翌朝、6月23日は曇りだった。本番を迎えた慰霊祭は午後2時から始まる。朝食を終え、身支度を整え、慰霊祭の前に、斎場御嶽(せーふぁーうたき)へと向かう。ここは琉球大国時代最も神聖な場所とされ、王府の関係者以外は入れなかった。そして男子禁制でもあった。現在は世界文化遺産として登録され、入場料を支払えば誰でもが入ることが出来る。神が降り立つ場所として、今でもその軌跡を十二分に感じる事が出来る。印象に残るのは、三角岩の奥スペース。ここに神様が降りてくるのを二度感じた。
昨日、スーパーで購入したペットボトルの水1本を持参し、この斎場御嶽で清水を作る。その清水を本番である慰霊祭に合わせ、壕の中でこの水を供えることが一つの目的でもあった。曇り空ながらも、雨も降らず入山出来たことは、大変有難い。
沖縄は、中国の影響を過分に受けた建築物も多い。街の中に龍のモニュメントも見る事が出来る。異国からの影響も感じつつも、それでも独自の文化や宗教観を築き上げた印象を深く感じる場所が、斎場御嶽。日本の神道の原型とでもいうべき太陽神崇拝は、自然を通じて宇宙をも感じさせてくれる。三角岩の奥スペースは窓のようであり、祈りによってその窓が開き、地球は宇宙の一つの星であり、また全ては繋がっているという事を、改めて意識させてくれる。4月に訪れた時、きくさんが慰霊の前にここで祈りを捧げたことにいたく感動されていたのは、やはり、沖縄の人々の信仰の原点とも言える場所だからだろう。
日常的ではないこの場所に、同行者と共に入山したわたしは、過去に自分の感じた説明をあまり多くはしなかった。それぞれの人が自身の感じる力によって、感じればよいと思っていた。ただ、あの三角岩に入るタイミング、ここだけを歩きながら思慮していたのである。
入山してすぐにある大庫理(うふぐーい)でまず手を合わせる。ここには龍神様が鎮座していることを強く感じており、第二に神聖な場所でもある。岩肌全体から感じられる熱が、今回はとても温かく、気温の暑さとは異なる優しさを感じていた。そして、ご挨拶が終わってから、目的場所である三庫理(さんぐーい)へと向かう。今回は、寄満(ゆいんち)の場所へは廻らず、まっすぐに三角岩へと向かった。沖縄全土で慰霊の日とされた今日、それでもここ斎場御嶽にはまばらながら、観光客が入山していた。
人がまばらながらも、わたしは自身が集中出来るよう、三角岩の奥スペースにいる人が去るのを待ち、同時に手を合わせ神様に今からそこに入る事を告げた。三角岩スペースにはカップルがおり、彼らが出るタイミングと神様が降りられるタイミングを狙っていた。
わたしは、拍手をゆっくりしながらも、だんだん早く拍手を打った。この音によって、神様が現れる。三角岩の重なる天辺に、神様自らがその存在を知らしめてくれるのだ。それは、本当に美しい光であり、直感的に感じる崇高さなのだ。どれぐらい打っただろうか、1分ぐらいは打っていたかもしれない。
「降りて来られた!」
わたしは、その存在を感じ、同行者に「今、来られたから、さぁ行きましょう」と先頭を切って素早く移動した。すると南から突風が来る。今日の風は尋常じゃないほど強い。三角岩に入る際、一礼をしわたしはバックの中にしまっていた「龍神大神真言」の祝詞の用紙を取り出した。そして、ペットボトルの蓋を開け、用意をする。二礼二拍手一礼を済ませ、祝詞の用紙を広げた。
雲上が原の天座に坐し坐して
天地に七宝の御光を照らし給う龍神祖神は
大宇宙根源の日輪の御姿にて
天地人界を自由自在に治め給い
頭上に龍王宝冠を頂き給い
十種の御宝を持ち萬物を御支配あらせ給うと共に
天地の神仏を守護され給う王神であらせ給うなり
真の六根一筋に御仕え申すならば
福禄寿の御宝を与え給い
萬物の病厄を立所に祓い給い
五穀を始め衣食物に至るまで生幸い給い
神鏡を以て七宝九星二十八宿の星に
家を守らし家運隆盛を令吹させ給うぞ
龍神大神真言
なむこんごうしんりきそわていそわか
を声高々と一念に唱え奉れば
天地神袛集来し給い相助け合い給い
祈願成就なさしめ給えと
祖神の念にすがり奉りつつしみうやまいて
御願い奉る
神様に対し、「ここです」とペットボトルに手をそっとかざす。この水の力によって、少しでも浄化の助けになることを祈る。わたしがここに来る目的はただ一つ。自分自身に足りていないものを補って頂くよう祈念することだった。慰霊といえども、本当の意味での御霊や戦没者の残された想いの浄化は、第三者である血縁関係にない人の素朴な祈りだけでは、安易に浮かんでは来ない。もし、浮かんだとしても、浄化するだけの力もない。そこの部分を、神様のお力におすがりするしかないと感じている。
わたしは目に見えないものに対し、感じる力を少しでも公のために使いたいと思っている。しかし、わたしにはその力量が全く足りていない。足りていない部分を、神様の力によって、補い救って頂けるよう、こころの底からお願いしているのだ。
そのお願いとは、祈りによって浮かんできた御霊や想いを、神様のお力を以って、天へと導き、そして浄化させ、輪廻転生によって、再び生まれくること。その大きなお役目を神様に平伏せてお願いしている。
この考えに至った経緯は、やはり沖縄に足を運んで実感したことにある。そもそも信仰の場所であった斎場御嶽からも伺える太陽神崇拝は古くから存在しており、龍神様を感じた根幹には、この太陽神崇拝と一重だからかもしれない。龍神様があちらこちらに存在している事が感じられる不思議さは、この信仰の場所が呼び寄せたものだろう。特に斎場御嶽は最たるもので、龍神様が自由自在に浮遊しており三角岩はまさに止まり木のようにして姿を感じさせてくれる。
こうした背景があり、わたしの行動力に結びついてきたわけだが、平素より神様に対し、真摯に向き合い、己の感謝を行いで示し、自身の犠牲も覚悟の上でなければ、願いは聞き入れてはもらえないと感じている。神様に耳を傾けて頂くために、己はどうすればよいのか、どうするべきか、これが今、日常生活に直結している。今年から始まった強固な祈りは、不思議なえにしをも、もたらしてくれた。感謝の気持ちで一杯だ。願いが成就するようまるで身辺整理をされているかのようでもある。
想いはさまざまに巡りながら、今ここで祈ることも必然であり、先々に至るまでの最初の点を描く一日の始まりとなった。
(つづく)
昨日、スーパーで購入したペットボトルの水1本を持参し、この斎場御嶽で清水を作る。その清水を本番である慰霊祭に合わせ、壕の中でこの水を供えることが一つの目的でもあった。曇り空ながらも、雨も降らず入山出来たことは、大変有難い。
沖縄は、中国の影響を過分に受けた建築物も多い。街の中に龍のモニュメントも見る事が出来る。異国からの影響も感じつつも、それでも独自の文化や宗教観を築き上げた印象を深く感じる場所が、斎場御嶽。日本の神道の原型とでもいうべき太陽神崇拝は、自然を通じて宇宙をも感じさせてくれる。三角岩の奥スペースは窓のようであり、祈りによってその窓が開き、地球は宇宙の一つの星であり、また全ては繋がっているという事を、改めて意識させてくれる。4月に訪れた時、きくさんが慰霊の前にここで祈りを捧げたことにいたく感動されていたのは、やはり、沖縄の人々の信仰の原点とも言える場所だからだろう。
日常的ではないこの場所に、同行者と共に入山したわたしは、過去に自分の感じた説明をあまり多くはしなかった。それぞれの人が自身の感じる力によって、感じればよいと思っていた。ただ、あの三角岩に入るタイミング、ここだけを歩きながら思慮していたのである。
入山してすぐにある大庫理(うふぐーい)でまず手を合わせる。ここには龍神様が鎮座していることを強く感じており、第二に神聖な場所でもある。岩肌全体から感じられる熱が、今回はとても温かく、気温の暑さとは異なる優しさを感じていた。そして、ご挨拶が終わってから、目的場所である三庫理(さんぐーい)へと向かう。今回は、寄満(ゆいんち)の場所へは廻らず、まっすぐに三角岩へと向かった。沖縄全土で慰霊の日とされた今日、それでもここ斎場御嶽にはまばらながら、観光客が入山していた。
人がまばらながらも、わたしは自身が集中出来るよう、三角岩の奥スペースにいる人が去るのを待ち、同時に手を合わせ神様に今からそこに入る事を告げた。三角岩スペースにはカップルがおり、彼らが出るタイミングと神様が降りられるタイミングを狙っていた。
わたしは、拍手をゆっくりしながらも、だんだん早く拍手を打った。この音によって、神様が現れる。三角岩の重なる天辺に、神様自らがその存在を知らしめてくれるのだ。それは、本当に美しい光であり、直感的に感じる崇高さなのだ。どれぐらい打っただろうか、1分ぐらいは打っていたかもしれない。
「降りて来られた!」
わたしは、その存在を感じ、同行者に「今、来られたから、さぁ行きましょう」と先頭を切って素早く移動した。すると南から突風が来る。今日の風は尋常じゃないほど強い。三角岩に入る際、一礼をしわたしはバックの中にしまっていた「龍神大神真言」の祝詞の用紙を取り出した。そして、ペットボトルの蓋を開け、用意をする。二礼二拍手一礼を済ませ、祝詞の用紙を広げた。
雲上が原の天座に坐し坐して
天地に七宝の御光を照らし給う龍神祖神は
大宇宙根源の日輪の御姿にて
天地人界を自由自在に治め給い
頭上に龍王宝冠を頂き給い
十種の御宝を持ち萬物を御支配あらせ給うと共に
天地の神仏を守護され給う王神であらせ給うなり
真の六根一筋に御仕え申すならば
福禄寿の御宝を与え給い
萬物の病厄を立所に祓い給い
五穀を始め衣食物に至るまで生幸い給い
神鏡を以て七宝九星二十八宿の星に
家を守らし家運隆盛を令吹させ給うぞ
龍神大神真言
なむこんごうしんりきそわていそわか
を声高々と一念に唱え奉れば
天地神袛集来し給い相助け合い給い
祈願成就なさしめ給えと
祖神の念にすがり奉りつつしみうやまいて
御願い奉る
神様に対し、「ここです」とペットボトルに手をそっとかざす。この水の力によって、少しでも浄化の助けになることを祈る。わたしがここに来る目的はただ一つ。自分自身に足りていないものを補って頂くよう祈念することだった。慰霊といえども、本当の意味での御霊や戦没者の残された想いの浄化は、第三者である血縁関係にない人の素朴な祈りだけでは、安易に浮かんでは来ない。もし、浮かんだとしても、浄化するだけの力もない。そこの部分を、神様のお力におすがりするしかないと感じている。
わたしは目に見えないものに対し、感じる力を少しでも公のために使いたいと思っている。しかし、わたしにはその力量が全く足りていない。足りていない部分を、神様の力によって、補い救って頂けるよう、こころの底からお願いしているのだ。
そのお願いとは、祈りによって浮かんできた御霊や想いを、神様のお力を以って、天へと導き、そして浄化させ、輪廻転生によって、再び生まれくること。その大きなお役目を神様に平伏せてお願いしている。
この考えに至った経緯は、やはり沖縄に足を運んで実感したことにある。そもそも信仰の場所であった斎場御嶽からも伺える太陽神崇拝は古くから存在しており、龍神様を感じた根幹には、この太陽神崇拝と一重だからかもしれない。龍神様があちらこちらに存在している事が感じられる不思議さは、この信仰の場所が呼び寄せたものだろう。特に斎場御嶽は最たるもので、龍神様が自由自在に浮遊しており三角岩はまさに止まり木のようにして姿を感じさせてくれる。
こうした背景があり、わたしの行動力に結びついてきたわけだが、平素より神様に対し、真摯に向き合い、己の感謝を行いで示し、自身の犠牲も覚悟の上でなければ、願いは聞き入れてはもらえないと感じている。神様に耳を傾けて頂くために、己はどうすればよいのか、どうするべきか、これが今、日常生活に直結している。今年から始まった強固な祈りは、不思議なえにしをも、もたらしてくれた。感謝の気持ちで一杯だ。願いが成就するようまるで身辺整理をされているかのようでもある。
想いはさまざまに巡りながら、今ここで祈ることも必然であり、先々に至るまでの最初の点を描く一日の始まりとなった。
(つづく)