聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 8:28〜30

2019-07-29 21:27:18 | 聖書
2019年7月28日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマの信徒への手紙 8:28〜30(新共同訳)


 「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
 「万事が益となる?」「はたしてそうだろうか?」ここはなかなか納得できない箇所の一つだろうと思います。信じられない箇所であれば、奇跡や癒やしなどたくさんあるかもしれません。しかし奇跡や癒やしは、イエスが生きておられた昔の話で確かめることはできません。けれどきょうの箇所は、わたしたちの人生において起こっている出来事が本当に益となっているのか、という疑問を引き起こします。

 きょうの箇所、肝心な「益」という言葉ですが、ギリシャ語で「アガソス」という単語が使われています。この「アガソス」は一般に「良い」と訳されます。わたしの持っている日本語訳聖書の中では、岩波版が「すべてのことが共に働いて善へと至る」としています。また田川健三版では「一切が良い方向へと働く」となっています。
 この「善」または「良い」というのが意味しているのは、神が良しとされるところという意味です。ですから「益となる」というのを、わたしにとって都合良くなると理解したのでは、聖書が言っていることと全く違うことを想像することになってしまいます。
 神が良しとされる「善」あるいは「良い方向」というのは、きょうの箇所で言うならわたしたちが「御子の姿に似たもの」になること、つまりイエス キリストの救いに与るということです。ですから「万事が益となるように共に働く」というのは、「すべてのことがわたしたちの救いとなるように働く」という意味です。

 ここまでの流れは、18節から「現在の苦しみ」について語り、26節「霊も弱いわたしたちを助けて」くださることを示し、すべてのことがわたしたちの救いとなるように働く、つまり神はわたしたちが御子イエス キリストと同じ姿に似たものとなるまですべてを導かれるということを語っています。

 パウロはローマの教会の人たちを「神を愛する者たち」と言い「御計画に従って召された者たち」と言い換えます。さらに29節で「神は前もって知っておられた者たち」と言い、30節で「神はあらかじめ定められた者たち」と言っています。
 神には救いの計画があり、わたしたちがイエスを信じる前から知っておられ、神がわたしたちを救いに定め、召されたというのです。

 旧約の時代から「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」(箴言 19:21)と教えられてきました。そしてイエス キリストが来られるに至って、主の御旨が「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ 3:16)ことが示されました。

 神は御子イエス キリストを救い主として遣わされたことにより、わたしたちをイエス キリストと結び合わせ「御子の姿に似たもの」へと導いてくださいます。別の箇所では「鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて」(2コリント 3:18)いくと言われています。
 神がこのような御業をなしてくださるのは、罪によって破壊されてしまった関係を、イエス キリストを長子とする神の家族という新しい関係の中に招き入れるためです。
 この主にある兄弟姉妹という関係の中で、共に救いに与り、恵みを分かち合い、神と共に歩む場所として教会が建てられています。イエス キリストが仲保者、間を取り持つ者となって神とわたしたちの間を執り成してくださり、わたしたちお互いの間もイエス キリストが仲保者としてつないでいてくださるのです。イエス キリストがわたしたちを神の子としてくださり、わたしたちは共に天にいます神を「父」と呼ぶことのできる神の家族とされているのです。

 どうやってキリストに結ばれ、救いの中に入れられたのか。それは、神があらかじめ定め、召してくださったからです。これらは「召命」「予定」「摂理」「聖定」などいろいろな言葉がありますが、それらの核心は「選び」という言葉で語られます。
 「選び」ということで聖書が言うことは「神が救ってくださる」ということです。

 この手紙を書いたパウロは、ガラテヤ 1:15, 16でこう書いています。「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」。パウロはキリスト教の迫害者でした。復活のキリストに捉えられるまで熱心な迫害者でした。それなのにパウロは「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神」と言うのです。悔い改めて回心したから用いられたのではなく、母の胎にあったときから選び、召し出してくださったと言うのです。信仰が成長したからとか、よく学んで信仰を正しく理解したから選ばれたのではないのです。

 旧約にはこう記されています。「あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主が・・あなたたちを選ばれたのは・・ただ、あなたに対する主の愛のゆえに・・主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し・・救い出されたのである。」(申命記 7:6~8)
 そして新約ではこう言われています。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。」(2 テモテ 1:9,10)

 この世にあっては、試験を受け、合格して、進学や就職をしたり、資格を取得したりします。ですから、どうしても自分の努力とか、自分が到達したところが気になります。救いに関しては、自分の信仰が気になります。「教会生活は長いのですが、信仰はまだまだです」といった言葉を聞くことがあります。しかし、聖書が救いについて語ることは違うのです。わたしたちの信仰が救いのレベルに到達したから救われたのではありません。救いは、神の愛と恵みによる選びによってなされたのです。

 選びは、神の救いの御業です。わたしたち一人ひとりの救いの根拠が、神ご自身にあることを明示するものです。そして、救いの根拠が神ご自身にあるからこそ、わたしたちの救いが揺るぎないものであることを信じることができるのです。

 そしてわたしたちを選び、救いへと召し出してくださった神は、召し出した後も放り出すのではなく、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光を与えるまで導いてくださいます。
 義というのは、正しい関係を表します。神はわたしたちを神との正しい関係の中に入れてくださいます。そして栄光は、神が救いの神であることが明らかになる、現れることです。神の救いの光に包まれて生きる、神と共にあることを証しする者にまで導いてくださるのです。わたしたちを選び、召し出し、救いへと導き入れてくださる神は、最後の最後まで導いてくださるのです。

 だから「すべてのことがわたしたちの救いとなるように」なされていくのです。
 この「万事が益となるように共に働く」すなわち「すべてのことがわたしたちの救いとなるように用いられる」というのは、パウロの信仰の歩みから来る信仰告白なのです。強烈な迫害者だった、だから回心してもなかなか受け入れてもらえなかった、生前のイエスの弟子ではないと軽んじられた、福音宣教の中で数え切れないほどの困難に出会った、何度も祈ったけれども癒やされなかった、そのすべてを振り返ってみて、パウロは「すべてのことがわたしの救いとなるように用いられた」と告白し証ししているのです。

 神は、そのパウロの告白、証しを通して語られます。「あなたの経験するすべてをわたしはあなたの救いのために用いる」と神は言っておられるのです。だから、わたしたちの救いは揺るがないのです。神はわたしたちの人生のすべてに関わり、救いへと導いてくださいます。だから困難も何もかも神に委ねて歩んでいくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 聖霊を注ぎ、あなたをさやかに仰がせてください。あなたの御心、あなたの御業をはっきりと知ることができますように。わたしを手放すことなく、救いへと導いてくださることを確かに知ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ヨハネによる福音書 3:16〜17

2019-07-21 19:51:58 | 聖書
2019年7月21日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 3:16〜17(新共同訳)


 イエスは、自分を訪ねてきたニコデモに語ります。イエスは、最も大切な神の御心を示されます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
 聖書の中で最も有名な聖句と言っても間違いではないくらいわたしたちは何度も聞いてきた御言葉です。しかし、ニコデモにはほとんど理解できなかっただろうと思います。「神は、その独り子? 神は唯一ではないか。聖書には「我らの神、主は唯一の主である」(申命記 6:4)とあるではないか。信じる者が一人も滅びないで? 主の日が来て裁きが行われるではないか? この人は何を言っているんだ。」
 しかし理解できないからこそ、ニコデモは何度も何度も繰り返し考えただろうと思います。だからこそこの言葉は忘れられず、イエスが復活した後でニコデモはイエスのこの言葉を伝え、今わたしたちも聞いているのです。

 イエスは聞いた者がそのとき理解できないのに、語られることがあります。イエスは弟子たちにご自分の死と復活の予告を何度もされました。(マタイ 16:21、17:22~23、20:18~19、マルコ 8:31、9:31、10:33~34、ルカ 9:22、9:44、18:32~33)弟子たちはイエスが何を言っておられるのか理解できませんでした。弟子たちが理解したのは、復活の後ですが、出来事の前から聞いていたので、イエスの十字架と復活はたまたまそうなったのではなく、まさにそのため、罪人の救いのためにイエスは世に来られたのだということに気づかされました。

 さて、人は神との約束を破って、罪を犯しました。罪は人間の責任です。
 中には、人に罪を犯すことのできる自由を与えた神の責任だと言う人もいます。では、人は神の言うことに従うロボットであればよかったのでしょうか。選択をする自由は、人間の尊厳に関わることです。どこで生きていくのか、誰と共に生きるのか、どんな仕事をしてどのように生きるのか、何を信じるのか、それは一人ひとりの人生を形作る大切な問題です。大切な問題だからこそ、人は歴史の中でこれらを基本的人権として認識するようになりました。神はわたしたちをロボットとしてではなく、選択の自由を持つ人として造られました。そして、人が自ら選んで罪を犯しました。しかし神は、独り子を遣わして自ら痛みを負われました。

 創世記 22章に「主の山に備えあり」という言葉で知られる出来事が記されています。神はアブラハムに独り子イサクを焼き尽くす献げ物として献げるように命じられます。なぜアブラハムがこのような命令に従おうとしたかは未だに分かりませんが、アブラハムがイサクを屠ろうとしたとき、神はそれを止めてイサクの代わりとなる一匹の雄羊を用意されました。この身代わりの雄羊こそイエス キリストを指し示すものでした。
 神は、罪を抱え裁かれるわたしたちに代わって、イエス キリストを救い主として遣わし、キリストが十字架で裁きを受けてくださいました。神はイエス キリストを通して救いを与えられました。救いは、罪によって失われた神との絆を回復することです。神は、わたしたちに代わって裁きを受けたキリストを信じるという仕方で神の恵みを受け取り、神との絆を回復するようにされたのです。

 信じるということは絆そのものです。そして信じることは、生きるのに不可欠なものです。社会が信じられない、友だちが信じられない、家族が信じられない、自分も信じられない、未来も信じられないとなったら、生きていくことができません。神は生きるのに不可欠な信じるという関係をイエス キリストによって築き、与えていてくださるのです。神ご自身が、信じられる存在となってくださったのです。

 ですから「神さまは世を愛していてくださるのだから、信じなくたって救ってくださるでしょう」ではないのです。信じることのできる関係、共に生きる関係が大事なのです。信じるなどという言葉も考えもまだ分からない生まれたばかりの子どもも親に守られ育まれることを通して、信じることを感じ取っていきます。信じることは、生まれた直後から、否母の胎にあるときから、与えられている命と共にある事柄です。

 そしてイエス キリストは、救い主としてマリアの胎に宿られ、母の胎にも救いをもたらしてくださいました。イエス キリストがマリアの胎に宿られたのは、生まれることができなかったすべての命にも救いをもたらすためです。
 そして十字架の後には、陰府に降り福音を告げ知らせられました。聖書は告げます。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」(1ペトロ 3:18~19)生まれる前から死の後に至るまで、イエス キリストはわたしたちのいるすべてのところに来てくださり、救いをもたらしてくださいました。
 この世で信じられなかったからもう救われないのではありません。「神は,すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」(1テモテ 2:4)その神の御心をなすために、イエス キリストは人となって世に来られ、母の胎に宿り、「すべての人の贖いとして御自身を献げ」(1テモテ 2:6)、陰府にまで降られました。人のいるすべてのところにイエス キリストは来てくださいました。イエス キリストの恵みが及ばないところはありません。イエス キリストが来てくださったのは、わたしたちが救われ、永遠の命を得て、神と共に生きるためです。

 永遠の命とは、単に死なない命ではありません。この世のものは人も物も過ぎ去ります。永遠とは、神の許にある言葉です。永遠の命は、神への信頼・信仰で結ばれた神と共に生きる命です。罪から解放され、安心して神と共に生きる命です。神に命を造られたこと、主にある兄弟姉妹たちと共に神と歩んでいることを喜ぶことのできる命です。

 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためです。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためです。それほどに、神はお造りになった世界、そしてわたしたちを愛しておられます。共にありたいと願っておられます。
 イエス キリストは、その神の御心の証しです。だからイエス キリストは、わたしたちのつたない信仰に対してさえ「あなたの信仰があなたを救った」(マルコ 5:34, 10:52他)と言ってくださるのです。わたしたちの信仰は自分を救うだけの価値がある立派なものなのではありません。信じる者が一人も滅びないでという神の御心が、神が遣わされたイエス キリストを信じる信仰を、それがどれほどつたないものであっても、よしとしてくださるのです。

 わたしたちはイエス キリストによって救われています。神はイエス キリストによって愛を注いでくださいました。愛を示してくださいました。だから教会はイエス キリストを伝えます。神の言葉を通してイエス キリストを知ってほしい、イエス キリストと出会ってほしい、キリストの救いに与ってほしい、そして神を喜んでほしいのです。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちのためにイエス キリストを遣わしてくださったことを感謝します。聖霊をお注ぎくださり、いよいよキリストを知り、キリストの救いに与り、あなたの子として讃美しつつ歩ませてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 8:26〜27

2019-07-14 19:14:52 | 聖書
2019年7月14日(日)主日礼拝  
聖書箇所:ローマの信徒への手紙 8:26〜27(新共同訳)


 ここでは、霊と祈りについて語られます。ここで言われる「霊」は、神の霊、聖霊のことです。この箇所でも語られているように、聖霊の働きと祈りには深いつながりがあります。

 聖書が告げる救いは、罪からの救いです。それは、父・子・聖霊なる神との交わりに入れられることによって与えられます。救いとは、神と共に生きることです。
 神は、罪の世にあってわたしたちが神と共に生きられるように手立てを講じてくださいました。神は、ご自身の民を召し出し、礼拝する群れを造り出されました。
 「礼拝」という言葉は、創世記 22章に初めて出てきます。けれど、礼拝という言葉になる前に、礼拝を表す言葉が出てきます。創世記 4:26には「主の御名を呼び始めた」とあります。この主の名を呼ぶというのが、礼拝のことだと言われます。つまり、礼拝の本質には主の名を呼ぶということがあるのです。ですから、主の名を呼ぶこと、祈ることが、わたしたちの信仰生活の基本に存在しています。

 一人ひとりが聖書を持てるようになったのは、活版印刷がなされるようになったここ500年ぐらいの話です。礼拝から礼拝に至る神の民の日常生活を支えてきたのは、祈りです。アブラハムは聖書を持っていませんでした。十戒も知りません。彼の信仰生活を支えたのは、神を礼拝し、主の名を呼ぶことでした。

 神が語りかけてくださり、わたしたちが応答する。ここに神との交わりが生じます。
 神はわたしたちを呼ばれます。神は、アダムとエバが罪を犯し、神から隠れようとしたとき、アダムを呼ばれました。「どこにいるのか。」(創世記 3:9)神が呼びかけてくださるので、罪人は神へと立ち帰り、御前に進み出ることができるのです。だからわたしたちの礼拝は、神の招きの言葉で始まります。そして、神に呼ばれ、招かれたわたしたちは、主に呼ばれたサムエルと同じように「主よ、お話しください。僕は聞いております」(サムエル上 3:9)と御前に進み出るのです。神が語りかけてくださり、人が神に応答する。ここから神と共に生きることが始まります。

 神は共に生きることを願って、ご自身にかたどってわたしたちを造り、神の務めを担うようにされました。神と共に生きるということは、神との交わりに生きるということです。名前を呼んでも返事がない。話しかけても聞いていない。これでは共に生きることが形作られていきません。神は今、御言葉を通して語りかけておられます。御言葉を通して神の導きに気づかされます。そしてわたしたちは、神に祈りをもって応え、讃美によって応え、主の御業に仕えることによって応えていきます。こうして、神と共に生きる生活が形作られていきます。わたしたちの信仰生活は主に応えること、祈りから内実が満たされていきます。
 聖書には民の祈りである詩編が収められています。人の祈りの言葉を、神はご自身の言葉として聖書に収め、詩編から祈りを学べるようにしてくださいました。神はわたしたちの祈りを求めておられます。だからイエスは神の民、教会についてこう言われます。「私の家は、祈りの家と呼ばれる。」(マタイ 21:13 聖書協会共同訳、イザヤ 56:7)

 人は神に造られたので、信仰のあるなしに関わらず、祈りは人にとって本質的なものです。例えば、大切な人が事故や病気で命が危ぶまれるとき、「助かりますように」と祈らない人がいるでしょうか。大切な人のためにその無事を、その幸せを願う。その願いが祈りとなっていきます。自分は何もすることができない。それでもその人の幸いを願う。人が生きていくためには、神の助けと導きが必要なことを人は本質的に知っているのです。

 しかしそれでも人は罪を抱えているので、祈れなくなります。
 一つには、受けとめきれない悲しい出来事、困難に出会ったときです。とても神に感謝なんてできない。神を喜ぶことなんてできない。「神さま、どうしてですか」と言って絶句してしまう。そういうことが人生では起こってきます。
 そんなとき、信仰の友が祈れない自分のために祈ってくれることもあるでしょう。たとえそういう人がいないときであっても、聖霊なる神がわたしたちと共にいてくださり「弱いわたしたちを助けてくださいます。」
 わたしたちが涙を流し慟哭するとき、歯ぎしりし「どうしてなんだ」と叫び続けるとき、希望を失い何も考えられないとき、聖霊なる神自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるのです。イエス キリストがわたしたちの罪を負って苦しんでくださったように、聖霊も祈れないわたしたちの苦しみを担ってうめかれるのです。

 神はわたしたちを知っていてくださいます。人の心を見抜くお方です。そして、聖霊なる神の思いも知っておられます。聖霊なる神は、ひとり子を遣わしてでもわたしたちを救うという神の御心に従って、わたしたちをキリストに結び合わせ、聖なる者、聖徒としてくださいました。そして、わたしたちの救いのために執り成し続けていてくださいます。
 ですから、祈れないとき「神さま」と言って、言葉が見つからない、出てこないときには、そのまま「キリストの御名によって祈ります アーメン」でよいのです。祈るべき言葉が出てこない、見つからないときには、聖霊自らが言葉に表せないうめきをもって執り成していてくださいます。祈れないときでさえ、聖霊が執り成し祈っていてくださるのです。

 わたしたちは自分の力で祈るのではないのです。信仰生活の基本にある祈りだからこそ、神の助けと導きが必要なのです。
 さらに、信仰の先輩と一緒に祈る中で、何についてどう祈るのか、どんな言葉を使うのかをまねをしながら祈ることを身に着けていきます。わたしは共に祈ることが信仰の継承には欠かせないと考えます。

 また、祈りは神と向かい合うことですから、神以外のものに思いが行ってしまい神と向かい合うことができなくなると祈れなくなります。ですから、祈りで最も大切なのは、言葉を整えることではなく、神へと思いを向けることです。

 わたしの大学時代の友人は「自分は神さまの御心にかなう祈りが分からないから、主の祈りしか祈らない」と言っていました。わたしたちの祈りには神の御心にそぐわないことがあることはよく分かっています。だからこそ「キリストの御名によって祈る」のです。わたしたちの救いの御業を成し遂げ、今も神の右にあって執り成していてくださるキリストに自分の願いを委ねて祈るのです。わたしたちの祈りは、聖霊にもキリストにも執り成されて祈れるのです。

 そして祈らないでいると、祈れなくなります。ケガなどをして何ヶ月も動かさないでいると、動かせなくなります。同様に、祈らないと祈れなくなります。牧師でも祈れなくなります。中会や大会の委員会の書記をして、記録をまとめたり委員会の準備をする連絡するなど事務に追われ、落ち着いて祈れないことが続くと「自分は何を祈っていたんだろう」と祈っていたことを忘れてしまい、祈りが出てこないことがあります。
 神と向かい合うことも、祈りの時間を保つことも、聖霊の助けが必要です。「慌ただしくて祈れません。心落ち着かなくて祈れません。祈る気になれません」わたしはそんな祈り、つぶやきをしょっちゅうしています。

 わたしたちの日本キリスト教会は、学びを大切にする教会です。学びが好きと言ってもいいかもしれません。ですが少々学びに偏りすぎているように思います。神の御心を学ぶ・聞くだけでなく、祈り・讃美という神への応答・神への語りかけを信仰生活の中に取り入れていく必要があるように思います。

 聖霊が弱いわたしたちを助けてくださいます。どう祈るべきかを知らないわたしたちのために、聖霊自ら執り成してくださいます。わたしたちの祈りも神の恵みの中に入れられています。わたしたちは信仰が立派に成長し、素晴らしい祈りができるようになってから祈るのではありません。神はわたしたちを知っておられます。人の心を見抜くお方です。その神が今、わたしたちを求め、わたしたちの祈りを求めておられます。わたしたちの罪も、欠けも弱さもすべて知っておられる方が、今わたしたちを求めておられます。共に生きることを求めておられます。だからわたしたちはこの神に向かって「神さま」と祈っていくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 どうか聖霊をお注ぎください。あなたがわたしたちを求めておられることを知ることができますように。あなたの救いの恵みの中で「アッバ 父よ」と祈っていくことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ヨハネによる福音書 3:12〜15

2019-07-09 18:06:04 | 聖書
2019年7月7日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネ 3:12〜15(新共同訳)


 イエスは、訪ねてきたニコデモに対して語り続けます。
 「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。」
 地上のことというのは、ニコデモに話した聖霊の働きにより洗礼を通して新しく生まれることです。
 天上のことというのは、地上の生涯が終わった先に用意されている事柄のことです。例えば、ヨハネ 14章でこう言われました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」(ヨハネ 14:2, 3)これは地上の生涯が終わって神の国に入れられてからでないと確かめようのないことです。

 イエスは、ニコデモに最も必要な救いについて語られます。読んで頂くと分かりますが、イエスはニコデモに尋ねられたから語っているのではありません。イエスはニコデモが語らずともニコデモを知っておられるので、ニコデモに必要なことを語ってくださるのです。
 ニコデモは、律法をきちんと守って神に喜ばれ、祝福されようとするファリサイ派の一員でした。彼は律法を守ることが救いの要件だと思っていました。ところがイエスは「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」と言われます。

 救いは神の御手の内にある事柄です。わたしたちの自由にすることはできません。ファリサイ派や律法学者たちは、救いは自分たちの手の中にあると勘違いしていました。そして、神の御心は自分たちが一番よく分かっていると思い上がっていました。けれどニコデモは、イエスに教えを請いに来る謙虚な人でした。それでもイエスの言葉に衝撃を受け「年をとった者が、どうして生まれることができましょう」「どうして、そんなことがありえましょうか」と驚くばかりでした。
 イエスはニコデモに、実は神のことを分かっていないということを知らせ、自分の言葉に心を開くように促します。ファリサイ派や律法学者たちが考えるよりもはるかに広く深い神の御心を知るように導かれるのです。

 イエスは言います。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。」
 神と共にいた者でなければ、神を知らないし、神を語ることはできません。神ご自身でなければ、神の御心を正しく伝えることはできません。イエス キリストこそ、わたしたちの救いのために人となって天から降ってきてくださった神よりの神、真に神であり、真に人であるお方です。聖書は語ります。「(神は)この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。」(ヘブライ 1:2)
 イエス キリスト以外に天に上った者は誰もいません。イエス キリストは唯一無二のお方です。このただ一人のお方が、わたしたちの救いのために十字架に上げられてくださいました。

 ここに出てくる「モーセが荒れ野で蛇を上げた」と書かれているのは、民数記 21:4~9に出てきます。エジプトから導き出してくださった神の御業に不平を言うイスラエルに対して、神は炎の蛇を送り、蛇にかまれて多くの死者が出ました。民はモーセに泣きつきます。モーセは民のために神に祈ります。神はモーセに答えて言われます。「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。」それでモーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げました。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た、と聖書は語ります。
 ここでイエスが民数記の出来事に触れられたのは、この出来事がキリストの十字架を指し示しているからです。神の裁きの出来事を仰ぎ見ることが、救いへとつながるという点が十字架を指し示しているのです。キリストの十字架においてわたしたちの罪が裁かれており、十字架の主を仰ぎ見て、神が罪を裁き、わたしたちを救ってくださっていることを信じるのです。それ故に、十字架はキリスト教会のシンボルとして用い続けられてきました。

 イエスはニコデモに新しく生まれる鍵となる十字架を示されました。なぜなら、永遠の命を得るためには、キリストの十字架が自分の救いのためであることを知り、信じ受け入れる必要があるからです。

 ところで、わたしたち罪人は、どうしても満足や手応えを求めます。律法を守れるようになった。以前より、愛せるようになった。赦せるようになった。成長した。どうしてもファリサイ派のような律法主義的な信仰に近づいていきます。
 しかし聖書は、神と共に生きるということ、神と共にある命について語ります。命は、わたしの命であっても、わたしのもの、わたしの所有物ではありません。わたしたちは能力も性格も自分で選んで生まれては来ません。いつの時代に生まれるか、どの国に生まれるかも選べません。健康に気遣うことはできても、死から自由になることは決してありません。命は自分の自由にはなりません。命は、神から与えられた賜物であり、神のものなのです。
 命をお与えくださった神は、命が滅びるのをよしとされず、共に生きていくことを願って、救いの御業をなしてくださいました。その神の救いの御業の結果、わたしたちに与えられるのが、神と共に生きる命、永遠の命です。

 この永遠の命は、このヨハネ福音書が救いを語る上で重要だと考えているテーマです。例えば「永遠の命」という言葉が、マタイでは3回、マルコは2回、ルカでは3回なのに対して、ヨハネには17回出てきます。そしてヨハネ 6:40では「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させること」だと記しています。またこの福音書自体の目的が「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(ヨハネ 20:31)とあります。
 永遠の命は、今の命と同じく、神から与えられる賜物、恵みです。律法に捕らわれ、自分の成長に捕らわれ、自分に思いを向けるのではなく、わたしたちのためにご自分の命を献げて十字架を負われたイエス キリストを仰ぎ、キリストを通して命の源である父・子・聖霊なる神との交わりに入れて頂くとき、永遠の命に与るのです。

 イエスは、ニコデモが自分自身から解放され、神の恵みの御業に自分自身を委ねることへと導こうとしておられます。わたしたちもまた、真の羊飼いであるイエス キリストに導いて頂くとき、自分自身のすべてを委ねることのできる真の神との交わり、永遠の命に入れて頂くのです。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ 17:3)


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたはわたしたちを知っていてくださり、永遠の命に与らせるため、丁寧に導いてくださいます。救いは、わたしたちが求めるところにではなく、あなたの御心の内にあります。どうかあなたの導きを信頼し、御心を求めていくことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン