枳城は三重県松阪市小阿坂町字枳にあります。 枳の読みは からたち です。
北西約1kmに所在する白米城として知られる阿坂城の出城として、高城とともに築かれたと考えられています。標高190mの尾根上にあり東西に尾根を断ち切る堀切が設けられ南北は切岸で守りを固めていました。
資料は (1)「三重の中世城館跡」三重県教育委員会1976 と(2)「松阪の城50選」松阪山城会2019です。
資料(2)の、城への案内図を片手に、城友と一緒に見学路を登り見学しました。
※阿坂城の記事は→こちら
枳城 今は矢印のルートで見学するが、往時はアの尾根道が城道かも(想像)
資料(2)には詳しい見学路が掲載されており、現地では見学路の随所に地元老人会の方による枳城への道標が立っていました。見学路の整備も老人会の方が尽力して下さっていると(2)に記されていました。
阿坂城や高城との位置関係で考えると、現在の見学路は山上の大日さんの参道で、往時の城道はアのあたりだったのではないかと想像しましたが、どうでしょう。
枳城 Ⅰ郭(主郭)には「大日さん」の石仏が祀られ、北西には阿坂城の石碑が見える
カシミール3Dの地図アプリで確認すると、北東約1.5kmの高城も見えるようですので、阿坂城を中心にした出城のネットワークは相互に目視で確認できる状態だったと思われます。
枳城 東西に長い尾根上の単郭の土の城。①、⑤の堀切を設け東西を守り周囲を切岸で防御している
Ⅰ郭北側下には狭い帯曲輪があり、仕切土塁が設けられていました。枳城の防御の基本は周囲を取り巻く切岸で、Ⅰ郭の平坦面は段差があったようですが、風化によるためか曖昧な地形になっていました。
Ⅰ郭には土塁はなかったようですので、ヒョットすると犬走状の段差が取り巻いていたのかもしれないと思いました。
枳城 Ⅰ郭西側の堀切① 右手にⅠ郭。尾根を断ち切って切岸を作り出している
Ⅰ郭の西側尾根は細尾根で、左右に容易に回り込める地形でした。堀切で敵の侵攻を食い止めるというよりも、Ⅰ郭の西側の切岸を削り出したという印象でした。
枳城 Ⅰ郭北側下の狭い帯曲輪。切岸を削りだすのが主目的だったかも
枳城の見どころの一つは、この帯曲輪と仕切土塁でした。北側斜面は南側に比べるとやや緩やかですので、帯曲輪によって切岸を削り出し、削り残した仕切土塁で左右の移動を妨げていたのではないでしょうか。
枳城 帯曲輪の幅広の仕切土塁③ 仕切土塁上に西からの侵入に備えて柵列があったかも 奥上にⅠ郭
西側尾根から侵入すると北側には容易に回り込めるので、それを阻止するために幅広の仕切土塁③上に柵列を設けたのではないかと想像しました。
南側への侵入を阻止するためと思われる竪土塁⑥もありましたが、道C(参道?)などで改変を受けているようでした。
枳城 幅の狭い仕切土塁④ 奥上にⅠ郭
北側の帯曲輪には何条もの仕切土塁が設けられていました。幅は広いものから狭いもの間でありましたが、幅の差の理由は明確ではありませんでした。
枳城 Ⅰ郭東側下の浅い堀切⑤ かなり埋まっている可能性がありそう
Ⅰ郭下の尾根は東に伸びていますが、城域外とされます。この尾根を断ち切る堀切⑤は、かなり埋まっているように見えますので周辺を含めて遺構の原形は明瞭ではありませんでした。こちら側のⅠ郭切岸も急角度でした。
枳城 堀切⑤南端部からの道AとB。Ⅰ郭南辺の斜面は急斜面
(1)の縄張図では道Aは描かれていませんので、山仕事の道かもしれないと思いました。切岸は自然地形の斜面のようですが、十分な角度がある切岸になっていました。道Bは往時の城道かどうか判然としませんでしたが、道Cが大日さんの参道だとすると、他にⅠ郭への道が見当たらないので、あるいは往時の道かもしれないと思いました。
枳城 Ⅰ郭の石仏「大日さん」と松阪山城会の表示板
Ⅰ郭は周囲にあいまいな段差が残り、往時は平だったかもわかりませんがやや膨らみのある曲輪でした。
資料(2)を発行している「松阪山城会」の表示板がありました。
枳城は、コンパクトな山城ですが、見学路も歩きやすく案内板や道標等の整備もされていましたので城友と楽しく見学が出来ました。