2019年7月28日(日)主日礼拝
聖書箇所:ローマの信徒への手紙 8:28〜30(新共同訳)
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
「万事が益となる?」「はたしてそうだろうか?」ここはなかなか納得できない箇所の一つだろうと思います。信じられない箇所であれば、奇跡や癒やしなどたくさんあるかもしれません。しかし奇跡や癒やしは、イエスが生きておられた昔の話で確かめることはできません。けれどきょうの箇所は、わたしたちの人生において起こっている出来事が本当に益となっているのか、という疑問を引き起こします。
きょうの箇所、肝心な「益」という言葉ですが、ギリシャ語で「アガソス」という単語が使われています。この「アガソス」は一般に「良い」と訳されます。わたしの持っている日本語訳聖書の中では、岩波版が「すべてのことが共に働いて善へと至る」としています。また田川健三版では「一切が良い方向へと働く」となっています。
この「善」または「良い」というのが意味しているのは、神が良しとされるところという意味です。ですから「益となる」というのを、わたしにとって都合良くなると理解したのでは、聖書が言っていることと全く違うことを想像することになってしまいます。
神が良しとされる「善」あるいは「良い方向」というのは、きょうの箇所で言うならわたしたちが「御子の姿に似たもの」になること、つまりイエス キリストの救いに与るということです。ですから「万事が益となるように共に働く」というのは、「すべてのことがわたしたちの救いとなるように働く」という意味です。
ここまでの流れは、18節から「現在の苦しみ」について語り、26節「霊も弱いわたしたちを助けて」くださることを示し、すべてのことがわたしたちの救いとなるように働く、つまり神はわたしたちが御子イエス キリストと同じ姿に似たものとなるまですべてを導かれるということを語っています。
パウロはローマの教会の人たちを「神を愛する者たち」と言い「御計画に従って召された者たち」と言い換えます。さらに29節で「神は前もって知っておられた者たち」と言い、30節で「神はあらかじめ定められた者たち」と言っています。
神には救いの計画があり、わたしたちがイエスを信じる前から知っておられ、神がわたしたちを救いに定め、召されたというのです。
旧約の時代から「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」(箴言 19:21)と教えられてきました。そしてイエス キリストが来られるに至って、主の御旨が「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ 3:16)ことが示されました。
神は御子イエス キリストを救い主として遣わされたことにより、わたしたちをイエス キリストと結び合わせ「御子の姿に似たもの」へと導いてくださいます。別の箇所では「鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて」(2コリント 3:18)いくと言われています。
神がこのような御業をなしてくださるのは、罪によって破壊されてしまった関係を、イエス キリストを長子とする神の家族という新しい関係の中に招き入れるためです。
この主にある兄弟姉妹という関係の中で、共に救いに与り、恵みを分かち合い、神と共に歩む場所として教会が建てられています。イエス キリストが仲保者、間を取り持つ者となって神とわたしたちの間を執り成してくださり、わたしたちお互いの間もイエス キリストが仲保者としてつないでいてくださるのです。イエス キリストがわたしたちを神の子としてくださり、わたしたちは共に天にいます神を「父」と呼ぶことのできる神の家族とされているのです。
どうやってキリストに結ばれ、救いの中に入れられたのか。それは、神があらかじめ定め、召してくださったからです。これらは「召命」「予定」「摂理」「聖定」などいろいろな言葉がありますが、それらの核心は「選び」という言葉で語られます。
「選び」ということで聖書が言うことは「神が救ってくださる」ということです。
この手紙を書いたパウロは、ガラテヤ 1:15, 16でこう書いています。「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」。パウロはキリスト教の迫害者でした。復活のキリストに捉えられるまで熱心な迫害者でした。それなのにパウロは「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神」と言うのです。悔い改めて回心したから用いられたのではなく、母の胎にあったときから選び、召し出してくださったと言うのです。信仰が成長したからとか、よく学んで信仰を正しく理解したから選ばれたのではないのです。
旧約にはこう記されています。「あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主が・・あなたたちを選ばれたのは・・ただ、あなたに対する主の愛のゆえに・・主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し・・救い出されたのである。」(申命記 7:6~8)
そして新約ではこう言われています。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。」(2 テモテ 1:9,10)
この世にあっては、試験を受け、合格して、進学や就職をしたり、資格を取得したりします。ですから、どうしても自分の努力とか、自分が到達したところが気になります。救いに関しては、自分の信仰が気になります。「教会生活は長いのですが、信仰はまだまだです」といった言葉を聞くことがあります。しかし、聖書が救いについて語ることは違うのです。わたしたちの信仰が救いのレベルに到達したから救われたのではありません。救いは、神の愛と恵みによる選びによってなされたのです。
選びは、神の救いの御業です。わたしたち一人ひとりの救いの根拠が、神ご自身にあることを明示するものです。そして、救いの根拠が神ご自身にあるからこそ、わたしたちの救いが揺るぎないものであることを信じることができるのです。
そしてわたしたちを選び、救いへと召し出してくださった神は、召し出した後も放り出すのではなく、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光を与えるまで導いてくださいます。
義というのは、正しい関係を表します。神はわたしたちを神との正しい関係の中に入れてくださいます。そして栄光は、神が救いの神であることが明らかになる、現れることです。神の救いの光に包まれて生きる、神と共にあることを証しする者にまで導いてくださるのです。わたしたちを選び、召し出し、救いへと導き入れてくださる神は、最後の最後まで導いてくださるのです。
だから「すべてのことがわたしたちの救いとなるように」なされていくのです。
この「万事が益となるように共に働く」すなわち「すべてのことがわたしたちの救いとなるように用いられる」というのは、パウロの信仰の歩みから来る信仰告白なのです。強烈な迫害者だった、だから回心してもなかなか受け入れてもらえなかった、生前のイエスの弟子ではないと軽んじられた、福音宣教の中で数え切れないほどの困難に出会った、何度も祈ったけれども癒やされなかった、そのすべてを振り返ってみて、パウロは「すべてのことがわたしの救いとなるように用いられた」と告白し証ししているのです。
神は、そのパウロの告白、証しを通して語られます。「あなたの経験するすべてをわたしはあなたの救いのために用いる」と神は言っておられるのです。だから、わたしたちの救いは揺るがないのです。神はわたしたちの人生のすべてに関わり、救いへと導いてくださいます。だから困難も何もかも神に委ねて歩んでいくのです。
ハレルヤ
父なる神さま
聖霊を注ぎ、あなたをさやかに仰がせてください。あなたの御心、あなたの御業をはっきりと知ることができますように。わたしを手放すことなく、救いへと導いてくださることを確かに知ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書箇所:ローマの信徒への手紙 8:28〜30(新共同訳)
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」
「万事が益となる?」「はたしてそうだろうか?」ここはなかなか納得できない箇所の一つだろうと思います。信じられない箇所であれば、奇跡や癒やしなどたくさんあるかもしれません。しかし奇跡や癒やしは、イエスが生きておられた昔の話で確かめることはできません。けれどきょうの箇所は、わたしたちの人生において起こっている出来事が本当に益となっているのか、という疑問を引き起こします。
きょうの箇所、肝心な「益」という言葉ですが、ギリシャ語で「アガソス」という単語が使われています。この「アガソス」は一般に「良い」と訳されます。わたしの持っている日本語訳聖書の中では、岩波版が「すべてのことが共に働いて善へと至る」としています。また田川健三版では「一切が良い方向へと働く」となっています。
この「善」または「良い」というのが意味しているのは、神が良しとされるところという意味です。ですから「益となる」というのを、わたしにとって都合良くなると理解したのでは、聖書が言っていることと全く違うことを想像することになってしまいます。
神が良しとされる「善」あるいは「良い方向」というのは、きょうの箇所で言うならわたしたちが「御子の姿に似たもの」になること、つまりイエス キリストの救いに与るということです。ですから「万事が益となるように共に働く」というのは、「すべてのことがわたしたちの救いとなるように働く」という意味です。
ここまでの流れは、18節から「現在の苦しみ」について語り、26節「霊も弱いわたしたちを助けて」くださることを示し、すべてのことがわたしたちの救いとなるように働く、つまり神はわたしたちが御子イエス キリストと同じ姿に似たものとなるまですべてを導かれるということを語っています。
パウロはローマの教会の人たちを「神を愛する者たち」と言い「御計画に従って召された者たち」と言い換えます。さらに29節で「神は前もって知っておられた者たち」と言い、30節で「神はあらかじめ定められた者たち」と言っています。
神には救いの計画があり、わたしたちがイエスを信じる前から知っておられ、神がわたしたちを救いに定め、召されたというのです。
旧約の時代から「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」(箴言 19:21)と教えられてきました。そしてイエス キリストが来られるに至って、主の御旨が「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ 3:16)ことが示されました。
神は御子イエス キリストを救い主として遣わされたことにより、わたしたちをイエス キリストと結び合わせ「御子の姿に似たもの」へと導いてくださいます。別の箇所では「鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられて」(2コリント 3:18)いくと言われています。
神がこのような御業をなしてくださるのは、罪によって破壊されてしまった関係を、イエス キリストを長子とする神の家族という新しい関係の中に招き入れるためです。
この主にある兄弟姉妹という関係の中で、共に救いに与り、恵みを分かち合い、神と共に歩む場所として教会が建てられています。イエス キリストが仲保者、間を取り持つ者となって神とわたしたちの間を執り成してくださり、わたしたちお互いの間もイエス キリストが仲保者としてつないでいてくださるのです。イエス キリストがわたしたちを神の子としてくださり、わたしたちは共に天にいます神を「父」と呼ぶことのできる神の家族とされているのです。
どうやってキリストに結ばれ、救いの中に入れられたのか。それは、神があらかじめ定め、召してくださったからです。これらは「召命」「予定」「摂理」「聖定」などいろいろな言葉がありますが、それらの核心は「選び」という言葉で語られます。
「選び」ということで聖書が言うことは「神が救ってくださる」ということです。
この手紙を書いたパウロは、ガラテヤ 1:15, 16でこう書いています。「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」。パウロはキリスト教の迫害者でした。復活のキリストに捉えられるまで熱心な迫害者でした。それなのにパウロは「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神」と言うのです。悔い改めて回心したから用いられたのではなく、母の胎にあったときから選び、召し出してくださったと言うのです。信仰が成長したからとか、よく学んで信仰を正しく理解したから選ばれたのではないのです。
旧約にはこう記されています。「あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。主が・・あなたたちを選ばれたのは・・ただ、あなたに対する主の愛のゆえに・・主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し・・救い出されたのである。」(申命記 7:6~8)
そして新約ではこう言われています。「神がわたしたちを救い、聖なる招きによって呼び出してくださったのは、わたしたちの行いによるのではなく、御自身の計画と恵みによるのです。この恵みは、永遠の昔にキリスト・イエスにおいてわたしたちのために与えられ、今や、わたしたちの救い主キリスト・イエスの出現によって明らかにされたものです。」(2 テモテ 1:9,10)
この世にあっては、試験を受け、合格して、進学や就職をしたり、資格を取得したりします。ですから、どうしても自分の努力とか、自分が到達したところが気になります。救いに関しては、自分の信仰が気になります。「教会生活は長いのですが、信仰はまだまだです」といった言葉を聞くことがあります。しかし、聖書が救いについて語ることは違うのです。わたしたちの信仰が救いのレベルに到達したから救われたのではありません。救いは、神の愛と恵みによる選びによってなされたのです。
選びは、神の救いの御業です。わたしたち一人ひとりの救いの根拠が、神ご自身にあることを明示するものです。そして、救いの根拠が神ご自身にあるからこそ、わたしたちの救いが揺るぎないものであることを信じることができるのです。
そしてわたしたちを選び、救いへと召し出してくださった神は、召し出した後も放り出すのではなく、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光を与えるまで導いてくださいます。
義というのは、正しい関係を表します。神はわたしたちを神との正しい関係の中に入れてくださいます。そして栄光は、神が救いの神であることが明らかになる、現れることです。神の救いの光に包まれて生きる、神と共にあることを証しする者にまで導いてくださるのです。わたしたちを選び、召し出し、救いへと導き入れてくださる神は、最後の最後まで導いてくださるのです。
だから「すべてのことがわたしたちの救いとなるように」なされていくのです。
この「万事が益となるように共に働く」すなわち「すべてのことがわたしたちの救いとなるように用いられる」というのは、パウロの信仰の歩みから来る信仰告白なのです。強烈な迫害者だった、だから回心してもなかなか受け入れてもらえなかった、生前のイエスの弟子ではないと軽んじられた、福音宣教の中で数え切れないほどの困難に出会った、何度も祈ったけれども癒やされなかった、そのすべてを振り返ってみて、パウロは「すべてのことがわたしの救いとなるように用いられた」と告白し証ししているのです。
神は、そのパウロの告白、証しを通して語られます。「あなたの経験するすべてをわたしはあなたの救いのために用いる」と神は言っておられるのです。だから、わたしたちの救いは揺るがないのです。神はわたしたちの人生のすべてに関わり、救いへと導いてくださいます。だから困難も何もかも神に委ねて歩んでいくのです。
ハレルヤ
父なる神さま
聖霊を注ぎ、あなたをさやかに仰がせてください。あなたの御心、あなたの御業をはっきりと知ることができますように。わたしを手放すことなく、救いへと導いてくださることを確かに知ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン