カルカッタより愛を込めて・・・。

今月のアピア40のライブは3月21日(金)です。また生配信があるので良かったら見てください。

山谷のこと。2006年。

2019-08-06 12:03:35 | Weblog

 今でも私は彼らから教わっている、彼らが私の師であると思っている。

 
 「有り難いこと」
 
 昨日の山谷MCのカレーの炊き出し。
 
 春先になると人が増え550人ぐらい人が来た。それでも、70人ぐらいカレーが足りず、お腹を空かせたまま帰って行った。自分達は隅田川で配っている。みんな遠くから老いたカラダ不自由なカラダを空腹のままに動かし来てくれる。
 
 カレーが足らない時はいつもほんとうに苦しくなる、ずっと謝り続ける。善意が憎しみに変わる瞬間をまざまざと観るからである。
 
 謝ったところで彼らの空腹はどうにもならない、しかし、謝るしかない、恨みの愚痴も怒りも出来たら話し合えたらと思い、丁寧に彼らと会話をする。
 
 昨日は一人の優しい男に会った。彼はもう10年山谷にいる。彼とは良く話す間柄だ。
 
 彼はカレーをもらえないことを笑顔で「良いから、大丈夫だから」と笑いながら帰って行った。 彼の帰る後姿をずっと追ってみた。ペットボトルに入れた水を空腹を誤魔化すように呑んでいた。落胆に満ち空腹なのは一目瞭然だった…。
 
 炊き出しを終え、帰り道、また彼を見かけた。
 
 彼は普段から紳士であり、山谷でプロテンスタントの洗礼も受け、宗教心があり感謝の心を持つ者だ。
 
 その時、彼が歩きながら何を見ているかと言えば、落ちているゴミから何か食べるものはないかと探していた。
 
 潰れた小さな日本酒のパックも手を延ばそうとしていたその時に私は声をかけた。
 
 無意識かもだったかもしれない、私は彼がそのパックを手にするのを見たくなったのかもしれない。
 
 私は彼の肩を抱き、背中をさすり、また謝った……。

 彼は「糖尿だし、{酒は}医者にも止められているから」笑って答えてたが……。
 
 その時、私は自分の内側にある罪悪感を感じていた。
 
 ないものはない、ないものは与えることはできない。がしかし、謝ってばかりの私、そのままにしてられないのは自分自身の嫌らしさのように思えてしまう。彼をそっとさせてあげることの出来ない勇気のなさかもしれないとも思った。
 
 判っていることは愚かな私はいつでも簡単に過ちを犯してしまう。
 
 私には自分を罪人にして罪を逃れようとする罪を感じていることの意味、相手を傷付けていることを感じる勇気と繊細さ、矛盾を受け入れ続ける揺るぎ無い努力とほんとうの意味での正直さ、その責任を感じながらも私自身を見失わず、安心感を持つこと、そして、強い偏りのないバランスのとれた精神が必要になる。
 
 その必要性はいつも彼らが教えてくれている。有り難いことである。

コメント
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