いくら口でうまいことを言っても、行いがついてこないとその人の信仰を信じる人は少ないだろう。
しかし、逆にその行いが素晴らしいものであれば、何も多くを語らずとも、その人の信仰に興味を持つ人が多くなるだろう。
この「塩狩峠」の主人公信夫のモデルは長野正雄氏であり、実際に長野氏は自らの命を犠牲にし、多くの人を助けた。
長野氏は連結が離れてしまった列車を止めようとハンドブレーキを操作したが速度を遅くすることが出来たが完全に止めることが出来ず、そのままでは急カーブに入り、再び暴走すれば転覆してしまうと考え、自ら列車の下敷きになり、列車を止めたのであった。
このようなことが可能であるのか、このように自らの命を捨てて他人を助けることがほんとうに出来るのだろうか、私には到底出来ないと言わざるを得ない、いや、信者であれ、多くの人たちはこのようなことは出来ないだろう。
長野氏はまさにフランチェスコの平和の祈りのように生きたように思われる。
「主よ、わたしをあなたの平和の道具としてください。憎しみのある所に、愛を置かせてください。侮辱のある所に、許しを置かせてください。分裂のある所に、和合を置かせてください。誤りのある所に、真実を置かせてください。疑いのある所に、信頼を置かせてください。絶望のある所に、希望を置かせてください。闇のある所に、あなたの光を置かせてください。悲しみのある所に、喜びを置かせてください。
主よ、慰められるよりも慰め、理解されるより理解し、愛されるよりも愛することを求めさせてください。
なぜならば、与えることで人は受け取り、忘れられることで人は見出し、許すことで人は許され、死ぬことで人は永遠の命に復活するからです」
長野氏はプロテスタントであり、上記はカトリックの聖フランチェスコの祈りである、宗派の違いはあるが同じキリスト教徒である。
ちなみにマザーもこの祈りが大好きであった、ノーベル平和賞の時や何かの会議の時に最初にこの祈りを祈った。
今もなお、世界中のマザーテレサの修道会の朝のミサの後には祈られている。
最後にもう一度長野氏はどのように列車に飛び込んだのかを考えてみたい。
私は長野氏は無意識だったのではないかと思えてならない、無意識と言う言葉がしっくりこないのであれば、それはその時、その瞬間、まったく自分と言うものが無くなっていたのではないだろうか。
それは神との一致と言っても良いのではないだろうか。
フランクルの言葉。
「愛する時、私は自分を忘れます。祈る時、自分のことなど眼中にありません。そして死ぬ時、同じようなことが起こるのです」