■「結局、根本的な問題は所得保障だ」と、ひとはいう。しかし・・・
所得保障を議論しなければならないことが、時々ある。
とても根源的なことのはずだけれど、実際は、「時々」である。
特に、以下の4つの話題に関わって思い起こされる。
1 介護が有償であること。有償になってはじめて介護が成立したこと。
2 自立支援法の廃止にともない、応益負担を応能負担に戻すこと。
3 障害者の雇用を論じること。
4 現在、最低賃金での生活と、障害者年金での生活は共に生活保護の所得水準を下回ること。
■所得保障としての生活保護の限界
所得保障とは、憲法で保障されているはずの、社会的生存権の具体的な形だ。
そして、現状で機能している所得保障は、生活保護だ。
それ以外の給付制度は、生活保護の水準に届かない。
そして、生活保護の受給の門は狭い。
それはたぶん、生活保護というものは、社会がいろいろなものを押しつけている家族というものが、どうしても引き受け手にならないことが絶対に明らかな場合に、極めて例外的に発動する救済手段だからだと思われる。
■最もラジカルな所得保障政策=「ベーシックインカム」
そんなわけで、所得保障はどうあるべきかを議論するときに、今、重要な戦略として注目すべきものとして、ベーシックインカムがあると考えている。
ところが、最近障害福祉関係者同士で議論したとき、誰もベーシックインカムって聞いたことがないという。
障害福祉に関心をもつ者で、所得保障について考えないことはありえないし、所得保障について考えるときにベーシックインカムの議論を知らないこともどうかと思うので、僕がくわしいってわけでもないけれど、ちょっと紹介しておこうと思う。
Wikipediaによれば、
ベーシックインカム(basic income)とは最低限所得保障の一種で、政府が全ての国民に対して毎月最低限の生活を送るのに必要とされている額の現金を無条件で支給するという構想。すくなくとも18世紀末に社会思想家のトマス・ペインが主張していたとされ、1970年代のヨーロッパで議論がはじまっており、近年になってから日本でも話題に上るようになっている。
日本では、2009年に行われた第45回衆議院議員総選挙において新党日本がマニフェストに掲げるなど広がりをみせている。
■ヴェルナーのベーシックインカム論
僕は2006年に現代書館から出ている、ドイツ人のゲッツ・W・ヴェルナーという人の著したものを読んでいる。「デーエム」というドラッグストアチェーンの経営者である彼の論はとてもユニークだ。
彼の論点には2つの特徴がある。
1 現在、経済の生産性は労働の需要を大きく上回っているので、完全雇用は不可能である。生産性向上による失業という見かけ上のディレンマから抜け出す道は、労働と所得を切り離すことによってのみ可能になる。
2 ベーシックインカムの財源はすべて消費税でまかなえる。消費税以外の税を全廃する。
このように、ヴェルナーのベーシックインカム論は非常にラディカルだ。所得保障を考えるとき、一度は読んでみて損はないと思う。
■ベーシックインカムに対して否定的見解が大勢を占める現状
以上のように、OpenSessionの原稿として書いたのだが、当番組のパートナーである中村も、消化不良を起こしてしまった。
ネット上で検索した範囲でも、ベーシックインカムに肯定的な見解はあまりない。そのほとんどが、「みんなに生活可能な給付をしたら、誰も働かなくなってしまう」というもののようだ。これは死刑を廃止したら凶悪犯罪への抑止ができないという、死刑廃止に反対する論理に近いものがあると思う。証明できない根拠だが、その人たちにとってゆるがせない確信になっているもの。だから、その先の話に入っていけない。
中村君との話では、順序は逆になり、2の所得税、法人税を全廃して消費税でベーシックインカムを給付するという話に先に食いついてしまう。でも実際には、給付の財源の話の前に、先の「みんなに生活可能な給付をしたら、誰も働かなくなってしまう」という否定的直感が先にあるのだ。だが、現実には、世界各国で完全雇用が不可能になり、常に失業率が問題になり、賃労働による生活を前提にする社会観が実態に合わなくなってきているという問題意識が共有されていない。
その意味では、僕がやむなくアリバイ的に関わっている、労働組合の世界観を筆頭にした、「働かざるもの食うべからず」の労働至上主義的な世界観を問題にしなければならない。こんなことを言えば、必ず「働きたくないから、働かないことを合理化する理屈を求めているのだ」と見られてしまうが、もう何をかいわんや、である。
■まず「労働」至上主義を疑うこと
重要な反論として、1880年にポール・ラファルグが著わした「怠ける権利」を挙げたい。標題をもって誤解されがちな書だが、フランスの2月革命で労働者が掲げた要求である「1848年の労働の権利」への反駁書として書いたというこの小論は、130年の時を経てなお、現在に引き継がれる問題提起をしていると思う。ここからの話は次回にゆずる。
所得保障を議論しなければならないことが、時々ある。
とても根源的なことのはずだけれど、実際は、「時々」である。
特に、以下の4つの話題に関わって思い起こされる。
1 介護が有償であること。有償になってはじめて介護が成立したこと。
2 自立支援法の廃止にともない、応益負担を応能負担に戻すこと。
3 障害者の雇用を論じること。
4 現在、最低賃金での生活と、障害者年金での生活は共に生活保護の所得水準を下回ること。
■所得保障としての生活保護の限界
所得保障とは、憲法で保障されているはずの、社会的生存権の具体的な形だ。
そして、現状で機能している所得保障は、生活保護だ。
それ以外の給付制度は、生活保護の水準に届かない。
そして、生活保護の受給の門は狭い。
それはたぶん、生活保護というものは、社会がいろいろなものを押しつけている家族というものが、どうしても引き受け手にならないことが絶対に明らかな場合に、極めて例外的に発動する救済手段だからだと思われる。
■最もラジカルな所得保障政策=「ベーシックインカム」
そんなわけで、所得保障はどうあるべきかを議論するときに、今、重要な戦略として注目すべきものとして、ベーシックインカムがあると考えている。
ところが、最近障害福祉関係者同士で議論したとき、誰もベーシックインカムって聞いたことがないという。
障害福祉に関心をもつ者で、所得保障について考えないことはありえないし、所得保障について考えるときにベーシックインカムの議論を知らないこともどうかと思うので、僕がくわしいってわけでもないけれど、ちょっと紹介しておこうと思う。
Wikipediaによれば、
ベーシックインカム(basic income)とは最低限所得保障の一種で、政府が全ての国民に対して毎月最低限の生活を送るのに必要とされている額の現金を無条件で支給するという構想。すくなくとも18世紀末に社会思想家のトマス・ペインが主張していたとされ、1970年代のヨーロッパで議論がはじまっており、近年になってから日本でも話題に上るようになっている。
日本では、2009年に行われた第45回衆議院議員総選挙において新党日本がマニフェストに掲げるなど広がりをみせている。
■ヴェルナーのベーシックインカム論
僕は2006年に現代書館から出ている、ドイツ人のゲッツ・W・ヴェルナーという人の著したものを読んでいる。「デーエム」というドラッグストアチェーンの経営者である彼の論はとてもユニークだ。
彼の論点には2つの特徴がある。
1 現在、経済の生産性は労働の需要を大きく上回っているので、完全雇用は不可能である。生産性向上による失業という見かけ上のディレンマから抜け出す道は、労働と所得を切り離すことによってのみ可能になる。
2 ベーシックインカムの財源はすべて消費税でまかなえる。消費税以外の税を全廃する。
このように、ヴェルナーのベーシックインカム論は非常にラディカルだ。所得保障を考えるとき、一度は読んでみて損はないと思う。
■ベーシックインカムに対して否定的見解が大勢を占める現状
以上のように、OpenSessionの原稿として書いたのだが、当番組のパートナーである中村も、消化不良を起こしてしまった。
ネット上で検索した範囲でも、ベーシックインカムに肯定的な見解はあまりない。そのほとんどが、「みんなに生活可能な給付をしたら、誰も働かなくなってしまう」というもののようだ。これは死刑を廃止したら凶悪犯罪への抑止ができないという、死刑廃止に反対する論理に近いものがあると思う。証明できない根拠だが、その人たちにとってゆるがせない確信になっているもの。だから、その先の話に入っていけない。
中村君との話では、順序は逆になり、2の所得税、法人税を全廃して消費税でベーシックインカムを給付するという話に先に食いついてしまう。でも実際には、給付の財源の話の前に、先の「みんなに生活可能な給付をしたら、誰も働かなくなってしまう」という否定的直感が先にあるのだ。だが、現実には、世界各国で完全雇用が不可能になり、常に失業率が問題になり、賃労働による生活を前提にする社会観が実態に合わなくなってきているという問題意識が共有されていない。
その意味では、僕がやむなくアリバイ的に関わっている、労働組合の世界観を筆頭にした、「働かざるもの食うべからず」の労働至上主義的な世界観を問題にしなければならない。こんなことを言えば、必ず「働きたくないから、働かないことを合理化する理屈を求めているのだ」と見られてしまうが、もう何をかいわんや、である。
■まず「労働」至上主義を疑うこと
重要な反論として、1880年にポール・ラファルグが著わした「怠ける権利」を挙げたい。標題をもって誤解されがちな書だが、フランスの2月革命で労働者が掲げた要求である「1848年の労働の権利」への反駁書として書いたというこの小論は、130年の時を経てなお、現在に引き継がれる問題提起をしていると思う。ここからの話は次回にゆずる。