写楽は、寛永6年(1794年)5月に役者絵約30点を引っさげて彗星のごとくデビューし、翌年正月に突如として浮世絵界から消えた謎の絵師です。現在のところ、その前に写楽が描いた絵も、その後に描いた絵も見つかっていません。何年か前にギリシャで写楽の名前のある肉筆の扇絵が出て来たことがありますが、ホンモノの可能性が高いというだけで、実のところは分からないようです。
写楽という絵師が実際浮世絵を描いていた期間は、約10ヶ月、もしかすると半年ほどではなかったかと言われています。もちろん、写楽とは別の名(たとえば本名、あるいは他の雅号)でこの絵師が、その前にも絵を描いていたことは確かでしょうし、その後にも絵を描いていたかもしれません。絵の修業時代もなく、急にああいう独特な絵が描けるわけがありません。また、若い頃描いていたのは浮世絵ではなかったような気もします。写楽の名で浮世絵を発表しなくなってからは、絵を描くのをやめてしまった可能性もあります。
ほぼ確実なことは、東洲斎写楽(前期に使っていた)あるいは写楽(後期に使った)の名でこの人物が浮世絵(ほとんどが役者絵)を描いていた期間は、1年満たないということです。そして、彼が描いたとされ、現在見つかっている絵の種類(版画なので同じ絵が何枚かあります)は約140点です。東洲斎写楽または写楽の名で公表された絵は、実際にはもっと多かったと思われますし、版画の浮世絵以外の絵、たとえば肉筆画や本の挿絵などもあったかもしれません。絶対になかったとは誰も断言できないわけです。
また、写楽の名があって現存する浮世絵のすべてが同一人物によって描かれたものかどうかも分かりません。後期の絵の多くは、別の人物が描いたのではないかと疑問視する専門家もいます。
なにしろ、写楽という人物は謎だらけの絵師で、写楽はいったい誰で、どういう人だったのかについても、実はまだ確定していない。「写楽=能役者斎藤十郎兵衛」説に関しては、これから書いていくつもりですが、現在の段階では絶対にそうだと言い切れないと思います。
ここで、前回に書いたことの補足をしておきましょう。写楽の描いた女形役者の絵はいいのか悪いのかという問題です。評判が良かったのか悪かったのかと言えば、悪かったのだと思います。当時、若手の女形役者に松本米三郎(よねさぶろう)という人がいて、この役者は大変美しい女形だったらしく、20歳代で人気を集め、一座の花形にまで昇りつめた人だったのですが、惜しくも32歳で亡くなってしまいました。
まず、写楽の描いた松本米三郎の絵を掲げ、これと後輩の歌川国政が描いた米三郎の絵とを比較してみようと思います。
東洲斎写楽 「松本米三郎のけはい坂の少将実はしのぶ」(ボストン美術館所蔵)
これは、寛政6年5月、桐座で上演された「敵討乗合話」の役で、米三郎が21歳の頃の似顔絵です。みずみずしさもないし、美しいとも感じません。左手も小さすぎて、不自然です。こういう絵では、ファンも贔屓筋も喜ばなかったにちがいありません。
歌川国政 「松本米三郎の不破初左衛門の娘」(ボストン美術館所蔵)
こちらは、写楽の絵の2年後に国政が描いた米三郎の似顔絵です。いかにも若女形といった感じで描かれています。私は、国政の絵の方がずっと良いと思います。こういう絵なら、ファンも喜んだにちがいありませんし、本人も納得がいったでしょう。
私が愛読している作家の永井荷風は、明治期後半に浮世絵をたくさん買い集め、浮世絵に魅せられていた数少ない作家の一人ですが、写楽の描いた女形の絵について「奇中の奇、傑作中の傑作」だと絶賛しています。荷風の「江戸芸術論」所収の「浮世絵と江戸演劇」(大正3年)から引用しますと、
「岩井半四郎、松本米三郎の如き肖像を見れば余は直ちに劇場の楽屋において目のあたり男子の女子に扮したる容貌を連想す。濃く塗りたる白粉のために男にもあらず女にもあらぬ一種の怪異なる感情は遺憾なく実写せられたり。この極端なる画風は俳優を理想的の美貌と定めたる伝来の感情に抵触する事甚だしきがためこの稀有なる美術家をして遂に不評のために筆を捨つるをやむなきに至らしめき」
荷風は、写楽があえて女形役者を美しく描かなかったことを評価しているわけです。そして、そのために不評を買い、写楽は絵を描くことを断念したにちがいないと言っています。
写楽という人物は、世評など構わずに、自分の描きたいように絵を描いた、反骨精神ある、我の強い、自分の信念に忠実な画家だった、と私は思います。似たような性格の荷風が写楽に共感を覚えたのも分かるような気がします。
写楽という絵師が実際浮世絵を描いていた期間は、約10ヶ月、もしかすると半年ほどではなかったかと言われています。もちろん、写楽とは別の名(たとえば本名、あるいは他の雅号)でこの絵師が、その前にも絵を描いていたことは確かでしょうし、その後にも絵を描いていたかもしれません。絵の修業時代もなく、急にああいう独特な絵が描けるわけがありません。また、若い頃描いていたのは浮世絵ではなかったような気もします。写楽の名で浮世絵を発表しなくなってからは、絵を描くのをやめてしまった可能性もあります。
ほぼ確実なことは、東洲斎写楽(前期に使っていた)あるいは写楽(後期に使った)の名でこの人物が浮世絵(ほとんどが役者絵)を描いていた期間は、1年満たないということです。そして、彼が描いたとされ、現在見つかっている絵の種類(版画なので同じ絵が何枚かあります)は約140点です。東洲斎写楽または写楽の名で公表された絵は、実際にはもっと多かったと思われますし、版画の浮世絵以外の絵、たとえば肉筆画や本の挿絵などもあったかもしれません。絶対になかったとは誰も断言できないわけです。
また、写楽の名があって現存する浮世絵のすべてが同一人物によって描かれたものかどうかも分かりません。後期の絵の多くは、別の人物が描いたのではないかと疑問視する専門家もいます。
なにしろ、写楽という人物は謎だらけの絵師で、写楽はいったい誰で、どういう人だったのかについても、実はまだ確定していない。「写楽=能役者斎藤十郎兵衛」説に関しては、これから書いていくつもりですが、現在の段階では絶対にそうだと言い切れないと思います。
ここで、前回に書いたことの補足をしておきましょう。写楽の描いた女形役者の絵はいいのか悪いのかという問題です。評判が良かったのか悪かったのかと言えば、悪かったのだと思います。当時、若手の女形役者に松本米三郎(よねさぶろう)という人がいて、この役者は大変美しい女形だったらしく、20歳代で人気を集め、一座の花形にまで昇りつめた人だったのですが、惜しくも32歳で亡くなってしまいました。
まず、写楽の描いた松本米三郎の絵を掲げ、これと後輩の歌川国政が描いた米三郎の絵とを比較してみようと思います。
東洲斎写楽 「松本米三郎のけはい坂の少将実はしのぶ」(ボストン美術館所蔵)
これは、寛政6年5月、桐座で上演された「敵討乗合話」の役で、米三郎が21歳の頃の似顔絵です。みずみずしさもないし、美しいとも感じません。左手も小さすぎて、不自然です。こういう絵では、ファンも贔屓筋も喜ばなかったにちがいありません。
歌川国政 「松本米三郎の不破初左衛門の娘」(ボストン美術館所蔵)
こちらは、写楽の絵の2年後に国政が描いた米三郎の似顔絵です。いかにも若女形といった感じで描かれています。私は、国政の絵の方がずっと良いと思います。こういう絵なら、ファンも喜んだにちがいありませんし、本人も納得がいったでしょう。
私が愛読している作家の永井荷風は、明治期後半に浮世絵をたくさん買い集め、浮世絵に魅せられていた数少ない作家の一人ですが、写楽の描いた女形の絵について「奇中の奇、傑作中の傑作」だと絶賛しています。荷風の「江戸芸術論」所収の「浮世絵と江戸演劇」(大正3年)から引用しますと、
「岩井半四郎、松本米三郎の如き肖像を見れば余は直ちに劇場の楽屋において目のあたり男子の女子に扮したる容貌を連想す。濃く塗りたる白粉のために男にもあらず女にもあらぬ一種の怪異なる感情は遺憾なく実写せられたり。この極端なる画風は俳優を理想的の美貌と定めたる伝来の感情に抵触する事甚だしきがためこの稀有なる美術家をして遂に不評のために筆を捨つるをやむなきに至らしめき」
荷風は、写楽があえて女形役者を美しく描かなかったことを評価しているわけです。そして、そのために不評を買い、写楽は絵を描くことを断念したにちがいないと言っています。
写楽という人物は、世評など構わずに、自分の描きたいように絵を描いた、反骨精神ある、我の強い、自分の信念に忠実な画家だった、と私は思います。似たような性格の荷風が写楽に共感を覚えたのも分かるような気がします。
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