも沢山出てきます。神に分かって頂きたい、聞いて頂きたいと思うせいか、ああも言い、こうも言い、言葉が重なっていきます。
 詩人も多くの願いを神に求めます。

 7節「主よ、早く答えてください」わたしたちにとって無視されることはとても辛いことの一つです。神を信じている者にとっては、神が祈りに応えてくださらないと信仰が絶えそうになります。「やっぱり神はいないのか」といった諦めに捕らわれてしまいそうになります。
 「わたしの霊は絶え入りそうです。」詩人は神とのつながりが切れてしまいそうな危機を感じています。
 「御顔をわたしに隠さないでください。」「顔を隠す」という表現は「忘れる」「棄てる」を意味しており、神が関係を断たれることを示す表現です。詩人は神との強いつながりを求めています。
 「わたしはさながら墓穴に下る者です。」詩人は自分の滅びが目の前にあるように感じています。

 8節「朝にはどうか、聞かせてください/あなたの慈しみについて。」夜が明けて、闇が消えていくように、見えなかったものが見えるようになるように、今は見えない神の慈しみが失われていないことを聞けるようにと祈ります。
 「あなたにわたしは依り頼みます。」危機の中で詩人は、信仰を手放さず、神の許に踏みとどまろうとします。
 「行くべき道を教えてください」。詩人は求めます、神と共に歩む道、神の国に至る道を。それが滅びを逃れる道であると詩人は信じています。
 「あなたに、わたしの魂は憧れているのです。」詩人は神に手を伸ばし、神を求めます。原文は「わたしはあなたへと魂を掲げます」となっています。魂を掲げるは「切望する、思いを寄せる」ことを表します。新共同訳はそれを「憧れている」と訳しました。ここを読んでわたしは「果たして自分は神に憧れているだろうか。イエス キリストに憧れているだろうか」という思いが浮かびました。

 9節「主よ、敵からわたしを助け出してください。御もとにわたしは隠れます。」詩人は、神の民がそう信じてきたように、神こそ我が逃れ場と信じて神に助けを求めます。

 10節「御旨を行うすべを教えてください。」8節では「行くべき道を教えてください」と祈りました。神の御心を行い、神と共に歩む。そこにこそ自分の救いがあることを詩人は知っており、それをこそ願います。
 「あなたはわたしの神。」詩人の存在を支える言葉です。この言葉と対になるのが2, 12節の「わたしはあなたの僕」です。「あなたはわたしの神です。そしてわたしはあなたの僕です。」ここに詩人のアイデンティティーがあります。これが詩人の信仰の核となるものです。
 「恵み深いあなたの霊によって/安らかな地に導いてください。」神の霊が豊かに注がれ、神とのつながりが確かにされることを詩人は願います。神とのつながりこそが神の恵み深さを表すものであり、それがあるとき、詩人は平安に歩み行くことができます。人の目には困難に見えるときも、安らかな地にあることができます。アブラハムが行き先を知らされないまま従うように召し出されて以来、神の民が寄留者のように神に従い歩んだときもそうでした。

 11節「主よ、御名のゆえに、わたしに命を得させ/恵みの御業によって/わたしの魂を災いから引き出してください。」「恵みの御業」とありますが、これはツェダカーという単語で、普通は「義、正義」と訳される言葉です。旧約の中で大切な言葉の一つです。新共同訳は「義」と訳したのでは分かりづらいと判断したのでしょう。聖書に出てくる「義」は関係の正しさを表す言葉です。夫婦、親子、家族、友人、そして神との関係の正しさを表す言葉です。詩人は、神との関係の正しさが整えられるとき、自分も災いから救い出され、命が守られると信じています。

 12節「あなたの慈しみのゆえに、敵を絶やしてください。わたしの魂を苦しめる者を/ことごとく滅ぼしてください。」不思議な表現が出てきます。「慈しみのゆえに、敵を絶やしてください。」「慈しみ」という言葉と「敵を絶やしてください」という言葉が釣り合わず違和感を感じます。この「慈しみ」という言葉、ヘブライ語で「ヘセド」という言葉ですが、契約関係の中で助けるまた愛することを表します。これも旧約の中で大切な言葉の一つです。「契約関係の中で助けるまた愛する」だからこの言葉に続くのが、「わたしはあなたの僕なのですから」という言葉なのです。神に向かって「あなたとわたしの間にはそういう関係がありますよね。あなたはわたしの神で、わたしはあなたの僕です」と訴えているのです。
 神は、詩人の、そしてわたしたちの怒りや憤りも受け止めてくださいます。「敵を絶やしてください。ことごとく滅ぼしてください。」この言葉、この祈りが聖書に収められているのは、神がこれらの思いを受け止めてくださるということです。神は罪を抱えたわたしたちが、罪の世で生きており、罪ゆえの理不尽な痛み・悲しみを負いながら生きていることをご存じです。神は「赦しなさい」と教えておられますが、詩人のこの祈りに「そんな風に祈ってはいけないよ」とは言われません。神はわたしたちの怒り・悲しみも含めたすべてを受け止めてくださいます。わたしたちは神の前で信仰深く装うのではなく、ありのままのすべてを受け止めて頂けるのです。

 この143篇の祈り・願いの根本にあるのは、10節「あなたはわたしの神」と2, 12節の「わたしはあなたの僕」という言葉、そこで表現されている「あなた=神」と「わたし」の関係なのです。そしてその関係を表す言葉としての1, 11節の「ツェダカー」「恵みの御業=義」と8, 12節の「ヘセド」「慈しみ」です。
 わたしたちにとっても、信仰が意味ある内実のあるものであるためには、神とわたしとの関係が重要です。神とわたしの間に「ツェダカー・義」があり、「ヘセド・慈しみ」があるのかがとても大事です。実にそれを与えるため神はイエス キリストをお与えくださいました。

 自分という存在の危機に、この詩篇は祈られました。わたしたちに与えられている信仰はきれい事や建て前ではなく、命を存在を救う本物の救いを受けるための恵みなのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 詩人と共にあなたに望みを置いて祈ります。どうかあなたとの関係が確かなものとされますように。あなたの義と慈しみで満たされますように。あなたの義と慈しみを与えるために来てくださったイエス キリストで満たされますように。どうかあなたご自身がわたしたちを支えるために自らを差し出してくださり、父・子・聖霊なるあなたとの交わりの中に入れられていることを深く知ることができますように。どうかあなたの栄光が豊かに現されますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 12:11〜13

2020-10-18 17:48:43 | 聖書
2020年10月18日(日)主日礼拝  
聖 書  ローマの信徒への手紙 12:11~13(新共同訳)


 救いは、神と共に生きるところにあります。神がわたしたちに求めておられることは、神と共に歩みなさい、救いにふさわしく歩みなさい、ということです。12:1では「あなたがたのなすべき礼拝」という言い方をしていますが、その意味するところは「キリストの救いに与った者としてふさわしい仕え方をする」ということです。
 「ふさわしい」という言葉は、信仰生活を考える上で大切な言葉だと思います。救いにふさわしく歩み、恵みにふさわしく仕えるのです。

 わたしたちはキリストの救いに与ったので、キリストがなされた務めを担います。キリストの務めは大きく3つあります。神の言葉を伝える預言者の務め、神の御心に従って治める王の務め、神との関係を執り成す祭司の務めです。これをキリストの三職、3つの職務と言います。ここでは6節以下で預言、奉仕、教え、勧め、施し、指導、慈善が挙げられていました。それぞれキリストの三職に分類することのできる務めです。そしてこれらの務めを担うためには愛が必要です。
 聖書では「神は愛です」(1ヨハネ 4:16)と言われています。そしてわたしたちはその愛である神にかたどって造られました(創世記 1:27)。わたしたちは神の愛を受けていくとき、神の愛に導かれてキリストの務めを担っていくのです。わたしたち自身の内から愛を絞り出すのではありません。そうではなく、尽きることなく注がれる神の愛を受けて仕えていくのです。

 聖書には様々な規定がありますが、その中にはわたしたちが仕えることに疲れきってしまわないように、わたしたちを守り、神と共に歩ませるためのものもあります。
 安息日の規定などはまさしくそのための規定です。「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。」(出エジプト 20:10)この戒めにより、奴隷も家畜も寄留者も守られるのです。
 出産については40日間の清めの期間が定められ、「その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない。」(レビ 12:4)と定められています。誰も「神が命を与えてくださったのだから、すぐにでも神に感謝を献げに行きなさい」などと言うことはできないのです。罪人の熱心が、出産を終えた女性を苦しめることがないように神の戒めが守っているのです。

 わたしたちは仕えていくとき、神の御許で十分に休み、神の愛を受けることが必要です。その上で神から受けたものに「ふさわしく」仕えるのです。このことを忘れてしまうと、わたしたちの信仰はどんどん律法的になり、聖書の勧めは努力目標へと変わっていってしまいます。
 ですから、聖書の勧め・戒めを読むときには、気をつけなくてはなりません。真面目で熱心な人ほど、勧めや戒めを律法的な重荷にしてしまいます。

 そこできょうの箇所ですが、実はここの文章、原文では9〜13節が一つの文章になっています。これをそのまま翻訳しますと、長すぎますし、読みにくいので、短く区切って訳しています。
 その際、原文には書かれていない動詞を補っています。新共同訳聖書を見ますと、きょうの箇所には「仕えなさい」「祈りなさい」「努めなさい」と勧めが出てきますが、原文では「〜なさい」に当たる言葉はありません。
 9節で「愛には偽りがあってはなりません」を「愛は偽善ではありません」と命令の意味ではなく読んだ方がいいのではないかと申し上げましたが、ここも命令の意味ではなく、神の愛に導かれている指標として読んだ方がいいように思います。どういうことかと言いますと、自分がそうできていないときには、頑張るのではなく、自分にはもっと神の愛が必要であることを知って神の前に静まるのです。

 きょうの箇所は、9節に続いて「愛は偽善ではありません」だから「このようであるのです」という意味でつながります。
 11節「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。」ここは原文では「熱心さの点では怠惰ではなく、霊においては燃え、主に対しては僕のように仕え」と書かれています。
 「熱心さの点で怠惰ではない」というのは「嫌々・渋々やるのではない」ということです。嫌々・渋々やっているときは、恵みにふさわしく神の愛に導かれてやれていない、ということです。
 その場合、わたしたちは疲れています。休息が必要ですし、神の愛を受けて癒される必要があります。神の許に立ち帰って、静まって神の愛を受けなくてはなりません。
 もう一つわたしたちが考えなければならないことがあります。イエスがマルタに言われたように、それがただ一つの必要なことではなく、思い悩み・心を乱す多くのことである可能性です。罪人の信仰の熱心は、しばしば思い悩み・心を乱す多くのことを増やしていきます。信仰と善意で、なくても大丈夫なものを増やして、自分で重荷を重くし、疲れてしまいます。特に教会では礼拝を献げる安息日なのに、教会に来て疲れて帰るということがあります。気が乗らない、何でこんなことをしているのかと思うときには、それが本当に必要な業なのかを問うてみることは、必要なことだろうと思います。

 「霊に燃えて」とあります。霊は神とつながる働きをします。今、祈り会で読んでいる詩編には「わたしの霊はなえ果て」(詩編 143:4, 142:4)という表現が出てきます。霊がなえ果て、神とのつながりが弱まっては主に仕えることができません。わたしたちは聖霊が与えられるように祈ることが必要です(ルカ 11:13)。わたしたちの霊が燃えるためには、神がご自身の息・聖霊を注ぎ与えてくださることが必要です。祈りの勧めは次の12節に出てきます。

 12節「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」原文では「希望を喜ぶことにおいて、苦難を耐えることにおいて、祈りに熱心な」とあります。
 わたしたちが未来に向かって生きるのには、希望が必要です。希望があってこそ、苦難を耐え忍ぶことができます。そして希望は神から来るものです。神の御心、神の救いの御業が希望をもたらします。聖霊がわたしたちを救いに与らせてくださるところに希望が生まれます。
 先ほども言いましたように、聖霊を求めて祈ることが大切です。ですがこれは、祈らなければならないと言うよりも、神と共に歩むために必要な祈りを、神は恵みとして与えてくださっている、わたしたちは祈ることができる、というようにわたしは受け止めています。

 13節「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい」というのは、原文だと「聖徒の必要のために提供し、よそ者への愛を実践して」となっています。
 これは、この手紙が書かれた時代状況を考慮する必要があります。まだキリスト者は少数者で、迫害される立場でした。迫害を受けて、住んでいた土地を離れ、同じ信仰のキリスト者を頼りに逃れてきている人たちのことが言われています。今日で言うと「難民」に当たる人たちです。そのことが、この手紙が書かれた時代には、教会の大切な課題でした。そして今も数多くの難民がいます。わたしたちが覚えなければならない課題の一つです。

 聖書、特に旧約には、寄留者として生きた人たちが登場します。アブラハムも、ヤコブも、ヨセフも、モーセも、ダビデも皆寄留者でした。そしてわたしたちもまた寄留者です。聖書は「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ 3:20)と言います。旧約の戒めには「あなたがたも寄留者だったのだから〜しなさい」と命じられているものがあります。寄留者であることは、神の御心を理解し、戒めを行うために必要な経験でした。罪の世にあって生きていく場所を持てずにいる人たちのために、神があなたがたにしてくださったようにあなたがたもしていくのだ、ということが言われているのです。まさに神の務めを担う行為です。

 パウロは、教会において神の愛を分かち合っていけるように勧めをします。それが神の憐れみにふさわしい神の民のあり方、仕え方だと勧めているのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたが与えてくださった救いにふさわしく仕えさせてください。あなたが祈りを与えてくださいましたから、聖霊を求め祈りつつ歩ませてください。どうか父・子・聖霊なるあなたとの交わりに内に歩み、仕えていくことができますように。あなたの愛を分かち合い、共に与る喜びをお与えください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

詩編 143:1〜6

2020-10-15 15:52:01 | 聖書
2020年10月14日(水) 祈り会
聖書:詩編 143:1〜6(新共同訳)


 きょうは143篇です。これもまた神に助けを求める祈りです。そして七つの悔い改めの詩篇の一つに数えられています。ちなみに他の六つは 6, 32, 37, 51, 102, 130篇です。

 1節「賛歌。ダビデの詩。」
 この詩篇もダビデの名が記された詩篇です。
 「主よ、わたしの祈りをお聞きください。嘆き祈る声に耳を傾けてください。」
 詩人は祈りが神に聞かれることを切に求めます。
 「あなたのまこと、恵みの御業によって/わたしに答えてください。」
 主がわたしの祈りを聞いてくださること、答えてくださることを求めます。それは、神のまことと恵みの御業が、詩人の信仰を支えているからです。神がわたしたちの応答を求めておられるように、わたしたちも神が答えてくださることを必要としています。

 2節「あなたの僕を裁きにかけないでください。」
 詩人は神に裁かれることを恐れています。神を信じているからこそ、命の源である神に裁かれるのを恐れています。
 なぜなら「御前に正しいと認められる者は/命あるものの中にはいません」ということを詩人は知っているからです。

 時々「旧約の信仰と、新約の信仰は違う。旧約は律法を守ることによって自分で正しくあろうとする。新約とは違う」と言う人がいますが、それは誤りです。今見ましたように「御前に正しいと認められる者は/命あるものの中にはいません」とはっきり言っています。そしてこの箇所だけでなく、例えば列王記上 8:46にも「罪を犯さない者は一人もいません」と書かれていますし、詩編 130:3でも「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう」と言われています。
 そして律法を守れないからこそ、様々な贖いの規定が定められているのです。旧約も新約も、わたしたちが皆罪を抱えていること、罪は贖われなければならないこと、救いが必要であるという信仰は同じです。

 3節「敵はわたしの魂に追い迫り/わたしの命を地に踏みにじり/とこしえの死者と共に/闇に閉ざされた国に住まわせようとします。」
 ここで言われている「敵」は、具体的な誰かと言うよりも、詩人を陰府へと導こうとする罪の力ではないかと思います。人々を神に逆らわせ、神に従う者を妨げ、抑圧させようとする罪そのものではないかと思います。まさしく罪は「わたしの魂に追い迫り/わたしの命を地に踏みにじり/とこしえの死者と共に/闇に閉ざされた国に住まわせようと」するものです。神が祝福をもって与えてくださった命を奪い去ろうとするものです。

 4節「わたしの霊はなえ果て/心は胸の中で挫けます。」
 前回も申し上げましたが、霊の働きはつながることです。わたしたちは神にかたどって造られています。ですから神とつながることが、わたしたちを命で満たす大切な点です。
 それが詩人は今、自分の霊がなえ果てていると言うのです。つまり、神とのつながりが弱まっているのを自覚しています。ですから神に従って生きていこうとする詩人の心は挫けます。

 5節「わたしはいにしえの日々を思い起こし/あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し/御手の業を思いめぐらします。」
 詩人は、わたしたちと同じことをします。わたしたちが聖書から、神がなされた救いの御業を聞いて、その一つひとつから、神の御心を聞き、神の愛と恵みを受け取るように、御手の業を思いめぐらし、神が救いの神であることを確認するのです。

 6節「あなたに向かって両手を広げ/渇いた大地のようなわたしの魂を/あなたに向けます。」
 詩人は神を求めます。かつて祈りは、天を仰ぎ、手を差し伸べ、神に向かって自分を開いて祈りました。詩人は、神だけが渇いた大地のような魂を潤すことができることを知っています。
 イエスはサマリアのシカルで、名も知られぬ女性に言われます。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネ 4:14)
 実は、両手を広げ、魂を向けて待ち望んだ詩人に、神が与えてくださったのがイエス キリストでした。イエス キリストが、この詩人の祈りを満たしてくださったのです。イエス キリストは詩人の祈りに応えるため、肉体を取り、人となってきてくださいました。罪に怯え、死を恐れる詩人に命の水を与えるため、十字架を負い、命を献げてくださいました。イエス キリストだけが、死を打ち破り、復活し、永遠の命を与えてくださいます。
 詩人は、イエスを見ることはありませんでした。しかしイエスは、代々の聖徒たちの救い主・助け主として来てくださいました。神に望みを置いたすべての聖徒たちは、イエス キリストによって救われるのです。

 この祈りが聖書に収められているのは、旧約の御言葉がイエス キリストを指し示している一つの証しであると思います。イエス キリストがもたらす救い、命、そしてイエス キリストご自身によって、旧約と新約は一つに結び合わされ、世の終わりまで神を証しし続けていきます。だからわたしたちは旧約の御言葉からも新約の御言葉からも聞いていくのです。

 自分の罪、裁きを恐れる人は、是非この143篇を繰り返し読み、祈って欲しいと思います。きっと神がわたしたちの救いの道を備えてくださっていることに気づかせて頂けると思います。


ハレルヤ


父なる神さま
 詩人と共にあなたに望みを置いて祈ります。あなたが救いのために与えてくださったイエス キリストで、わたしたちを満たしてください。わたしたちが罪の世にあって感じる渇きを癒してください。あなたへの信仰が弱まり薄れるとき、わたしたちは虚無に飲み込まれてしまいます。御言葉によりあなたと出会い、あなたの救いで満たしていってください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン