最近感じることは、「どこへ行っても、気にし始めたら切りのない、荒れた状況」。
例えば、街を歩く毎日のこととして、以前から不快かつ不審に感じているのは、きちんと隅に置ける余地があっても、歩道の動線を塞ぐように駐輪する自転車。駅の階段や通路で、通行方向が矢印等で指示されていても殆どの人がそれを無視して通行すること。空席が山ほどあっても決まって優先席に座って携帯の画面に見入る人たち。30センチ先に知らない人の顔があるのに、車内いっぱいに響く声で話し甲高く笑う人たちの群れ。性別も年齢層も多彩だ。
以前は「モラルハザード」として映っていた状況だが、実はわが蓮沼ベースの中でも、同じような混沌とした状況がある。
ここに出入りしているメンバーが関わっている知的障害者の移動支援は、感情労働の要素が高く、その支援スタッフは常に配慮が要求される仕事をこなし、一般の人々より高いモラルと共感性を持っていることが想定されている。実際、礼儀正しい好人物だ。
つまり、混沌とした状況をもたらしているのは、「モラルハザード」ではないのだろう。
なぜ、「普通の人々」が、日常的に必要なサインや規範を無視し、逸脱するのか。「普通の人々」どころか、モラルや共感性でより高い水準のものをもっている人々の中にもそれが起こっている。
最近僕が思い当たる仮説は、「実は、生理的に処理不能な量に達した過剰な情報に侵されないための防衛機制ではないのか」ということだ。
実際、日常的に、気付いて関わろうとすれば、自分の処理能力をはるかに超える問題が、周囲にころがっている。その時に自分を守る方法は、それが見えないようにすることなのだ。自分の定量をはるかに超える過剰な課題が周囲の環境に満ち溢れているとき、人は無意識のうちに、自分に感知できる情報を制限する防衛機制が働くのではないか。
そう考えると、毎日目にする奇異な状況に説明がつく。見た上で無視しているのではない。もうすでに、見えないのだ。見えることが、自分を成立させることに負担になるので、あらかじめ意識に入らないようになっているのだ。
では、なぜ僕には「見える」のか。僕が、ある程度、差し迫った状況を捨てて、身軽になったからなのだろう。予定外の物事に対応できる余裕を作ってあるので、少し防衛機制がゆるんでいるのではないか。
この仮説がはずれたほうがいいのだろう。
でも、もし当たりなら、その先を考えていかなければならない。