泉心堂治療院

せんしんどうちりょういん

人と人間と無用の用:道の医学番外編

2020年07月08日 | Weblog

新型コロナウイルスの流行により、

私たちの生活スタイルは変革を余儀なくされています。

特に人と人が直接集うこと、対面することに制限がかけられてしまいました。

リモートワーク、オンライン授業、オンライン会議、オンライン飲み会、オンライン配信など、

インターネットを通じた仕事、勉強、会合や余暇、イベント参加などの機会が増えました。

 

ところで、日本語においては基本的に

「人」という言葉は生物学的な「ヒト」

または一個体として人格的な面を抑えた意味合いで用いられることが多く、

「人間」という言葉は社会的・人格的な意味合いを含めて用いられています。

 

「人間」は元々は仏教用語で、

世の中(世間)や人の世界(人間界)という意味合いで用いられてきた言葉です。

ちなみに中国語では「人間」と言えば後者の意味で、

前者の意味としては「人」が用いられます。

 

「三人寄れば文殊の知恵」という言葉のように、

人間は古来より「集う」ことによって発展を続けてきたという側面があります。

人と人がつながって「人間」となっていたのです。

つまり、「人間」とは多くの「人」による「無用の用」といえるのかもしれません。

 

そして今年になり、そのつながり方に大きな変革が訪れました。

インターネットという世界の中でのつながりです。

このつながりは、「人」から生み出された「間」の世界、

つまり現代の「無用の用」といえるでしょう。

 

しかしながら、「人間」から「人」と「間」が分離され、

「人」が置き去りにされてしまうことには注意しなければなりません。

「人間」から「人」が欠落すれば、今度は「間」との主客逆転、

「人」が「間」にとっての「無用の用」になってしまいます。

仮に「間」の世界の崩壊すれば「人」の存在が消えてしまいます。

 

「間」はあくまで「人」が発展したり、幸せになったりするための存在なのです。

私は決してネット社会を全否定しているわけではありません。

しかし、便利になったはずなのに、

たった数カ月も経たずに「オンライン疲れ」という言葉まで出てくる状況です。

我々はまず「人」であるという事実を無視することはできません。

新型コロナ対策も「人」、すなわち命を守るためのことなのですから・・・