秦梨城山城は愛知県岡崎市秦梨町にあります。その1では秦梨の地を南北に通る旧道と城址の遺構の取っ付きまでを見学しましたが、その2では城郭遺構を見学したいと思います。旧道と城址の位置関係等は、その1をご覧ください。今回の参考資料も (1)「愛知県中世城館跡調査報告Ⅱ」愛知県教育委員会1994 と (2)「愛城研報告 第2号」愛知中世城郭研究会1995 などです。 ※秦梨城山城 その1は→こちら
秦梨城山城 大きな堀切Aで区切って二つの郭を築造
Ⅰ郭の中心部には櫓台状の大きな土壇⑬、Ⅱ郭南辺には幅広の低土塁が設けられ、帯曲輪と腰曲輪画が取巻いていました。
秦梨城山城 Ⅰ郭 中央部の土壇⑬ 南から 削平は甘く輪郭は不明瞭
土壇⑬は幅広の低土塁状の櫓台のような地形でした。周囲の樹木が無ければ乙川沿いの南北の広い範囲が見渡せたことでしょうね。
秦梨城山城 帯曲輪① 左にⅠ郭 の南辺 西から
Ⅰ郭の南辺と西辺には帯曲輪が取巻いていました。Ⅰ郭との高低差は少なく切岸もやや不明瞭でした。
秦梨城山城 竪堀⑩ 西下から
竪堀⑩は南~西からの回り込みに備えた竪堀と思われます。この点からも道bの経路がある程度想定できそうに思いました。
秦梨城山城 小平場⑪ 北東から 左上に帯曲輪①
以前は平場⑨と同一の腰曲輪地形で道Bが通っていたのが、ある時期に竪堀⑩によって分断されたかもしれないと想像しました。
秦梨城山城 帯曲輪②の東辺 右上にⅠ郭 北から 見どころです!
Ⅰ郭の東側の帯曲輪②はⅠ郭と高低差が約3m程あり切岸も明確で見どころでした。
秦梨城山城 帯曲輪南東端と堀切⑫ 北から 奥上に平場③
帯曲輪②の南東端には道bの坂道が南東に下っていましたが、その西側には堀切⑫が設けられていました。平場③の切岸をより高くする効果と帯曲輪②への道bを狭くして規制する効果を狙ったのではないかと想像しましたがどうでしょう。なお堀切⑫については資料(1)、⑵ともに触れられていませんでした。
秦梨城山城 腰曲輪⑧ 南から 左にⅡ郭の切岸
平場の削平が甘く、不明瞭な遺構もある中で腰曲輪⑧は明瞭な平場地形が確認できました。西下の旧道に向けての備えの一つではないかと思いました。
秦梨城山城 幅広の土橋③と堀切A 奥にⅡ郭 北から
資料では③の平場を土橋としていましたが、通行の制限をするには幅が広すぎる平場ように感じました。
秦梨城山城 堀切A 西から 右にⅡ郭 奥に土橋③
Ⅰ郭とⅡ郭は大きな堀切Aで区分されていました。堀切Aは南からⅠ郭への侵入に備える役割だったのではないかと思いました。
秦梨城山城 Ⅱ郭 南辺~東辺の低土塁④ 北から
Ⅱ郭の南辺~東辺にかけて幅広の削り残しと思われる低土塁④が設けられていました。南及び東からの侵入に備えての役割と思われます。土塁の高さは風化により往時よりも低くなったかもしれません。
秦梨城山城 腰曲輪⑤ 北から
Ⅱ郭東側の尾根筋からの侵入に備えた腰曲輪だとするとⅡ郭の土塁④と併せて資料(2)に記されたように堀切イも想定できそうですね。
秦梨城山城 竪堀⑥ 南東上から 右に切れ落ちる
竪堀地形⑥は浅いもので、資料(2)では記載がなく資料(1)では?マーク付きでした。
秦梨城山城 竪堀⑦ 東上から 右に切れ落ちる
竪堀⑦も浅いもので竪堀⑥と同様 資料(1)で?マーク付きでした。
鎌倉時代に粟生氏が入部した秦梨の地を南北に通る主要道の痕跡を確認し、粟生氏の居館の詰城とされる秦梨山城の遺構と城道を想像を交えて楽しく確認・見学出来良かったです。