奥山城と奥山館は静岡県浜松市北区奥山にあります。奥山城と奥山館は混同されて伝承され、はっきりしない部分があるようですが奥山館は奥山城の出城だったという見方もあるようです。
今回は「静岡県の中世城館跡」を資料として見学にでかけました。
南北朝期に井伊氏と一族の奥山氏は後醍醐天皇の皇子宗良親王を奉じて戦いましたがその後没落したとされます。
奥山館から奥山城までは直線距離で北東約1.9Km、奥山方広寺までは約1.5Kmあります。
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奥山城と奥山館 奥山城は方広寺との関連が強そうだが奥山館とは離れている
資料によれば延元元年(1336)宗良親王が入城したとされるが奥山城か奥山館かはっきりしないようです。その後、応安四年(1371)方広寺が建立されたと伝わります。奥山城の関連施設があったとすれば方広寺の立地が適しているように見えますが、方広寺には城郭の伝承はないようです。
奥山城 方広寺は奥山六郎次郎朝藤の招きにより、無文元選禅師によって開かれた
方広寺は奥山城の中腹にある大寺院で無文元選禅師は後醍醐天皇の皇子だそうです(方広寺HP)。ということは宗良親王とは兄弟でしょうか。方広寺から奥山上への道は色々あるようですが、林道は一般車は通行できませんので下図の方広寺から歩いて登る道が無難ではないかと思います。
奥山城 砕石採取によって城地の山の半分が削り取られている。
遺構は明確ではありませんが最高所が主郭であったとされます。山腹には溝が残されていて、資料によればこの溝が空堀の名残ではないかとされます。
奥山城 山腹を巻く溝は空堀跡かもしれない
砕石採取による大規模な破壊は山を半分削り取ってしまいましたが、半分は残りました。溝の部分は長らく人の手が加わっていないように見えますので、ヒョットすると城郭遺構かもしれないと思いましたが、どうでしょう。
奥山城 山頂部には遺構らしき地形が見当たらない
最高所が主郭とされます。ある程度の平坦面はありましたが人の手が加わった地形ではなさそうに見えました。
奥山城 砕石取得の崖に向かっては段があるが、砕石関連に見える
砕石採取の崖は高低差が100m近い断崖絶壁になっていました。写真のように絶壁の上端部には段がありましたが、これは砕石採取の工事の一環のように見えました。
奥山城 最高所(主郭)から砕石採取跡を見下ろす。ソーラパネルと新東名が見える
山が削り取られて平坦になった部分には大規模なソーラーパネルがありました。新東名高速道路はトンネルで山を抜けているようでした。
奥山館 奥山城の出城とされ、地形は明確に残る。 東から切岸を見る
奥山館は戦いの出城というよりも、いかにも居住用の館という雰囲気の地形で、台状の地形と切岸がしっかり残っていました。東と北に城道がつけられていたようですが東側は軽トラが登れる農道になっていました。 資料によれば井戸などがあったようですが、現地は今みかん畑になって遺構はなさそうでした。
奥山館 北からの遠景 見事な台形の地形が残る
具体的な遺構らしきものは見られませんでしたが、少し離れて見ると、見事な台形の地形を見ることができました。往時の方広寺と奥山城の関係性が不明ですが、方広寺の場所に居住場所がなければ少し離れていますが奥山館が伝承に言う「奥山城の出城」というよりも奥山城の居住館だったように思えました。
いわゆる遺構の残存度が良くない二箇所でしたが、地形が面白い見学となりました。