聖書の言葉を聴きながら

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ローマの信徒への手紙 11:11〜15

2020-07-12 18:20:29 | 聖書
2020年7月12日(日)主日礼拝  
聖書:ローマの信徒への手紙 11:11~15(新共同訳)


 パウロは同胞イスラエルの救いが心にかかります。9〜11章でパウロはイスラエルについて語ります。10:1では「わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています」と書いています。
 神の救いの歴史を救済史と言いますが、パウロは神の救いの歴史を思い巡らしながら、イスラエルが躓いたことの意味に気づき始めます。

 パウロは問います。「ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。」何に躓いたのでしょうか。それは、神の御心に躓いたのです。神が独り子を救い主として遣わし、救い主を裁くことによって罪人を裁きから救い出し、わたしたちのために裁きを受けられたキリストを信じることを通して、神は正しい関係、すなわち義を与えようとしておられます。しかしユダヤ人は、それを拒絶してしまいました。自分たちの期待と神の御心が違うとき、罪人は躓きます。彼らは、自分たちがイスラエルであることを誇りたかった。律法を与えられ、それによって歩んでいる自分を誇りたかった。キリストを信じることによってではなく、神の民として生まれた自分自身に価値があることを誇りたかった。つまり、神ではなく自分を誇りたかったのです。
 ただその躓きは、地面に倒れ込んで、二度と立ち上がれないような躓きだったのでしょうか。「そうではない」とパウロは考えます。
 そうではなく、ユダヤ人の罪、過ち、躓いたことによって、異邦人に救いがもたらされたのです。
 そして異邦人に救いがもたらされたことは、ユダヤ人に妬みを起こさせるためだったのです。何を妬むのでしょうか。それは、異邦人が救いを喜び、神を誉め讃えて神と共に歩んでいることをです。本来なら、神はアブラハム・イサク・ヤコブの神であり、ユダヤ人の神なのです。それなのに今や異邦人が神と共に生きている。自分たちのものであった旧約の御言葉も神の言葉として受け入れている。「なぜだ」という妬みを起こさせ、ユダヤ人の思いを神へと向けさせるために、異邦人に救いがもたらされたのです。

 イスラエルの救いに思いを巡らしていたパウロは、気づきます。神の民はイスラエルだけではない、神は異邦人も神の民としようとしておられる。神はイスラエルの神でもあられるが、異邦人の神でもあられる。神はお造りになった世界に救いが満ちるために御業をなしておられる。聖書は告げます。「この方(イエス キリスト)こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(1ヨハネ 2:2)

 「彼ら(ユダヤ人)の罪が世の富となり、彼ら(ユダヤ人)の失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼ら(ユダヤ人)が皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。」
 ここで罪と訳された言葉には「踏み外す」という意味があるそうです。そして失敗と訳された言葉は、減少・不足を表します。つまり、神の民イスラエルが全部イエス キリストを信じないで、わずかの者だけが信じているという現状を失敗と理解したようです。つまりここは、ユダヤ人が神の御心である救いの道を踏み外したこと、けれどそれが、世の富・世の益・世の救いとなり、ユダヤ人が皆救いに与ることに失敗したこと、それが異邦人の富となり、益となり、救いとなったというのは素晴らしいこと。そして神の救いの御業はまだ終わってはおらず、今もなお救いの御業は前進し、新たな神の民が起こされている、ということが言われているのです。
 ここでパウロは、救いの完成を仰ぎ見たのです。「まして彼ら(ユダヤ人)が皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。」実はこの文章「どんなにかすばらしいことでしょう」とは書いてないのです。原文は感嘆文のような形で「ましてや彼らの満ちることが」(田川健三訳)となっています。満ちるというのは、欠けていたもの、キリストを信じないで救いから外れていた者たちが救いへと導かれ神の民が満たされることを言っています。
 元々パウロは、キリストを受け入れず迫害者でした。その無理解、頑なささえも神はさらに大きな救いの御業のために用いられる。その救いの完成の幻をパウロは神から与えられたのです。神は「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働」いてくださるお方なのです(ローマ 8:28)。

 パウロは神に望みを置きます。神は自らの愚かさ・罪深さによって救いの道を踏み外した者をさえ諦めることなく、神の民を満たすまで救いの業をなしてくださるのです。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んで」いてくださいます(1テモテ 2:4)。わたしたちの救いの希望は、独り子をさえわたしたちに与えてくださる神の愛のただ中にあるのです。

 神に救いの幻を示されたパウロは、今、異邦人の使徒とされていることを心から受け入れます。「わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。」そして神が自分の働きを用いてくださり「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救」ってくださるようにと祈り願います。
 そしてさらにこう言います。「もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。」

 パウロは旧約に記された神の救いの歴史、イエス キリストの出来事、神が仰ぎ見させてくださった救いの完成を思います。ファラオを頑なにし、出エジプトにおいて、神が救いの神であることを証しされました。絶望の中にいたエリヤに七千人の神の民を残し、神の救いの御業は何者によっても妨げられないことを明らかにされました。イエス キリストが捨てられることにより、罪の赦しと永遠の命を現されました。そして神は救いの道を踏み外した者をさえ導いてご自身の民を満たされます。神は捨てることをさえを用いて世界の和解をなしてくださいます。神はすべての御業を救いのためになしていてくださるのです。捨てられた者が神に受け入れられることは、神が証ししてこられた「罪により死んでいた者が命へと導き入れられること」なのです。

 神は既に預言者エゼキエルに語っておられました。「主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。・・わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。」(エゼキエル 37:12~14)

 パウロは気づきます。神は自分が理解し尽くすことのできない大きなお方であり、その御心の内に救いがあることを。神はお造りになったすべての命を愛しておられる。すべての救いを願っていてくださる。不安も思い煩いもすべて神の御手に委ねて大丈夫なのです。神はそのすべてを受け止め、救いをなし、命をもたらしてくださるのです。

 教会に集うお一人おひとりが、自分の思いを超える神に出会い、すべてを包む救いに与る喜びと平安を得られますように。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたは、あなたを知ることのできないわたしたちに自らを啓示してくださいます。わたしたちはあなたの御言葉を聞きながらも、あなたを自分の理解の中に小さく閉じ込めてしまいます。どうか礼拝において、キリストの愛・キリストの救いの広さ、長さ、高さ、深さを知り、常に心新たにあなたと出会っていくことができるよう導いてください。どうかあなたが注いでくださる救いの恵みに満たされていくことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

聖句による黙想 12

2020-07-08 17:10:30 | 黙想
ヨハネの手紙 一 4章 19~21節(聖書協会共同訳)

私たちが愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。
「神を愛している」と言いながら、自分のきょうだいを憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える自分のきょうだいを愛さない者は、目に見えない神を愛することができないからです。
神を愛する者は、自分のきょうだいも愛すべきです。これが、私たちが神から受けた戒めです。

 
 聖書は「神は愛です」(1ヨハネ 4:16)と言う。その神にかたどって人は創造された(創世記 1:27)。だから人は生まれながらに愛すること、愛されることを求めている。しかし、罪のため「愛する」こと、「愛される」ことが歪んでしまった。だから、神に愛されていることを教えられねばならず、愛することを命じられなければならなくなった。神に愛され、神を愛し、神が愛しておられる人同士愛し合い、愛され合うのである。

 
ハレルヤ

ヨハネによる福音書 5:22〜25

2020-07-05 18:39:46 | 聖書
2020年7月5日(日) 主日礼拝  
聖書:ヨハネによる福音書 5:22〜25(新共同訳)


 イエスは、弟子たちだけでなく、自分を殺そうと狙っているユダヤ人たちにも語ります。
 イエスが安息日について「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(5:17)と言われたのを聞いて、自分を神と等しい者としているとしてユダヤ人たちはイエスを殺そうと狙うようになりました。
 イエスはその自分を殺そうとしているユダヤ人たちに対して、さらに自分が天の父と一つであることを語られます。
 前回のところでも「父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである」(5:19~20)と言われました。
 ヨハネによる福音書も、父なる神と御子イエス キリストが一つであることを証ししようとしています。福音書の冒頭から「言(イエス キリスト)は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」(1:1~2)と言い、「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1:18)と語っています。

 さてきょうの箇所ですが、イエスは「父は誰をも裁かず、裁きをすべて子に委ねておられる」と言われます。イエスは、裁きが父から御子に委ねられていることが語られます。

 まず裁きについて考えてみましょう。裁きという言葉は、元々「正しく判断する」という意味です。それが、裁判官が委ねられた事案について正しく判断し判決を下すというところから、通常の裁きの意味になっていきました。教会で用いられる場合も、神の御心に従って正しく判断するという意味で使われます。
 ただ「神が裁かれる」と言うと、滅びとほぼ同じ意味で理解されることがありますけれども、それは違います。滅びの道を歩むことを止められない罪に対して、本当に滅んでしまわないようにと神が止めてくださるのが裁きです。聖書において裁きだと理解されている出来事も、滅ぼし尽くすことはなさらず、救いの業は裁きを超えて続いていきます。裁きが目指すのは悔い改め、神へと立ち帰ることです。そして神の救いの御業は裁きで終わるのではありません。

 その裁きを示す、ヨハネによる福音書の示し方は多面的です。きょうの箇所で言えば、ユダヤ人にとって終わりの日に神が最後の審判をされることは当然のことでした。ですから、イエスが「父は誰をも裁かず」と言われたのは驚きだったと思います。けれど、きょうの少し後 5:30では「わたしは・・父から聞くままに裁く。・・わたしは自分の意思ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするから」ときょうの箇所とは矛盾するようなことを言われます。

 きょうは、きょうの箇所でイエスが言おうとしておられることを聞いていきたいと思います。
 イエスが言っておられるのは、父なる神は救いの業をイエスに委ねておられるということです。
 裁きということで言えば既に 3:18で「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」と記されています。イエス キリストご自身が救いそのものであり、イエスを信じないということは自ら救いの外に立つということです。
 先に裁きが目指すのは悔い改め、神へと立ち帰ることと申し上げましたが、ここでは「すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるため」と言われています。父なる神が御子イエス キリストに裁きを委ねられたのは、父なる神・子なる神イエスが共に敬われるためなのです。
 イエス キリストを知るとき、救いを知ります。父なる神の御心を知ります。イエス キリストを信じて救いに入れられるとき、救いを喜び、イエスに感謝し、イエスを遣わされた父なる神に感謝します。イエス キリストこそ活ける神の言葉です。神は「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られ」(ヘブライ 1:2)ているのです。イエス キリストこそ裁きであり、救いです。

 イエスは24, 25節で「はっきり言っておく」と繰り返し言って救いの真実を明らかにされます。「はっきり」と訳されたのは「アーメン、アーメン」という言葉です。「アーメン」は「真実に」という意味で、「はっきり言っておく」は「真実に告げよう」という意味です。

 「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」
 神が救いのために遣わされたイエス キリストを信じ受け入れる人は、罪がもたらす死から救い出され、永遠の命へと入れられます。
 命は自分で獲得するものではなく、与えられるものです。自分の命であっても、命は自分で自由にできる所有物ではありません。命は、神が与えてくださった恵みです。そして永遠の命は、イエス キリストを信じることを通して与えられるのです。イエスの言葉を信じ受け入れることは、イエスを遣わされた命の造り主である神を信じ受け入れることです。
 「裁かれることなく」というのは、イエスを信じることは神から間違いだと正されることのない神の御心であることを示しています。イエスは、自分が裁きと永遠の命を託され、神から遣わされた救い主であることを明らかにされました。

 神は「生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない」(ルツ 2:20)お方です。そして「キリストは、肉では死に渡されましたが・・霊において・・捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教」(1ペトロ 3:18~19)してくださるお方です。母の胎に宿り、人となってこの世に来られ、十字架の死の後、陰府にまでくだり、人の誕生から死、そして死後までそのすべてに救い主として来てくださいました。だから人生のどこででもイエス キリストと出会うことができるのです。
 そしてイエス キリストお一人だけがこう言うことができるのです。「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」
 神の救いの御業は、死ですら妨げることはできません。「見失った一匹を見つけ出すまで捜し」てくださる方は(ルカ 15:4)、死ですらも超えて命の言葉を語りかけてくださいます。無から命を造り出される神の言葉、死者を復活させる命の言葉が語られるのです。今、語られているのです。神と共に生きる命へと招く言葉が今、語りかけられているのです。


ハレルヤ


父なる神さま
 あなたはわたしたちを救うために、救い主イエス キリストに裁きを委ねてくださいました。イエス キリストの言葉に救いがあり、裁きがあることを今聞きました。イエス キリストと出会うため、あなたは主の日ごとに礼拝へと招いてくださいます。今あなたが差し出していてくださる永遠の命に与り、あなたと共に歩むことができますように。どうか救いの道を歩む喜びを味わうことができますように。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン

聖句による黙想 11

2020-07-04 16:28:55 | 黙想
ヨハネの黙示録 14章 6, 7節(聖書協会共同訳)


また私は、もう一人の天使が空高く飛ぶのを見た。
この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、部族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携え、大声で言った。
「神を畏れ、神に栄光を帰しなさい。神の裁きの時が来た。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝せよ。」
 

 天使がすべての人に伝えた永遠の福音は、礼拝の勧めであった。福音は「よい知らせ」である。神を礼拝することは、すべての人にとって「よい知らせ」である。既に礼拝している人は、永遠の福音に与っていることを思い巡らしてほしい。


ハレルヤ