2020年10月28日(水) 祈り会
聖書:詩編 144:1〜2(新共同訳)
この144篇は「王の詩篇」と呼ばれる詩編の一つです。王の詩編と呼ばれるものは全部で10篇あって、他には 2, 18, 20, 21, 45, 72, 101, 110, 132篇が王の詩編と呼ばれるものです。
1節「【ダビデの詩。】主をたたえよ、わたしの岩を/わたしの手に闘うすべを/指に戦するすべを教えてくださる方を」
これも表題に「ダビデの詩」とあります。表題にダビデと出てくると、ダビデ自身の祈りだと言う注解者でも、この詩篇についてはそうは言わないようです。それはこの詩篇が他の詩篇の引用が多いからです。8, 18そして104篇からの引用があるようです。中でも18篇とよく似ています。18篇を元に他の引用を入れて、神を讃美するために新たに編纂されたと理解されているようです。
「主をたたえよ」詩人は人々を讃美へと導きます。
「わたしの岩を/わたしの手に闘うすべを/指に戦するすべを教えてくださる方を」2節「わたしの支え、わたしの砦、砦の塔/わたしの逃れ場、わたしの盾、避けどころ/諸国の民をわたしに服従させてくださる方を。」様々な喩え、言葉を用いて、神がどのようなお方であるかを表現し、神を讃えます。言葉を重ねることで、神の豊かさを表そうとしています。このような表現は、ウェストミンスター信仰告白や大教理問答の神についての表現(神と三位一体の項目)にも反映されています。
2節の最初に出てくる「支え」は、前回も出てきた「ヘセド」という言葉です。他の訳では「慈しみ」「恵み」などと訳されています。ヘセドは、契約関係の中で助けるまた愛することを表します。神の民を愛し助けてくださる神を表す言葉として使われています。
2節最後の行の「諸国の民」は、写本が分かれているようです。最近の日本語訳はどれも「私の民」となっています。王が治め導く対象が誰なのかが、翻訳者の理解で変わってきます。新共同訳の理解だと、神の国を完成させるメシア的な王が、諸国の民を治め導くという理解になるでしょう。
守ってくださる方としての表現は「岩」「砦」「逃れ場」などと言われます。
一方、神の民を導く方としての表現は「わたしの手に闘うすべを/指に戦するすべを教えてくださる方」「諸国の民をわたしに服従させてくださる方」と言われます。
「闘うすべ/戦するすべ」と言われます。旧約には異邦人と戦う場面がいくつもあります。現代では、この闘いを霊的な闘いとして解釈されることが多いと思います。けれど先程名前を出しましたウェストミンスター信仰告白の第23章「国家的為政者について」の項目では、一般に「正義の戦争」と言われる事柄が述べられています。
23章2項にはこうあります。「キリスト者が、為政者の職務に召されるとき、それを受け入れ果たすことは、合法的であり、その職務を遂行するにあたって、各国の健全な法律に従って、彼らは特に敬けんと正義と平和を維持すべきであるので、この目的のために、新約のもとにある今でも、正しい、またやむをえない場合には、合法的に戦争を行なうこともありうる。」
日本キリスト教会では、わたしが神学校に入学して(1986年)以降、この問題について論じられたことはありません。日本キリスト教会憲法 第2条(信仰の規範)の3項で、日本キリスト教会信仰の告白は、ウェストミンスター信仰告白で言い表されている信仰も継承している、と言われていますが、現在ウェストミンスター信仰告白の内容について論じられることはありません。
わたしが神学校で授業を受けたある先生は「正義の戦争なんか受け入れられるの?」と言われたことがありました。おそらく受け入れられないだろうと思います。多分多くの牧師・長老たちは、日本国憲法 第9条「戦争の放棄」の立場だろうと思います。
そしてプロテスタントの教派の中には、戦争・暴力を完全に否定するメノナイト、ブレザレン、クェーカーといった歴史的平和教会と呼ばれる教派もあります。
それにも拘わらず、わたしは正義の戦争はあり得ると考えています。
一つは、現実に戦争があるからです。わたしが最初に行った福島伝道所の松谷好明牧師が、ウェストミンスター信仰告白の学びをしてくださった際に、正義の戦争の項目があるために、いつもそれは正義の戦争なのかという問いかけがなされ、国家権力が暴走しないように議論がなされると話されたことが記憶に残っています。
もう一つは、現実にヒトラーが登場し、多くのユダヤ人が強制収容所で殺されたという事実です。ユダヤ人は、ヒトラーが失脚するか寿命が尽きるまで殺され続けなければならないということなのかという疑問です。あの現実の中で、ナチスドイツと戦ったことを否定するのだろうか、強制収容所に連れて行かれてしまう人たちを前にして一切の戦争を否定する絶対平和主義を唱えるのかという疑問です。
先ほども言いましたように、わたしの考えは今の日本キリスト教会においては少数です。もしかしたらわたし一人かもしれません。けれど、今回引き合いに出しましたウェストミンスター信仰告白は、世界の長老制の教会で最も多く採用されている信仰告白です。平和主義のキリスト者は多いと思いますが、戦争を完全に否定する絶対平和主義の立場に立つ人が多数ではないだろうと思います。
旧約の時代、戦争は神の民と異邦人との間で起こりました。しかし今は違います。ヨーロッパで紛争が起きれば、キリスト者同士で戦うことになります。第一次世界大戦も第二次世界大戦でもそうでした。ユーゴスラビア紛争もそうです。ヨーロッパ内部だけでなくとも、今やキリスト者は世界中にいます。
詩篇の時代、自動車も飛行機も、インターネットもありませんでした。文明は進み、社会は変化しました。しかし詩篇の時代から二千数百年が過ぎても、戦争はなくなりません。戦争に関わる国では、自国の勝利を願う祈りが献げられていることでしょう。戦場には、従軍牧師が連れて行かれ、戦闘の勝利を祈り、兵士の安全を祈っていることでしょう。
イエスは言われました。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ 5:44)きょうのような箇所を「旧約の限界」と言って過ぎ去る人もいますが、そんなことを言っても戦争はなくなりませんし、勝利を願う祈りがなくなることもありません。
戦争の問題は、今もまだ神学的、教義学的な課題だろうと思います。
神は聖書を救いの歴史として書かれました。聖書において、歴史を理解するということは歴史を神の側から理解することです(A.ヴァイザー)。そして神は、この祈りを神の言葉とされました。わたしたちはこの祈り、この聖句からどのような神の御心を聴くのでしょうか。
牧師や神学者が考えて、正解を出してくれるのではありません。神は、神の民一人ひとりが神の声を聞いて従うようにと、聖書を通して語りかけておられます。
世界の様々なニュースを知ることのできる時代になりました。気持が重くなり憂鬱になるニュースが多く、ニュース自体聞くことが嫌になります。それでも耳に入ってくる目に留まるニュースがあったときには祈って頂きたいと思います。
わたし自身は、きょうのような祈り・神への期待は、最終的には神の救いの御業の前進ための祈りへとつながっていくのだろうと思います。救いの御業の前進、神の国の完成を求めることへとつながっていくと思うのです。わたしたちは、それぞれが置かれた場所、直面している問題を祈ることを通して、救いの御業の前進、神の国の到来を求めていくのだと思います。そして神の国が到来するとき、わたしたちに与えられた約束、神が涙をことごとくぬぐい取ってくださり、悲しみも嘆きも労苦もない未来が成就するのです(黙示録 21:4)。そのために祈る務めが、神の民には与えられているのだと思います。
ハレルヤ
父なる神さま
この罪の世にあって、わたしたちはあなたに願うこと、聞いて頂きたいことが数え切れないほどございます。そしてあなたは、教会・あなたの民を御心をなすためにお用いになります。どうかわたしたちにあなたの御心を明らかにお示しください。喜びをもってあなたに従い、仕えることができるようわたしたちの信仰をお導きください。どうか救いの完成へ向けて、御業を推し進め、御国を来たらせてくださいますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:詩編 144:1〜2(新共同訳)
この144篇は「王の詩篇」と呼ばれる詩編の一つです。王の詩編と呼ばれるものは全部で10篇あって、他には 2, 18, 20, 21, 45, 72, 101, 110, 132篇が王の詩編と呼ばれるものです。
1節「【ダビデの詩。】主をたたえよ、わたしの岩を/わたしの手に闘うすべを/指に戦するすべを教えてくださる方を」
これも表題に「ダビデの詩」とあります。表題にダビデと出てくると、ダビデ自身の祈りだと言う注解者でも、この詩篇についてはそうは言わないようです。それはこの詩篇が他の詩篇の引用が多いからです。8, 18そして104篇からの引用があるようです。中でも18篇とよく似ています。18篇を元に他の引用を入れて、神を讃美するために新たに編纂されたと理解されているようです。
「主をたたえよ」詩人は人々を讃美へと導きます。
「わたしの岩を/わたしの手に闘うすべを/指に戦するすべを教えてくださる方を」2節「わたしの支え、わたしの砦、砦の塔/わたしの逃れ場、わたしの盾、避けどころ/諸国の民をわたしに服従させてくださる方を。」様々な喩え、言葉を用いて、神がどのようなお方であるかを表現し、神を讃えます。言葉を重ねることで、神の豊かさを表そうとしています。このような表現は、ウェストミンスター信仰告白や大教理問答の神についての表現(神と三位一体の項目)にも反映されています。
2節の最初に出てくる「支え」は、前回も出てきた「ヘセド」という言葉です。他の訳では「慈しみ」「恵み」などと訳されています。ヘセドは、契約関係の中で助けるまた愛することを表します。神の民を愛し助けてくださる神を表す言葉として使われています。
2節最後の行の「諸国の民」は、写本が分かれているようです。最近の日本語訳はどれも「私の民」となっています。王が治め導く対象が誰なのかが、翻訳者の理解で変わってきます。新共同訳の理解だと、神の国を完成させるメシア的な王が、諸国の民を治め導くという理解になるでしょう。
守ってくださる方としての表現は「岩」「砦」「逃れ場」などと言われます。
一方、神の民を導く方としての表現は「わたしの手に闘うすべを/指に戦するすべを教えてくださる方」「諸国の民をわたしに服従させてくださる方」と言われます。
「闘うすべ/戦するすべ」と言われます。旧約には異邦人と戦う場面がいくつもあります。現代では、この闘いを霊的な闘いとして解釈されることが多いと思います。けれど先程名前を出しましたウェストミンスター信仰告白の第23章「国家的為政者について」の項目では、一般に「正義の戦争」と言われる事柄が述べられています。
23章2項にはこうあります。「キリスト者が、為政者の職務に召されるとき、それを受け入れ果たすことは、合法的であり、その職務を遂行するにあたって、各国の健全な法律に従って、彼らは特に敬けんと正義と平和を維持すべきであるので、この目的のために、新約のもとにある今でも、正しい、またやむをえない場合には、合法的に戦争を行なうこともありうる。」
日本キリスト教会では、わたしが神学校に入学して(1986年)以降、この問題について論じられたことはありません。日本キリスト教会憲法 第2条(信仰の規範)の3項で、日本キリスト教会信仰の告白は、ウェストミンスター信仰告白で言い表されている信仰も継承している、と言われていますが、現在ウェストミンスター信仰告白の内容について論じられることはありません。
わたしが神学校で授業を受けたある先生は「正義の戦争なんか受け入れられるの?」と言われたことがありました。おそらく受け入れられないだろうと思います。多分多くの牧師・長老たちは、日本国憲法 第9条「戦争の放棄」の立場だろうと思います。
そしてプロテスタントの教派の中には、戦争・暴力を完全に否定するメノナイト、ブレザレン、クェーカーといった歴史的平和教会と呼ばれる教派もあります。
それにも拘わらず、わたしは正義の戦争はあり得ると考えています。
一つは、現実に戦争があるからです。わたしが最初に行った福島伝道所の松谷好明牧師が、ウェストミンスター信仰告白の学びをしてくださった際に、正義の戦争の項目があるために、いつもそれは正義の戦争なのかという問いかけがなされ、国家権力が暴走しないように議論がなされると話されたことが記憶に残っています。
もう一つは、現実にヒトラーが登場し、多くのユダヤ人が強制収容所で殺されたという事実です。ユダヤ人は、ヒトラーが失脚するか寿命が尽きるまで殺され続けなければならないということなのかという疑問です。あの現実の中で、ナチスドイツと戦ったことを否定するのだろうか、強制収容所に連れて行かれてしまう人たちを前にして一切の戦争を否定する絶対平和主義を唱えるのかという疑問です。
先ほども言いましたように、わたしの考えは今の日本キリスト教会においては少数です。もしかしたらわたし一人かもしれません。けれど、今回引き合いに出しましたウェストミンスター信仰告白は、世界の長老制の教会で最も多く採用されている信仰告白です。平和主義のキリスト者は多いと思いますが、戦争を完全に否定する絶対平和主義の立場に立つ人が多数ではないだろうと思います。
旧約の時代、戦争は神の民と異邦人との間で起こりました。しかし今は違います。ヨーロッパで紛争が起きれば、キリスト者同士で戦うことになります。第一次世界大戦も第二次世界大戦でもそうでした。ユーゴスラビア紛争もそうです。ヨーロッパ内部だけでなくとも、今やキリスト者は世界中にいます。
詩篇の時代、自動車も飛行機も、インターネットもありませんでした。文明は進み、社会は変化しました。しかし詩篇の時代から二千数百年が過ぎても、戦争はなくなりません。戦争に関わる国では、自国の勝利を願う祈りが献げられていることでしょう。戦場には、従軍牧師が連れて行かれ、戦闘の勝利を祈り、兵士の安全を祈っていることでしょう。
イエスは言われました。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ 5:44)きょうのような箇所を「旧約の限界」と言って過ぎ去る人もいますが、そんなことを言っても戦争はなくなりませんし、勝利を願う祈りがなくなることもありません。
戦争の問題は、今もまだ神学的、教義学的な課題だろうと思います。
神は聖書を救いの歴史として書かれました。聖書において、歴史を理解するということは歴史を神の側から理解することです(A.ヴァイザー)。そして神は、この祈りを神の言葉とされました。わたしたちはこの祈り、この聖句からどのような神の御心を聴くのでしょうか。
牧師や神学者が考えて、正解を出してくれるのではありません。神は、神の民一人ひとりが神の声を聞いて従うようにと、聖書を通して語りかけておられます。
世界の様々なニュースを知ることのできる時代になりました。気持が重くなり憂鬱になるニュースが多く、ニュース自体聞くことが嫌になります。それでも耳に入ってくる目に留まるニュースがあったときには祈って頂きたいと思います。
わたし自身は、きょうのような祈り・神への期待は、最終的には神の救いの御業の前進ための祈りへとつながっていくのだろうと思います。救いの御業の前進、神の国の完成を求めることへとつながっていくと思うのです。わたしたちは、それぞれが置かれた場所、直面している問題を祈ることを通して、救いの御業の前進、神の国の到来を求めていくのだと思います。そして神の国が到来するとき、わたしたちに与えられた約束、神が涙をことごとくぬぐい取ってくださり、悲しみも嘆きも労苦もない未来が成就するのです(黙示録 21:4)。そのために祈る務めが、神の民には与えられているのだと思います。
ハレルヤ
父なる神さま
この罪の世にあって、わたしたちはあなたに願うこと、聞いて頂きたいことが数え切れないほどございます。そしてあなたは、教会・あなたの民を御心をなすためにお用いになります。どうかわたしたちにあなたの御心を明らかにお示しください。喜びをもってあなたに従い、仕えることができるようわたしたちの信仰をお導きください。どうか救いの完成へ向けて、御業を推し進め、御国を来たらせてくださいますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン