2003年は私が山谷に行き始めて8年目である。
あの頃の山谷と今の山谷はかなり違うが、その過程で私はどう変わって行ったのだろうと考えたりする。
私は私を深められたのだろうか。
だが、私は未だ生意気で驕りに包まれやすい、それをいつも忘れずにいたいと思わざるを得ない。
「光り伝わる」
カレーを配る白髭橋まで歩くことを私は大切にしている。このわずかな時に彼らの歩く道を同じように歩く、彼らの姿をこの胸に刻みながら、祈るようにして歩く。
最近は彼らからも声をかけられるようになってきた。嬉しい限りだ。それでも、私は自身に驕りが生まれないよう祈りながら、彼らと会話をする。
背中丸め、足元しか見えないような姿で歩く人、姿孤独の人に微笑み声をかける。彼らのうちにある笑顔を引き出し、見ることが何よりの喜びである。
その日もそうして隅田川に架かる白髭橋まで向かっていた。真冬の寒さの中、叔父さん達に会えば、決まって、「今日は寒いねぇ・・・、元気にしている」と声をかけながら歩いていた。
橋の近くまで行くと、電話ボックスのなかに一人の叔父さんがうなだれるように寝ていた。
「大丈夫?・・・大丈夫?叔父さん、カレーを食べに来ない?すぐそこの橋の下でこれから配るからね。どうかな、立てる?ちゃんと歩ける?」そう聞くと、かすれた声で、「あぁー、食べるよ」と言いながら、どうにかよろめきながらだが立ち上がることが出来た。
彼の右手の指は三本しかなかった。その三本もしっかりと動くようではなく、伸びる指は一本、あとは丸くなっていた。多分、火傷だろうと思う、焼け焦げ残った棒のように腕から固まっていた。その腕を杖のようにして、何度と立ち上がったのだろう。地面に付ける部分は血でにじんでいて、左手もグローブのよう貼れ上がり、あかぎれで血がにじんでいた。
どうにかふらふらと橋を超えて来てくれたはいいが、階段を上がることが出来ずに倒れてしまい、私が支え、彼は右手を杖代わりにしてやっと5段ぐらいの階段を上がって来れた。これ以上、彼には階段の登り降りは出来ないようだった。
「陽のあたる場所で座って待ってて、カレー、もう少し経ったら自分が持ってくるからさ」そう言うと、彼は「しょんべんするから」と答え、後ろを向いた。
その間、近くにいた叔父さんと、私は話していた。彼の背を見ながら、その叔父さんはこう話した。
「俺なんかはどうにか、テントがあるから、生きていけるけど、なんにも持ってなきゃ、この寒さのなかほんとうにキツイ・・・」そう彼は何一つ持ってはいなかった。
彼はしっかりと排尿することが出来なかった。上手く手も指も動かせなかったのだろう。ズボンをびしょびしょにしてた。
背中丸まった年老いたその後姿を前に、もう、私の胸は引き裂かれんばかりに痛んだ。同じ人間です、どうして・・・?世の中は彼に死ねと言うのか?生きる資格のない人なんかいるのか?何がこのような人を生むのか?やはり無関心がゆえか?私は見よう、心を閉ざさず、開き、愛を持って見よう、見付けよう。空を仰ぎ見、誓った。
陽のあたる場所で彼を座らせ待っててもらい、カレーを私が運び、彼に与えた。暖かいお茶とおしるこも買って来て与えた。
すべての仕事が終わり、山友会{無料のクリニック}に行ってズボンとパンツをもらい、彼に与えた。MC{マザーテレサの修道会の略}に帰って来てから、モーフをまた渡しに行った。その途中、私に一人の叔父さんが話しかけた。
「どう、彼は大丈夫?」私が話していた叔父さんのことを彼も心配していた。嬉しかった。なぜなら、愛が一つ、光れば、その周りにも光り伝わる。私はそう信じていたからである。誰もが持つ、愛を引き出したい、厳しい毎日のなか、忘れ去られようとした愛を引き出したい。それには言葉だけでは足りない。何年という時間も必要かも知れない、この街にいる人達への理解、それに愛ある表情と自身の落着きをもった心も必要である。神様じゃない限り、一度の出会いで愛を上手く伝えることはとても難しいことであろう。
MCからモーフを持って行ったときに、彼の座っているすぐそばにテントで暮らしていた叔父さんに「もし彼がダメそうだったら救急車を呼んでほしい」と頼んだ。その叔父さんは彼がしょんべんをしていたときに話しをしていた人である。彼自身も心配してくれていた。
誰もが年老いた汚く貧しい人が死んでいく姿を見たくはない。それはあまりにも残酷であり、悲し過ぎるものであるから、もし目の前にしたら、誰もがこう思う。「もう少し何かが出来なかったのか?悲しい、可哀想に・・・」 それゆえ、炊き出しに大切な意味があると思う。山谷にいる人は何度となく悲しい死を知っている。そして、死を感じ知っているからこそ深く優しい。
MCに帰ってきてから、今MCにいる日本人の人にも夕方に食べ物を持って見てきて欲しい頼んでから山谷を放れた。
私は自分がしてきたことに満足などはしない、もし、自分がしてきたことに安易に満足してしまえば、それ以上、何一つ成長し得ないからである。まだまだ、何かある、何かが出来る、そう求め続ける。そして、人の愛を信じる、裏切られたとしても信じる、信じたい。祈るが如く何度でも、この胸に言い聞かせる。
片腕を杖のようにしていた叔父さんは、昨日の夜から電話ボックスで寝てたいたらしい。彼は「もう昨日はダメかと思った」と話した。何日も食べていなかったと話した。「身も知らずの人にこんなにしてもらうなんてありがとう」と笑顔を見せた。私がもし声をかけなければ、彼は次ぎの日には亡くなっていたかも知れない。
私こそ、あなたに出会えて嬉しかった、この上ない喜びを私は得た。「ありがとう」と思うのは私自身だ。あなたにどうにかして生きて欲しいから、そして、生きることを諦めないでほしいから、あなたの笑顔を見るためにこの私はありたい。
次ぎの週、彼のことがどうしても心配だったので、彼がいた近くのテントに住んでいる叔父さんを探した。
「彼がどうしてもダメそうだったら、救急車を呼んでほしい」と頼んでいたからである。
私がいつもようにカレーをもらうため、並んでいる叔父さん達に挨拶していると、その叔父さんが私を見つけ近づいて来てくれた。
彼はわざわざ私を探していてくれたのだった。「彼のことを教えたかったんだよ」と倒れていた叔父さんのことを話してくれた。
その叔父さんいわく、「日が落ちても動かないようだったら救急車を呼ぼうと思っていたんだけど、それでも、あなたがモーフを彼にあげに来てくれてから、一時間ぐらいあとに争議団の人がたまたまビラを配りに来て、倒れている彼を見て、何かおかしいと言うんで救急車を呼んでくれたんだ」
「最初は白髭病院で点滴を二、三本打たれて出されると言うことだったんだけど、それじゃ、また出されても、どうにもならないって困っていたらしいけど、結局、脳梗塞の疑いがあって中村病院に入院したらしいんだよ」
「ありがとう、教えてくれてさ、ほんとうにありがとう。良かったね、入院が出来て、これで彼が元気になれば、福祉も受けることが出来るようになるだろう。でも、結局は死ぬ間際まで救急車を呼べないという現実があるね・・・」 二人、どうしようもない現実に胸が一杯になり、何かを吐き出すよう、無言で光り照らされた隅田川をほんの少し眺めた。それから、再度、叔父さんに礼を言って別れた。
誰かがいるということ私は信じている。その人に必要な誰が目の前に現われると信じている。それは偶然でない、必然として必ず現われる。どんなに苦しいときにもいかなる時もそうあると、あなたに語っていきたい。嘘だと思うかも知れない、何の根拠もないかも知れない、だけど、私はたとえ死が待っていようとも・・・、その最後の時まで、「大丈夫だよ、あなたは大丈夫だよ、あなたは愛されている」 そう語りたい。何も信じることが出来ないより、何かを限りなく信じていてほしい、あなたに必要な人が必ず現われる。そう信じていてほしい。