城と歴史歩きを楽しむ

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三河・石飛城 三河山間部のコンパクトな山城。 別郭があったのか?

2020-09-16 | 歴史

石飛城は愛知県豊田市実栗町にあります。
 三河山間部に築かれたコンパクトな山城で、築城時期・城主などの詳細は不明の城館とされます。
今回は(1)「愛知県中世城館跡調査報告2」 愛知県教育委員会1994 を資料として出かけました。後日(2)「足助の中世城館」鱸 鑒氏著 足助町教育委員会2001 を入手し、これも参考に記事としました。
 石飛城はその位置から、村の城という位置づけは難しそうで、資料(2)によると北東600mに所在する御蔵円山城が南に備えた城の可能性を指摘しています。御蔵円山城は(2)によれば永正年間に鈴木高国が築いたと言われます(諸説あり)。 
※同じ豊田市内の、ここから10kmほど北西に石飛町があり、そこには石飛砦がありますので紛らわしいです。


石飛城 資料(2)ではアの地点に石飛城の西の曲輪があったとされるが、資料(1)では触れられず
 資料(2)では図1のア地点にも石飛城の西の曲輪が存在するとされ縄張図も描かれていますが資料(1)では、その存在には触れられておらず、後から知りましたので見学はしていません。機会があれば再訪し、確認したいと思います。


石飛城 林道 実栗線を歩いて登る 一般車は進入禁止!
 33号線の路肩に駐車し、林道 実栗線を歩いて登ります。林道の途中までは舗装がされていましたが、一般車は進入禁止でした。山間部の城址見学では意外に駐車のスペースがない場合が多く、スペースが有っても「ここに駐車しても大丈夫か?」と心配しながら見学するケースもありますね。最近では多少距離を歩いても出来るだけ安心できる場所に駐車するように心がけています。※33号線の路肩スペースに駐車して見学しましたが、駐車はあくまで自己責任で。


石飛城 林道からの遠景 林道は山田への農道ともなっている。  奥に城址のある山が見えている
 石飛城へ南から向かう道は、この林道 実栗線がメインですが、往時の城道かどうかは定かではありません。
林道の舗装は途中で途切れました。


石飛城 山腹には巨石がゴロゴロ これが石飛城の名前の由来か
 石飛城への道は林道の途中から舗装がなくなり、その先には道が有りませんでした。地図とコンパスで南東方向から登りましたが、途中の山腹には巨石がゴロゴロしていました。小字名の石飛の地名はこんなところからきているのではないかと思いました。


石飛城 Ⅰ郭を主郭とし、東西を堀切で遮断し、周りに帯曲輪を配した単郭の山城
 石飛城は単郭のシンプルな山城でした。付近に水場や井戸があるかどうか分かりませんでしたが、どの資料にもその点は触れられていませんでした。単郭とは言え帯曲輪などを備えている山城で、見張所的な使い方ではなかったように思いました。資料(2)で本城と言われる御蔵円山城の詰城だった可能性も指摘されていますので、ヒョットするとそうだったかもしれないと想像しました。その場合の城道は今回とは反対方向の北東側からの道だったと思われます。


石飛城 Ⅰ郭南東側に虎口状地形。付近には巨石が散在する
 Ⅰ郭の南東側から城域に入る付近に、いかにも虎口に関連するように見える巨石がありました。実際には自然のままなのかもしれませんが、ついつい想像を膨らませてしまいました。


石飛城 Ⅰ郭東側の堀切A 右手(西側)上にⅠ郭
 Ⅰ郭の東西は堀切で尾根方向の防御施設としていました。風化のためにある程度埋まっているとしてもあまり厳重な感じがしない堀切でした。


石飛城 Ⅰ郭の平坦面 人物の背後に仕切り土塁風に大岩が並んでいる
 Ⅰ郭の平坦面の東側1/3位の所に大石の石列があり、曲輪を仕切っているように見えました。人為的な感じもしますがヒョットすると自然のものとも考えられますが、どうでしょう。


石飛城 Ⅰ郭西側の法面に立つ。手前に堀切B
  石飛城はⅠ郭の東西の尾根に堀切を設け防禦施設としていますが、南北方向は帯曲輪の削りだしによる切岸が防御の要となっていました。いずれの方向もいわゆる「甘い」造りになっていました。緊急避難の場所としての山城であれば、この程度で十分と考えられていたのかもしれませんね。
 ※関連が考えられる御蔵円山城については改めて記事にしたいと思います。