私は私に問いかけることがある。
「お前はほんとうに頑張っているのか?もっと頑張れるのではないのか?」と。
これはありのままの私を受け容れられないと言うことではなく、ありのままの私を可能な限り受け容れた上でもう少し頑張れるだろうと、私が私に期待する心の声である。
私は私を内省し、私の内の不十分さを認めずにはいられない。
だが、私は私に期待する。
「もう少し微笑め」と。
「落し物」
昨日、隅田川の河原でカレーを配り終わり、おじさんたちが並んだ後の掃除をしていた時、ビニール袋に入った汚れた小さなアルバムを見つけた。
私は何気なく、そのアルバムを開いてみた。
その中にはなんと、多分、このアルバムの持ち主である家族の写真があった。
白黒とカラーの写真で小さな子供と奥さんの写真、子供の幼稚園の学芸会の写真、どこかの公園でとった子供の写真、顔をペンで黒く塗りつぶしてある写真、その多くは子供と奥さんの写真であった。
私の身体が急に固まり、どうしようもない切なさに包まれた。
山谷にいると言うことはいろんな事情があるだろう。
この街に来る人には、罪を犯し、家に帰れなくなった人や借金を作り、帰れなくなった人、重い病気になり家に迷惑をかけたくないために死に来る人、心が自分のした事に対して絶えられなくなった人、他人との関わりに疲れ果てた人、そして心を閉じた人、本当に様々だろう。
私はその写真を見ていて、この人はどんなに家に帰りたかったんだろうか、と痛切に感じた。
何百回、このアルバムを開いたのだろうか、辛い時に何度、この写真に励まされただろうか、何度泣きながら、このアルバムを開いたのだろうか、死のうとした時もあっただろう、しかし、このアルバムがやさしく何度々なく微笑んだのだろう。
このアルバムが生きる糧となり、生きる力となり、勇気になり、どうしようもないほどの切なさにもなっただろう。
汚れた小さなアルバムから凝縮された想い出がいろんな声とともが飛び出した来た。
その人の人生の厳しさや空しさが私に真正面から体当たりしてきたようだった。
「いつか、どうにかなる」、そんな気休めの言葉は悲しく、どっかに飛んで行った。
私に出来ることは・・・、私がしていることは・・・、彼らの何なるんだろうか?
もっともっとしっかりと愛を持たなくてはいけない。
限られた時間の中でもしっかりと彼らの心を見なくてはいけない。
私は自分にそう言い聞かせた。
彼らはほんとうに傷付き、孤独の中、空腹のうちに健気に生きている。
時に生きる事は辛く悲しいものであるかも知れない、しかし、どうにかして生きてください。
あなたを思う人が必ずいます。
遠く離れていても、一生会えなくても必ずいます。
きれい事を言って片付け、慰めるような事はしたくはないけれど、どうにか生きてください、そう願い祈り、そのアルバムを私は閉じた。
あなたの愛した証はこの世の中に確かにいますから。