秦梨城山(はたなししろやま)城は愛知県岡崎市秦梨町にあります。城の歴史は古く、城主の粟生氏は鎌倉時代に足利市の被官として秦梨に入り、粟生氏の居館が在ったとされる地には「殿屋敷」の地名が残り秦梨城山城はその詰城だったとされます。また秦梨を南北に抜ける主要道があり、秦梨山城は主要道を扼する位置にあり、南を梅薮屋敷、北を秦梨城によって守っていたと考えられています。その1では今もその痕跡が残る古い道を探り秦梨山城との位置関係も確認したいと思います。今回の参考資料は (1)「愛知県中世城館跡調査報告Ⅱ」愛知県教育委員会1994 と (2)「愛城研報告 第2号」愛知中世城郭研究会1995 などです。※梅薮屋敷は→こちら 秦梨城は→こちら
秦梨山城 明治の旧地図で旧道を確認する
現在の地図では旧道は不明確ですが、明治の地図では旧道が明確に残っていました。明治の地図でも道路や橋の新設によって現在の状況に近くなっていますね。昭和の時代には茅原沢の子供は旧道を通って秦梨の学校に通っていたと聞いていましたので、旧道がハッキリと残っているのではないかと期待して出かけました。車は墓地の広い駐車場に止めて見学しました。
秦梨山城 乙川と城に挟まれた旧道を歩く 石垣が積まれ整備された道が残る
通学路にもなっていたので、現況は石垣が積まれ整備された道が残っていましたが、往時はどうだったでしょうか?
秦梨山城 乙川と城に挟まれた旧道を歩く 岩盤が開削されている
この辺りは地山が岩盤の様で岩盤を開削して道が整備されていました。往時は岩を乗り越える道だったかも知れませんね。
秦梨山城 乙川と城に挟まれた旧道を歩く 岩盤の間を通る
地山の岩盤を開削したのか、自然に割れた岩盤の間を道が通ったのか?
秦梨山城 峠越えの切通
道は乙川を離れて峠越えの切通を通り茅原沢の最奥部の水田に出ました。
秦梨山城 茅原沢最奥部の水田 旧道は不明瞭になった
峠の切通を抜けると、害獣ゲートで囲まれた谷地形に水田が広がっていました。道は水田の造成で不明瞭になり害獣ゲートで遮断されていましたので、ここまでで引き返しました。帰り道では現況の旧道よりもさらに古い道がないかと思い山中を歩き回ってみましたが、山仕事や農作業の道と思われる踏跡しか見られませんでした。
秦梨山城 高地の谷間の山田跡
道を探して歩きまわっていると、ずいぶん高い場所に山田の跡が見られました。改めて旧地図を見ると水田の記号が谷間の高いところまで描かれていましたので昔の人はこんなところまで苦労して耕作していたのだと改めて気づきました。
秦梨山城 旧道を見下ろす山上に築かれている
殿屋敷に粟生氏の居館があり、南側の山上に詰城が在ったとされます。典型的な居館と詰城の位置関係ですね。資料⑵によるとアは尾根上を山畑として利用され、尾根を断ち切っていた堀切が一部埋まったとされます。ウとイには山田の跡が在りました。耕作は後世に行われたのではないかと思いますがどうでしょう。
秦梨山城 道C脇に残る山田跡 西から
往時の登城路は道aの可能性があります。道Cは後世の農道だったのではないかと思いました。山田として近年まで耕作が行われていたように見えました。
秦梨山城 山頂部を堀切Aで区切りⅠ郭とⅡ郭に分けたように見える
Ⅰ郭の中央部には土壇⑬があり、櫓台の存在が考えられそうです。樹木が無ければ乙川沿いの南北の広い範囲が見渡せたと思われます。
秦梨山城 堀切B 北下から
道aを登りきると堀切状の地形Bが在りました。資料⑵によると尾根を断ち切っていた堀切イが山畑アの利用で埋められて一部が残った姿の可能性が示されていました。資料(1)では存在に触れられていませんでした。表面観察では、道aが尾根に登る際の溝地形のようにも見えました。
秦梨山城 右に道Bと左に堀切⑫ 南東から 興味深い地形です!
資料では触れられていませんでしたが、道Bのルートが在ったのではないかと想像しました。道Bは西側が掘り切られた坂道状の小尾根で帯曲輪②へ登り、Ⅰ郭の周囲をグルっと回って帯曲輪①を通って東端部の坂虎口からⅠ郭に入るルートの想定をしてみましたがどうでしょう。
秦梨山城 南朝忠臣の碑 図1 35号線沿いに建つ
初期の粟生氏は足利氏の被官でしたが、四代輔時の時代以降には南朝方につき戦ったとされ南朝の忠臣としての顕彰碑が建っていました。後に粟生氏は今川に属しましたが、松平元康(後の家康)の攻勢で秦梨を立ち退いたと伝わります。
秦梨山城 その1では旧道の見学と城郭遺構の取り付き迄とし、その2で遺構を見てゆきたいと思います。