仲明(なかみょう)城は静岡県磐田市敷地字仲明にあります。附近を領していた敷地氏の居城と伝わりますが詳細は不明のようです。二重堀切などの遺構の特徴から、今見る姿は武田氏によって改修が行われたと考えられそうです。資料によっては付近の家田城と一体の城郭であったとされますが、遺構の状況などから別の城郭とも考えられています。今回の参考資料は(1)「静岡県の城跡 西部・遠江国版」静岡県の城跡編集委員会2022と (2)「静岡県の中世城館跡」静岡県教育委員会 1978 などです。
仲明城 遠州に侵入した武田軍は付近に布陣した
武田信玄の二俣城攻めの時には、合代島の亀井戸城に本陣が置かれた可能性があり、周辺が宿陣地となったとされ、仲明城もその範囲に入っていたと思われます。その際には社山城も二重堀切などの存在などから武田氏の配下となっていた可能性もありそうです。※亀井戸城は→こちら 社山城は→こちら
仲明城 家田城と仲明城は一体だったともいわれる
資料⑵では仲明城として家田城も含まれるように記されていました。資料⑵では尾根はつながっているが離れているため別城としていました。当ブログでも二つの城は付近の状況から別城であったと考えました。
仲明城 敷地川に突き出した尾根の先端部をで二重堀切で断ち切っている
城地周囲の尾根法面は崩落地形が多く、城郭遺構との区別が難しい場所もありましたが、おおむね往時の遺構が良く残っていると思いました。
仲明城 静岡県点群データより
静岡県の点群データより仲明城の立体図を作成・加筆して追加掲載しました。
仲明城 城道の確認が難しく、適当な場所から見学に入った
仲明公会堂に駐車し見学しましたが、城址の周囲は崩落地形が多く道がハッキリしませんでしたので適当な場所をエィヤッ!と登りました。往時の城道は尾根反対側の北側からだった可能性もアリかもしれませんね。
仲明城 堀切B 南から 尾根を断ち切り城域を区切る 左上に④ 人物と比較
堀切Bは深く、東尾根を断ち切っていました。堀切Bよりも東側の尾根には遺構らしき地形は見当たりませんでした。
仲明城 二重堀切間の尾根の平場④ 北西から
平場④は尾根の天端が自然地形に近いように見えました。堀切Bからの侵入に備えて、兵の配置ができるようになっていたのではないでしょうか。
仲明城 堀切A 手前下に平場⑥ 北から
武田氏の城郭で見かける二城堀切で中央部に④に渡る土橋が設けられていました。
仲明城 堀切Aの土橋 北西から 奥上に④
堀切Aは二重堀切の内側の堀切でした。堀切Bからの侵入に備えるために土橋で平場④に登れるようになっていました。堀切A-B間の南側の地形⑤は幅広の竪堀とも見えましたが、崩落地形かもしれません。
仲明城 北側斜面の竪堀⑦ 北下から
竪堀⑦と平場⑥の間には何段もの平場が設けられ、この段々よって斜面の崩落から免れているようでした。ヒョットすると、こちら側に往時の城道があったかもしれませんが確認は出来ませんでした。
仲明城 堀切AからⅡ郭への道a 北東から
堀切AからⅡ郭への道aは、Ⅰ郭の南東部の土塁Dの下端部を巻くように通って平場③経由で虎口Fに達していました。
仲明城 Ⅱ郭の土塁Eと虎口F 東から
道aをたどると平場③から虎口Fを通ってⅡ郭に入りました。写真の左側にⅡ郭南辺の土塁Eが見えています。
仲明城 Ⅱ郭南辺土塁E 左にⅡ郭曲輪面 西から
Ⅱ郭の南辺土塁Eは、風化と法面の崩落で現況は連続していませんでしたが、往時は南辺全体に築かれていたのではないかと想像しました。またⅡ郭の法面には竪堀状地形⑬がありましたが、崩落地形の可能性もありそうな地形でした。
仲明城 Ⅱ郭北辺の土塁C 西から Ⅰ郭への通路も兼ねている
土塁CはⅡ郭からⅠ郭へ登る通路も兼ねていたようでした。Ⅱ郭の北辺から西辺の縁辺部は崩落で失われた部分Hなどがあるように見えました。往時は土塁Cを含めて南辺迄土塁が巻いていたのではないかと思いましたがどうでしょう。
仲明城 Ⅰ郭 南西から
Ⅰ郭の削平面位は目立った遺構は見当たりませんでしたが、東辺部分に土塁状の低い高まりがありました。南東と南西には突き出した土塁地形Dと⑫が見られ、道aを通る侵入者に打ち下ろす備えだったように見えました。
仲明城 Ⅰ郭 南西へ突き出した土塁地形⑫ 北西上から
Ⅰ郭から南西に突き出した土塁地形⑫は平場➂を通る道aに対して打ち下ろしとなり、虎口Fからの侵入に備えたように見えました。
仲明城は周囲の崩落があり、一部が失われているようでしたが、東尾根の二重堀切など完存状態の城郭遺構もあり、楽しく見学出来てようかったです。