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嶬峨城 近江 近世まで陣屋として使われた可能性がある残りの良い山城

2022-10-08 | 歴史

嶬峨(ギカ)城は滋賀県甲賀市水口町嶬峨小字山屋敷にあります。城主は六角氏の重臣嶬峨氏と伝えられ、陣屋として近世にも使われ、全山が陣屋として使われたとの説もあるそうです。今回の参考資料は 「甲賀市史 第七巻 甲賀の城」甲賀市史編さん委員会編2010 です。


嶬峨城 付近には元屋敷の地名が残る 嶬峨城は山屋敷に所在
 往時の居館は元屋敷にあり山屋敷の嶬峨城はいわゆる詰城だったとされ、近世の陣屋として利用された時にはⅡ郭から東麓にかけて広く削平され陣屋の屋敷地となっていたようです。


嶬峨城 稲荷社の祀られる平場①は場外とされ往時の城道はa 
 Ⅰ郭の北側は二重の堀切③と⑤で厳重に遮断され、稲荷社の祀られている北側の平場①には城郭遺構は無く城外と考えられているようです。城道も稲荷神社参道経由ではなくだったとされます。陣屋時代には東側の堀状の道⑬が使われたと思われます。


嶬峨城 平場①の稲荷神社 造営時期は未確認
 往時は平場①に何らかの城郭関連施設が在ってもおかしくないように思いますが、現在は稲荷神社が建立され周囲の改変もあるようで、城郭遺構は無いとされます。


嶬峨城 堀切③ 手前に土塁② 南東から 
 Ⅰ郭と平場①間の尾根を断ち切る堀切は③と⑤の二重でした。Ⅰ郭のある南側の尾根先を選んだ理由は、平場①を含めた城郭の規模が維持できる戦力を保持していなかったのと、北側に脅威を感じていたからではないかと想像しましたがどうでしょう。


嶬峨城 堀切⑤ 西から 右にⅠ郭の切岸
 堀切⑤の中央部にはⅠ郭に入る虎口が設けられ、東端部からは東下に向けて竪堀が下っていました。


嶬峨城  竪堀④  少し曲がりながら東に落ちる
 堀切⑤と竪堀④の配置から、資料では城道は土塁②と竪堀④の間を通過し、堀切⑤で北に折れ、さらに南に折れて虎口⑥を入ったと想定していました。


嶬峨城 虎口⑥ 北から 手前に堀切⑤  見どころです
 城道は堀切⑤から南に折れて虎口⑥を通ってⅠ郭に入ります。虎口の左右の高い土塁が見事ですね。


嶬峨城 Ⅰ郭南側の虎口⑦ 北東から
 嶬峨城は甲賀のスタンダードな土塁囲みの単郭の城館ですが、南東隅にもう一つの虎口地形がありました。資料では近年の破壊道ではないので、近世陣屋が全山使用した痕跡の通路の可能性を示していました。Ⅱ郭は陣屋の用地で往時は無かったとも考えられますので、虎口⑦は陣屋との関連があったのではないでしょうか。


嶬峨城 Ⅰ郭東側土塁 北から 右にⅠ郭
 甲賀の城郭の特徴である単郭を囲む土塁は完存状態で見ごたえあり!でした。Ⅰ郭内部は目立った遺構が無くて、ブッシュが覆っていましたので、写真はあきらめました。


嶬峨城 Ⅱ郭 南から  左手上方向にⅠ郭
 Ⅱ郭は近世の陣屋用地として造成されたようで、Ⅰ郭直下のⅡ郭から東側に大規模な数段の屋敷地が広がっていたとされます。


嶬峨城 陣屋址の平場の井戸⑧   水が見える
 近世陣屋の屋敷跡とされる平場には井戸があり水が見えていました。転落防止のためと思われる現代の鉄パイプが設置されていました。


嶬峨城 井戸⑨ 往時のものか? 
 井戸⑧の平場から一段下がった薮の中に井戸⑨がありました。周囲の地形と状況からヒョットすると往時の井戸跡かもしれないと想像しました。写真の様に古竹などに覆われていましたので水の確認はできませんでした。
 

嶬峨城 玉泉寺西側の帯状の平場⑩  東から
 玉泉寺の西側、稲荷神社西下には帯状の平場⑩がありました。稲荷神社のある平場①が城外だとすると、平場⑩は城郭遺構ではなさそうですね。


嶬峨城 二段の平場⑪と⑫  城郭遺構か? 耕作地か?
 Ⅰ郭西下には二段の平場⑪と⑫がありました。位置的に城郭遺構の可能性は低そうです。北側斜面なので耕作地には不向きと思われますが、写真の様に日当たりがありますので平場⑩も、ここも耕作地だったのかもしれませんね。

嶬峨城はコンパクトな城郭ですが、足場もよく、近世陣屋との関連など興味深い遺構を楽しく見学出来て良かったです。