秦梨(はたなし)城は愛知県岡崎市秦梨城にあります。城主の粟生氏は鎌倉時代に三河守護 足利市の被官として秦梨郷の郷司となり永禄期に松平元康に屈して去るまでの約300年間にわたりこの地を支配したようです。今回の参考資料は (1)「愛知県中世城郭調査報告2」愛知県教育委員会1994 (2)「愛城研報告2」愛知中世郭研究会1995 などです。
秦梨城 南に梅薮屋敷、北に秦梨城「お屋敷」の詰城として秦梨城山城が伝わる
秦梨地区の中心に「お屋敷」の地名が残り秦梨城山城がその詰城で、北を守る秦梨城、南を守る梅薮屋敷の体勢だったと考えられます。古くは南の茅原沢町から秦梨町に抜ける峠越えの街道がメインだったようで、この街道の北を守るのが秦梨城だったとされます。今は35号線が秦梨城と乙川の間を通っていますが、往時の道は秦梨から渡河して向林城の下を通っていた可能性がありそうです。※梅薮屋敷は→こちら
秦梨城 城域北側は35号線の工事で削られた 今も擁壁工事中
城域北側は35号線の道路工事で削られましたが、城郭遺構はほとんど残されているようです。今回訪れた際には、新規の擁壁工事が行われていましたが城郭遺構に大きな影響はなさそうでした。
秦梨城 大きな堀切A とⅠ郭西端の石垣のある平場①が見どころです!
35号線から城址に至る道沿いには石の道標が在りました。資料(1)ではⅠ郭に居館があり、資料⑵によるとⅠ郭の南西下には馬出が在ったとされ、屋敷地もあったとされます。
秦梨城 堀切A 南から 薬研堀が見事に残る 規模は人物と比較
秦梨城は東から延びる尾根の先端部を削平しⅠ郭を築き、土塁Bを削り残し、大きな堀切Aで尾根を断ち切っていました。堀切は幅5m 深さ3mの薬研堀で完存状態でした。
秦梨城 石垣が見られるが後世の土地利用によるものかも?
Ⅰ郭の周囲には石垣③、④が見られました。資料(2)では城郭遺構とみているようですが資料⑵では触れられていませんでした。後世の耕作地化等に関連する可能性もあるということかもしれません。
秦梨城 Ⅰ郭 南から 城趾碑、案内板が立ちアンテナ設備もある 右に土塁B
Ⅰ郭はきれいに削平された曲輪でした。アンテナ設備など近年の建物もありますが、耕作地利用がうかがわれる平面でした。
秦梨城 Ⅰ郭南辺の石垣 西から
Ⅰ郭南辺には通路があり石垣が積まれていました。往時の居館の石垣かもしれませんね。
秦梨城 Ⅰ郭南西辺の切岸 中段に犬走地形 南東から
城域下段からⅠ郭までの切岸の高さは、写真の様に2階建の住宅の屋根まであり切岸中段には犬走地形が在りました。
秦梨城 Ⅰ郭西端部 手前に平場① 西から 見どころです!
Ⅰ郭西端部の先端に石垣④が積まれ、その先に平場①が在りました。平場①からは犬走地形がⅠ郭南西の切岸中段に延びていました。
秦梨城 Ⅰ郭 石垣④ 往時の石垣かも
石垣④に近づいて見ると、いかにも古そうで往時の石垣に見えましたがどうでしょう。資料⑵によると旧村誌に「石壁が今も残っている」とあるようですので石垣③、④がそれにあたるのではないかとしています。
秦梨城 Ⅰ郭 城趾碑 供養塔 案内板が立つ 背後に土塁B 西から
Ⅰ郭には自然石に陰刻された城趾碑が建っていました。供養塔が並んで祀られていました、由緒は確認できませんでしたが今もお参りがされているようですね。
秦梨城 土塁B 北西から 奥に土壇⑥
土塁Bは堀切AとⅠ郭の間にあり尾根の掘り残しの土塁と思われます。北端部は擁壁工事が迫っていましたが、遺構には工事の手が入っていませんでした。土塁上の土壇⑥はいかにも秦梨の北側を見張る物見台の様でした。
秦梨城 城域西端部の下段 左に35号線 上にⅠ郭
城域下段から見ると尾根先端部の様子がよくわかりました。北側が道路で削られ、西端部も削られて擁壁が在りました。右上にⅠ郭のアンテナが見えています。
秦梨城 道路で削られた城域北面 右に35号線 上にⅠ郭 北東から
城趾北側は35号線の道路工事で削り取られました。現況を見ると掘削面はコンクリートの吹付が行われているようですが不整形でした。尾根先端部の地山が岩盤の上に土が乗った土地のため岩盤部分が不整形なのではないか、ヒョットすると以前は城域を取り巻くの多くの部分に岩盤が見えていて「石壁が今も残っている」とされたかもしれないと勝手な想像をしてみましたがどうでしょう。
秦梨城は「お屋敷」の北を守る居館と位置付けで想像も交えて見学しました。「お屋敷」の詰城とされる秦梨城山城や峠越えの街道も見学しましたので改めて取り上げたいと思います。