聖書の言葉を聴きながら

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ヨハネによる福音書 6:15〜21

2020-09-27 17:25:25 | 聖書
2020年9月27日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 6:15〜21(新共同訳)


 イエスはガリラヤ湖の近くで、集まってきた大勢の人たちに対して、五つのパンと二匹の魚で人々を満たすという「しるし」を示されました。

 ヨハネによる福音書は、イエス キリストが救い主である「しるし」を伝えようとしています。ヨハネによる福音書は、四つの福音書の中で最も多く「しるし」という言葉を使います。福音書の編集者ヨハネは、この「五千人の給食」と呼ばれる出来事が単なる奇蹟ではなく、イエスが救い主=キリストであることを示す「しるし」だと考えています。

 ですが、人々はイエスを祭り上げ、イエスを王にするため連れて行こうしました。当時ユダヤは、ローマ帝国の属国だったので、ユダヤの独立を求める人が大勢いました。そういった人たちが、イエスを王に祭り上げて独立運動をしようとしていたのです。
 イエスはそれをよしとせず、ひとり神との交わりのため山へと退かれました。

 夕方になり、弟子たちは湖畔へと降りていきました。そして、船に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとしました。
 既に暗くなっていましたが、イエスはまだ弟子たちのところへは来ていませんでした。
 不思議なのは、イエスがまだ来ていないのに、弟子たちは湖の向こう岸カファルナウムへと船を出したことです。イエスが山へと退かれる前に指示を出しておられたのでしょうか。
 いずれにしても弟子たちは、イエスのいないまま出発しました。すると、強い風が吹いてきて、湖は荒れ始めました。
 大抵の訳は「荒れ始めた」と訳していますが、原文で使われているのは「目を覚ます」という単語です。当時の人たちが湖が荒れるのをどのように考えていたかがうかがわれます。

 1スタディオンというのは185mほどだと言いますから、岸から5kmほど漕ぎだした頃、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られました。
 弟子たちはそれを見て、恐れました。真っ暗な荒れた湖の上を得体の知れぬ何かが近づいてくるのです。恐れぬはずがありません。

 ヨハネによる福音書は、ここ一連の記事を通してイエスがモーセの語った預言者であることを証ししています。5:46「モーセは、わたし(イエス)について書いている」。申命記 18:15「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたし(モーセ)のような預言者を立てられる。」そして 6:14「人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った。」
 しかし編集者ヨハネは、イエスはモーセ以上の存在であると伝えようとしています。出エジプトの際、モーセは海を割り、民を率いて渡りました。海を割りましたが、地の上を歩きました。しかしイエスは、湖の上を歩いて弟子たちのところへ来てくださいました。湖を割らずとも、荒れた湖の上を平然と歩いてきてくださいます。

 そしてイエスは言われます。「わたしだ。恐れることはない」
 この「わたしだ」というのは、原文では「エゴー エイミ」という言葉です。これはギリシア語です。新約はギリシア語で書かれています。一方、旧約はヘブライ語で書かれていますが、旧約のギリシア語訳である70人訳聖書(LXX)というのがあります。そのLXXで「エゴー エイミ わたしだ、わたしである」は、出エジプト 3:14「わたしはある。わたしはあるという者だ」という箇所で使われています。これは神がモーセにご自分を伝えた場面の言葉です。
 これは、わたしたちと常に共におられる神、インマヌエル(神は共におられる)である神が語られる言葉です。福音書は、モーセのような預言者であり、モーセを超える神であるお方、それがイエス キリストである、と言っているのです。

 そして「わたしだ」に続いて言われた「恐れることはない、恐れるな」も、共にいてくださる神が言われる言葉です。この言葉もイエスが神と等しい方であることを証しする言葉です。

 弟子たちは、語りかけるイエスの言葉を聞いて、湖の上を歩いてくるのがイエスであることが分かりました。そこで、弟子たちはイエスを舟に迎え入れようとしました。「すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」
 新共同訳聖書は「間もなく」と訳していますが、これは「直ちに」と訳すべきだと考える人もいます(田川建三など)。そこで「イエスを舟にお迎えしようとしたが、たちまち舟は目指す地に着いた」(フランシスコ会訳)とか「彼(イエス)を舟に迎え入れようとした。すると舟は往こうとしていた地にすぐに着いてしまった」(岩波書店版)と訳しているものもあります。
 おそらく福音書は、イエスが来てくださったこと、イエスが共にいてくださることこそが、弟子たちにとって必要なことであり、弟子たちの目指すところであると考えています。

 まだ信仰を持っていなかったとき、始めてこの箇所を読んで、わたしは「それがどうした」と思いました。「二千年前、荒れた湖の上を歩くことができる人がいた。それがどうした。自分と何の関係がある」と思いました。
 復活を信じて信仰を持ったので、奇蹟は信じています。けれどヨハネによる福音書は、これは単なる奇蹟ではなく、イエスが救い主=キリストである「しるし」と理解したのです。まるで嵐に揺さぶられるように、前にも後にも進めない、たとえそのような状況であっても、困難を超えて主は来てくださる。共にいてくださる。恐れを超えて「わたしだ。恐れることはない」と語りかけてくださるお方です。
 だからキリストの弟子たちの目指す地は、イエスと共にいる神の国なのです。

 編集者ヨハネは、それに気づきました。この出来事の中にイエスこそが救い主=キリストであることを見たのです。福音書の編集者・編纂者としてこれを伝えることを願いました。そして神は、この福音書を神の言葉とされました。そして二千年、教会はこの言葉を語り続けました。わたしたちの主はきょう、この御言葉を通して、わたしたちに語りかけてくださいました。「わたしだ。恐れることはない。」
 ご覧なさい、この方です。この方 イエス キリストこそわたしたちの救い主です。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちにあなたを伝えるため、イエス キリストは人となり、わたしたちのところへ来てくださいました。どんな困難をも超えて、わたしたちの許に来てくださり「わたしだ。恐れることはない」と語りかけてくださいます。そしてイエス キリストがわたしたちのただ中に来てくださるとき、わたしたちはいるべき場所に既にいることを思います。どうか聖霊によってわたしたちを清め、わたしたちの許に来てくださるイエス キリストをさやかに見ることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

詩編 140:8〜14

2020-09-25 10:31:43 | 聖書
2020年9月23日(水) 祈り会
聖書:詩編 140:8〜14(新共同訳)


 きょうは、神に助けを求める詩篇 140篇の後半 8〜14節です。

 詩人は神に呼びかけます。8節「主よ、わたしの神よ、救いの力よ」。神に望みを抱いて、神こそわたしの救いと信じて祈ります。
 「わたしが武器を執る日/先頭に立ってわたしを守ってください。」
 ここで「先頭に立ってわたしを守ってください」とありますが、最近の翻訳ではどれも基本的に「あなたは私の頭を覆ってくださった」(聖書協会共同訳)と訳しています。新共同訳では、頭を覆うを戦の隊列の先頭で守ってくださると解釈したのでしょう。頭を覆うというのは、命を守るという意味だと岩波版の注では説明しています。
 意味としてはどちらの訳でもそう違いはありません。

 9節「主よ/主に逆らう者に欲望を満たすことを許さず/たくらみを遂げさせず/誇ることを許さないでください。」
 悪しき者の思いが実現することがありませんように、と願います。悪しき者に限りませんが、自分の思い通りに事が成ることを罪人は願います。罪により、人は神とは違う善悪を持つようになり、自分の思い通りになることを求めてしまいます。そして自分の思い通りになったとき、人は誇らずにはいられないのです。
 詩人は、悪しき者の思いが実現しないように、悪しき者が誇ることがないようにと祈ります。

 10節「わたしを包囲する者は/自分の唇の毒を頭にかぶるがよい。」
 詩人を取り囲む者たちの悪意ある言葉が、語る者たちの上に降りかかればいいのに、と詩人は願います。
 11節「火の雨がその上に降り注ぎ/泥沼に沈められ/再び立ち上がることのないように。」
 12節「舌を操る者はこの地に固く立つことなく/不法の者は災いに捕えられ/追い立てられるがよい。」

 詩人は敵への呪いを祈ります。この言葉を聞いて、聖書には「呪ってはならない」という言葉がなかったっけ、と思う方もいるでしょう。確かに聖書には「呪ってはなりません」(ローマ 12:14)と言われています。それなのに何でこういう祈りが聖書にあるのだろう、と疑問を持たれるでしょう。しかしわたしたちは、キリストと同じように苦難を受け止められるほど強くはないのです。
 この祈りが、聖書に収められているのは、苦難に苦しむわたしたちが怒り、嘆き、敵を呪うとき、神がわたしたちの思いを受け止めてくださるからです。わたしを究め、わたしを知っていてくださる(詩編 139:1)神は、わたしたちのあらゆる思い、わたしたちのすべてをわたしに委ねよと手を差しのべてくださるのです。

 苦しむ人の代表的人物に、旧約のヨブがいます。ヨブの友人たちは、ヨブのあまりの苦しみに言葉を失い、何とかヨブの心を宥めようとしますが、ヨブの怒りは増すばかりです。友人たちは、苦しみの原因を説明しようとしますが、ヨブは納得しませんでした。ヨブ記の最後に登場し、ヨブに語りかけられた神は、友人たちにも語られます。「主は・・テマン人エリファズに仰せになった。『わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。』」(ヨブ 42:7)
 神が友人たちに求められたのは「泣く人と共に泣きなさい」(ローマ 12:15)ということだったのではないか、と思います。この「泣く人と共に泣きなさい」の直前には「呪ってはなりません」という言葉も出てきます。ヨブの友人たちの言葉も、詩人に「聖書には『呪ってはなりません』とありますよ」と言うのも間違ってはいないのだと思います。しかし間違ってはいないのだけれども、違うのだと思います。その時、その人に対して語る言葉としては、ふさわしくないのだと思います。それが詩人のこの言葉が、聖書の言葉とされていることを通して示されているところだと思います。神はこの呪いの祈りを受け止めてくださいました。
 耐えがたい思いは、神に受けとめて頂かなくてはなりません。

 神に受け止めて頂いたときに、わたしたちは自分でどうすることも出来ない思いから解き放たれていきます。神に受け止められ、神に包まれて、神と共に歩み出せるのです。

 詩人は、裁きがなされ、神の義が立てられること、神の国が到来するのを待ち望みます。
 13節「わたしは知っています/主は必ず、貧しい人の訴えを取り上げ/乏しい人のために裁きをしてくださることを。」
 おそらく詩人は、終わりの日の神の国の到来を望み見ているのだと思います。もちろん、今救われることを諦めている訳ではありません。詩人は自分の祈りを神が聞いていてくださることを信じています。しかし詩人は今、神が目指しておられる救いの完成、神の国の到来が示され、見ているのだろうと思います。
 そして、仮に自分が救い出されなかったとしても、自分は神の救いの御業の道を歩む、という信仰を抱いているのだと思います。例えば、ダニエル書では、偶像礼拝を拒否したシャドラク、メシャク、アベド・ネゴは王ネブカドネツァルに脅されます。「もし拝まないならば、直ちに火の燃える炉の中に投げ込まれる」。彼らは答えます。「もしそうなれば、私たちが仕える神は、私たちを救い出すことができます。火の燃える炉の中から、また、王様、あなたの手から、救い出してくださいます。〈 たとえそうでなくとも 〉、王様、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えることも、あなたが立てた金の像を拝むこともいたしません。」(ダニエル 3:15~18 聖書協会共同訳)

 詩人は主に在る希望を語って祈りを閉じます。
 「主に従う人は御名に感謝をささげ/正しい人は/御前に座ることができるでしょう。」
 苦難の中でも、救いの神とその御業は、民に希望をもたらすのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 祈りによって、あなたを仰ぎ見、あなたとの交わりを与えられていることを感謝します。罪の世では苦難があります。詩人を希望へと導かれたように、わたしたちもあなたにすべてを受け止めて頂き、神の国の希望へと導かれますように。生きるのになくてはならない信仰と、希望と、愛をあなたから受けることができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ローマの信徒への手紙 12:3〜8

2020-09-20 15:39:18 | 聖書
2020年9月20日(日)主日礼拝  
聖 書  ローマの信徒への手紙 12:3~8(新共同訳)


 きょうの箇所から信仰生活・教会生活の勧めがなされます。
 救いは、神と共に生きるところにあります。神はそのために独り子イエス キリストを遣わしてくださり、神と共に生きることを妨げる罪をキリストの十字架において贖ってくださいました。だからパウロは自分自身を神に献げ、神と共に歩みなさい、と勧めます。
 聖書がわたしたちになす勧め、すなわち、神がわたしたちに求めておられることは、神と共に歩みなさい、救いにふさわしく歩みなさい、ということに尽きるのだろうと思います。これを忘れて、細かな点にこだわっていくと、律法主義に陥ったり、自分の義に引かれていって神から離れていってしまいます。

 パウロは「わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人ひとりに言う」と言います。与えられた恵みとは、キリストの救いに他なりません。12:1で「あなたがたのなすべき礼拝」という言い方をしていますが、その意味するところは「キリストの救いに与った者としてふさわしい仕え方をする」ということです。パウロも今「キリストの救いに与った者として」語ります。

 きょうの箇所では「自分を過大に評価してはなりません」というところが印象に残るかもしれません。特に謙遜を美徳とするわたしたち日本人にとっては「そうだよね」と思ったかもしれません。
 しかしここで注目して頂きたいのは「信仰の度合いに応じて」というところです。他の訳では「信仰の秤に従って」(聖書協会共同訳)、「信仰の量りに応じて」(新改訳2017)というように、度合いと訳されている所を秤(量り)と訳しています。判断の基準という意味で「秤(量り)」と理解した方がよいのではないかと思います。度合いと捉えると、自分の信仰は小さいとか弱いといった方向に陥りかねません。ここは基準という意味なので、秤(量り)の方がいいかなと思います。
 わたしたちは判断をするための秤・基準を持っています。一番分かりやすいのが、どちらの方が安いのかという金銭的基準です。そこに品質、耐久性、アフターケアなどが合わせて基準として考えられていきます。
 しかし物に対する基準が、そのまま人に適応されるとそれは神の御心とは違ってきます。近年人に対しても物と同じように、役に立つかどうか、有用かどうか、お金になるかどうかといった基準を当てはめたが故の事件が起きてきています。事件までいかなくても、そういった考え方がお互いの関係をいびつなものにしてしまっている現実はたくさんあるような気がします。
 ここで聖書が言っているのは、自分に対して、お互いに対して、神が一人ひとりに与えてくださった信仰の秤(量り)によって慎み深く判断しなさい、ということです。

 信仰の秤(量り)で人を見たときに明らかになるのは、神がわたしたちを愛していてくださるということ。わたしたちの罪を贖うためにキリストが十字架を負ってくださったということ。神がわたしたちと共に生きたいと願っておられるということです。
 このような評価であれば、何故パウロは「自分を過大に評価してはなりません」と言うのでしょうか。それは、これまで書かれてきたように、イスラエルは異邦人に対して誇り、異邦人はイスラエルに対して誇るという問題が教会にはあるからです。イスラエルは異邦人に対して「自分たちは旧約を知っている。割礼も受けている。きのうきょう神を信じた異邦人とは違う」という思いを持っており、異邦人はイスラエル(ユダヤ人)に対して「彼らは神が遣わしてくださった独り子イエス キリストを拒絶し、殺してしまった。だから彼らに代わって自分たちが選ばれた」と思っていて、それぞれが自分たちを過大に評価していたからです。
 イスラエルも異邦人も、信仰の秤(量り)で自分たちを、そしてお互いを見ていませんでした。

 だからこの後の展開は、5節「わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」となっていくのです。信仰の秤(量り)で見たら、自分たちはどういう存在なのかをパウロは示すのです。パウロが明らかにするのは、わたしたちキリスト者はすべて、キリストに結ばれ、キリストの命に繋がっている存在であり、バラバラではない、キリストの体として共に生きる存在なのだということです。

 「教会はキリストの体」という言葉は、日本キリスト教会信仰の告白でも言われています。「教会はキリストのからだ、神に召された世々の聖徒の交わり」であると告白しています。聖書では、コリントの信徒への手紙 一、エフェソの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙に、キリストの体としての教会ということが出てきます。
 きょうの箇所では4~5節「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」と言われます。これがキリストを頭と頂く教会の姿です。主であるキリストの御心をなす教会の有り様です。

 続くパウロの勧めは具体的になっていきます。「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」。わたしたちは一人ひとり違います。賜物に関しては、神は平等にはなさいませんでした。
 ここでは預言、奉仕、教え、勧め、施し、指導、慈善の賜物が挙げられています。これらはキリストの三職、三つの職務と呼ばれるものに属する務めです。キリストの三職は、預言者・王・祭司です。預言者は語る務め、王は治める務め、祭司は執り成す務めと言われています。ここでは、預言者の務めには預言と教え、王の務めには勧めと指導、祭司の務めには奉仕と施し・慈善が当たるでしょうか。務めの名前は、時代や教派によって変わります。

 教会の頭はイエス キリストです。そしてキリストの御心をなしていくのが、キリストの体なる教会です。キリストが果たされた預言者・王・祭司という三つの職務を教会は担っていきます。
 本来、キリストに結ばれたわたしたち一人ひとりもキリストの三職を引き継いでいます。例えば、親の場合、子どもに対して御言葉を教え伝える預言者の務めを負っています。キリストに従い救いの道を歩んでいけるようにキリスト者の生き方を自ら示し教えていく王の務めを負っています。そして子どものために執り成し祈る祭司の務めを負っています。そして教会は、一人ひとりがキリストの三職を担って生きていけるように、預言者・王・祭司の務めを果たし、模範を示していきます。
 一人ひとりが、与えられた場において、託された人々に対して、キリストを証しし、キリストの三職をなしていくのです。神が一人ひとりを用いて御業をなされます。神が一人ひとりの務めを求めておられます。

 ですから、わたしが説教するのは、皆さんが御言葉を教えるという務めができるようになるためでもあります。
 わたしは神学校に行くことを、父親に強く反対されました。その父が、同級生の葬儀に出る機会が増えてきたとき、電話をかけてきて「キリスト教では死についてどう教えているのか」と聞かれました。
 わたしは神の御心を尋ね求める人に対する教会の責任として説教者として立てられています。そしてもう一方で、キリスト者である皆さんが親や兄弟、子どもや孫、また友人から救いについて、神について尋ねられたときに神を指し示すことができるように御言葉を解き明かす牧師として、預言者の務めを担っています。聖書は語ります。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」(1ペトロ 3:15)
 そして長老は、自ら神に従い、神と共に歩む模範を示す務めを教会員に対して負っています。
 執事は、神とのつながりを執り成す務めを果たします。訪問やハガキなどを通して問安し、礼拝に集えなくなってきている人のために執り成し祈ります。
 それら教会でなされるキリストの三職を見て、教会員は神に与えられた家族、友人たちのためにキリストを証しする務めを果たすのです。

 わたしたちは、他者も自分自身も、神が与えてくださった信仰という秤(量り)で見るのです。
 3節には「慎み深く」とありますが、これは謙遜にというよりも「丁寧に」「神の御心を求めて」といった感じでしょうか。神がどんな賜物を与えてくださり、どう仕えることを求めておられるのか、それを聞き取るのがまさしく信仰です。

 その信仰で聞き取った神の御心を、教会で、またそれぞれが与えられた場で「信仰に応じて」仕え、「専念し」「精を出して」「惜しまず」「熱心に」「快く」なしていくのです。
 わたしは、この中では「快く」が特に大事かなと思います。快くではなく、義務感になってしまうと、律法主義的になっていきますし、熱心も過ぎると、かつてパウロもそうであったように、迫害することも正しいとなっていきます。これらは神の御心から逸れていっています。神の救いの御業、神の御心という視点で見て、できることを喜んでする。足りないところを神が補ってくださることを祈りつつ仕えていくのではないでしょうか。

 わたしたちを召してくださった神が、わたしたちを用いて救いの御業をなしてくださることを望み見ながら、共に救いを喜びながら、神に・キリストに従う救いの道を歩んでいきたいと願います。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちを求め、救いの御業のために用いてくださることを感謝します。あなたが与えてくださった信仰の秤でわたしたち自身や世界を見るのには、あなたの導きと訓練が必要です。あなたの御言葉によってわたしたちを養い、あなたの御心と御業から理解し、仕えていくことができますように。どうか信仰から信仰へと導いてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

詩編 140:1〜7

2020-09-19 17:29:53 | 聖書
2020年9月16日(水) 祈り会
聖書:詩編 140:1〜7(新共同訳)


 きょうは1〜7節です。
 聖書には1行あけてある所がありますが、ヘブライ語の原文は1行あけてある訳ではありません。翻訳者の判断であけてあります。ですから、1行あけてない所で区切ったのは、翻訳者と少し判断が違うところです。

 4節の終わり、6節の終わりに「セラ」と書かれています。このセラがどういう意味なのか今では分かりません。朗読の仕方を示すものだとか、表題に「指揮者によって」とあるので、歌い方を示すものだとか推測はされますが、正確な意味は分からなくなってしまいました。

 140篇は、神に助けを求める詩篇です。143篇まで助けを求める詩篇が続きます。詩人がどんな困難な状況にあるのか、具体的には書かれていません。長い時間祈り継がれてきましたから、その時々でいろいろな状況を重ね合わせて祈られ、詠われてきたのだろうと思います。
 読む側が、詩篇の言葉から状況を想像しながら、神に助けを求める詩人の気持ちを考えていこうと思います。

 2~4節「主よ、さいなむ者からわたしを助け出し/不法の者から救い出してください。/彼らは心に悪事を謀り/絶え間なく戦いを挑んできます。/舌を蛇のように鋭くし/蝮の毒を唇に含んでいます。」

 2節の「不法の者」「不法」と訳された言葉は「多くの場合、搾取や抑圧といった社会的暴力を指す」(月本昭男、詩篇の思想と信仰 VI)と言われます。
 4節の「舌を・・鋭くし」は「言葉による暴力を示唆」(月本昭男)すると言われます。
 そのようなことから、この詩篇は、偽りの訴えで有罪とされようとしている人の祈りであろう、と理解する人もいます。
 古代西アジアは早くから法が整備され、法による秩序によって統治された社会だったようです(月本昭男)。「目には目を、歯には歯を」で知られる「ハンムラビ法典」、さらに古い「ウル・ナンム法典」「リピト・イシュタル法典」、同時代の「エシュヌンナ法典」が知られています。
 そして裁判の記録も発見されています。

 十戒の第九戒では「隣人に関して偽証してはならない」とあります。これは裁判における偽証を禁じいると理解されています。
 このつながりで聖書に記された出来事を思い起こすと、列王記 上 21章に「ナボトのぶどう畑」と小見出しが付けられた記事があります。ナボトの所有するぶどう畑を王アハブはほしがりましたが、ナボトに譲ってもらうことはできませんでした。すると妻イゼベルは町の長老と貴族に手紙を出し「ナボトが神と王とを呪った、と証言させよ。こうしてナボトを引き出し、石で打ち殺せ」と命じました。こうしてナボトは石で打ち殺され、アハブはナボトのぶどう畑を手に入れました。
 聖書には「裁判に当たって、偏り見ることがあってはならない。身分の上下を問わず、等しく事情を聞くべきである。人の顔色をうかがってはならない。裁判は神に属することだからである。事件があなたたちの手に負えない場合は、わたしのところに持って来なさい。わたしが聞くであろう」(申命記 1:17)と記されており、神に訴える道が備えられていました。聖書には偽りの罪で訴えられたナボトの声は記されていないので、ナボトにはその機会さえ与えられなかったのかもしれません。

 結局、どんなに戒めや制度が整っていたとしても、人間に神に従い、神と共に歩もうという信仰がなければ、戒めや制度から恵みを受け取ることができません。聖書のメッセージの核となるのも「神と共に生きる」ということです。

 5~7節「主よ、主に逆らう者の手からわたしを守り/不法の者から救い出してください/わたしの歩みを突き落とそうと謀っている者から。/傲慢な者がわたしに罠を仕掛け/綱(つな)や網(あみ)を張りめぐらし/わたしの行く道に落とし穴を掘っています。/主にわたしは申します/「あなたはわたしの神」と。主よ、嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」

 わたしたちは問題が起こってくると、自分の知識や経験を総動員して、問題を解決しようとします。けれど自分の手には負えない問題もたくさんあります。そんなとき、普段は神を信じていないと言う人も祈ります。
 しかしわたしたちは常に祈ります。神が祈ることを求めておられるからです。祈りの交わりの内に神と共に生きることを求めておられるからです。だから聖書は「祈りなさい」(1テサロニケ 5:17他)と勧めます。
 そのとき、わたしたちの支えとなるのは、前回の139篇で語られている「主はわたしを知っていてくださる」ということです(詩編 139:1)。神はわたしを覚えていてくださる。わたしの祈りは虚しくなることはない、ということです。
 そして神はいつもわたしの味方でいてくださいます。使徒パウロはこう言います。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマ 8:31~32)

 だから神の民は祈ります。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。/主よ、この声を聞き取ってください。/嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」(詩編 130:1~2)
 そしてこの140篇の詩人も、深い淵の底から祈ります。悪意に囲まれ押し潰されそうな中で、主に祈ります。たとえ死に囲まれていても「わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ 11:25)と言われ、自ら死んで復活されたイエス キリストを仰ぎ見て祈ります。
 もちろん詩人はまだイエス キリストを知りません。しかし旧約は、これから来られる救い主を望み見ています。例えば、自分には責任のない苦難に苦しんだヨブは言います。「わたしは知っている/わたしを贖う方は生きておられ/ついには塵の上に立たれるであろう。/この皮膚が損なわれようとも/この身をもって/わたしは神を仰ぎ見るであろう。」(ヨブ 19:25~26)
 ヨブと同じように詩人も仲保者キリストを望み見て祈ります。「主にわたしは申します/「あなたはわたしの神」と。主よ、嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください。」

 今の時代も、いわれなき苦しみを負わされ、悪意に取り囲まれ、死へと追い立てられる人がいます。近年の出来事は、この日本にもそういう人がいることを気づかせます。本当に神にしか望みをおけない人がいます。そういう人たちの救いのために教会は祈ります。神の国が到来するまで、罪に苦しむ人たちと共に祈るために、教会はこの祈りを次の世代へと祈り継いでいくのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 わたしたちに祈りを与えてくださったことを感謝します。そして、あなたがわたしたち一人ひとりの祈りを聞いていてくださることを感謝します。あなたが求めておられるように、常に祈ることができますように。困難に出会うとき、わたしたちは未来が見えない故に、不安に陥ります。あなたが祈りに応えて導いてくださることを信じて、祈りつつ歩むことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

ヨハネによる福音書 6:1〜14

2020-09-13 16:05:09 | 聖書
2020年9月13日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 6:1〜14(新共同訳)


 ただ今読みましたのは「五千人の給食」と呼ばれる出来事です。
 (新共同訳)聖書には小見出しが付いています。福音書の場合、他の福音書にも同じ記事があるときには、括弧でその箇所を示しています。きょうの箇所は見てお分かりの通り、4つの福音書すべてに記されている出来事です。

 「その後」という言葉で始まりますが、5章の出来事はエルサレムでの出来事のようですから、きょうの場面のガリラヤ湖周辺とは相当な距離があります。ですから「その後」というのは、ちょっと後ではなく、かなりの時間が経った後を表しています。

 イエスと弟子たちは、船でガリラヤ湖を渡られます。ガリラヤ湖は、ティベリアス湖とも呼ばれていました。当時ガリラヤ地方の領主をしていたヘロデ・アンティパスがローマ皇帝ティベリウスを記念して湖の西側に建てた町、ティベリアスにちなんでそう呼ばれるようになったようです。

 イエスが病人たちになさったしるしを見た大勢の群衆が、後を追ってきました。
 福音書は「山に登り」と表現していますが、おそらくは湖近くの小高い場所で、大勢の人たちが周囲に集まることのできる場所に行かれたのでしょう。
 時期は、過越祭をひかえた時期であったと書かれています。過越祭は、復活節と同じ時期ですから、春であったことが分かります。なので10節には「草がたくさん生えていた」と書かれています。

 「イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来る」のをご覧になって、傍らにいたフィリポに問われます。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」。
 聖書は「こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられた」と記します。試みるのは、フィリポの信仰に気づきを与えるためです。

 フィリポは答えます。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。
 1デナリオンというのは、1日分の労働の賃金であったと言われています。単純に、時給700円で8時間働くと、5,600円です。一人当たり300円として約19人分。これが200デナリオンだと3,800人となります。聖書にはおよそ五千人とありますから、フィリポの言うとおり、200デナリオンでは到底足りません。
 そこにシモン・ペトロの兄弟アンデレが、お弁当を持ってきていた小さい子どもを連れて来て言います。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
 わざわざ大麦と言うのは、大麦のパン方が小麦のパンよりも安いからだと言われます。魚は、おかずとして持ち歩くための塩漬けのものでしょう。

 計算が得意なフィリポが考えても、五つのパンと二匹の魚を持っている子どもを連れて来たアンデレの考えも同じです。足りません。役に立ちません。

 14節に「人々はイエスのなさったしるしを見て」とあります。福音書の編集者ヨハネは、この出来事をしるしだと理解しました。単なる奇蹟ではなく、信仰を支えるしるしだと理解したのです。

 フィリポの信仰を試み、気づきを与えるため、イエスは尋ねます。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」。フィリポは考え、計算して答えます。「二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」。お弁当を持ってきていた子どもを連れて来たアンデレも答えます。「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
 イエスに従って行くには、イエスと共に歩むには、わたしたちが用意できるものでは足りないのです。わたしたちが持っているものでは役に立たないのです。
 お金がたくさんあれば、教会が建つのではありません。賜物を献げて献身的に仕える人が大勢いれば、教会が建つのではありません。そこにイエス キリストがいてくださらなければなりません。わたしたちに必要な肉の糧を配慮してくださるイエス キリスト、わずかな献げ物を祝福して皆を満たしてくださるイエス キリストの御業がなくてはなりません。そして6章35節でイエス自ら「わたしが命のパンである」と言われたように、イエス キリストご自身に満たされていくのでなければ、イエスに従い、イエスと共に歩むことはできません。
 この出来事は、弟子たちにそのことを気づかせるための試みであり、しるしなのです。

 イエスは言われます。「人々を座らせなさい」。
 ここで使われている「座る」という言葉は「食卓に着く」という意味で使われる言葉だと言われます。ヨハネによる福音書13章では、最後の晩餐の場面が出てきますが、他の福音書と違って配餐・食事が描かれていません。代わりにヨハネによる福音書では、弟子たちの足を洗うことが記されています。だから、ヨハネによる福音書は配餐と食事、そして祝福をこの五千人の給食で描いているのだと言われます。

 11節「イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。」

 たった五つのパンと二匹の魚しかなかったにも拘わらず、人々は満腹しました。

 イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われます。神が注いでくださる祝福の恵みが、どれほど豊かであるのか気づくようにイエスは言われます。弟子たちが言われたとおり集めると、残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになりました。
 ヨハネは、言葉を二重の意味で使ったり、事柄を旧約とのつながりを暗示して語ったりします。ここで十二の籠は、イスラエルの十二部族、イエスの十二弟子を暗示しています。つまり、二千年前、湖畔に集まった人々を満たしただけでなく、イエスの祝福は代々の神の民を満たしていくしるしであると、ヨハネはこの出来事を受けとめたのです。

 そしてその場にいた人々も、14節「イエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と」告白したのです。
 「世に来られる預言者」とは、モーセが語った預言者のことです。モーセは申命記 18:15で「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたし(モーセ)のような預言者を立てられる」と語っています。
 またきょうの記事の直前で、イエスは「あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである」(5:46)と言っておられます。
 ヨハネは「イエスこそ来たるべき預言者、モーセが語ったあの預言者である」と伝えているのです。

 かつてモーセも神に問いました。「この民すべてに食べさせる肉をどこで見つければよいのでしょうか」(民数記 11:13)「わたしの率いる民は男だけで六十万人います。それなのに、あなたは、『肉を彼らに与え、一か月の間食べさせよう』と言われます。しかし、彼らのために羊や牛の群れを屠れば、足りるのでしょうか。海の魚を全部集めれば、足りるのでしょうか。」(民数記 11:21~22)
 きょうの記事とよく似た言葉が、出エジプトの際にも語られました。神がご自身の民をマナとうずらの肉で養われたように、イエスはパンと魚を祝福をもって民に分け与えられ、満たされました。
 この五千人の給食において、イエスはモーセの役割と共に、神の役割をも果たしておられます。ヨハネは、イエスこそモーセが語ったあの預言者であると伝える共に、イエスこそ肉を取り、人となられた、神の独り子である神、わたしたちの救い主であると告げているのです。

 イエス キリストの祝福が必要だと信じる神の民は祈ります。どうか主イエス キリストが共にいてくださり、霊も肉もあなたの恵みで満たしてくださるようにと。そして、イエス キリストから離れることなく、キリストと共に歩み、与えられた場、与えられた務めを通して仕えていくのです。たとえ小さな奉仕であっても、わずかのものを祝福して豊かに用いてくださる主を信じて、献げます。
 イエス キリストこそ、ご自身でわたしたちを満たしてくださるお方。わたしたちを祝福し、豊かに用いてくださるお方。わたしたちの希望も未来もイエス キリストにあるのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 足りないもの、役に立たないはずのものを、祝福をもって豊かにお用いくださることを感謝します。霊肉共にあなたは顧みていてくださり、イエス キリストと共に歩めるようにしてくださいます。どうかイエス キリストがわたしたちになくてはならないお方であることを知ることができますように。そしてそのなくてはならない方をあなたが与えていてくださることを覚え、主の御名によって祈り、歩む者としてください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン