城と歴史歩きを楽しむ

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中上城 伊勢 集落から離れた村の城 占地に関連して想像を膨らませる

2024-03-16 | 歴史
中上城は三重県員弁郡東員町中上にあります。花戸城、花扉城とも呼ばれ、築城は明応年間(1492~1501)坂太郎左衛門によって行われたとされ、時期は不明ですが敵に敗れて廃城になったと伝ええられています。その後、阪氏は蓮如上人に帰依し中上集落に遍崇寺を建立したとされます。今回の参考資料は (1)「三重の中世城城館」三重県教育委員会1976   (2)「再発見 北伊勢国の城」伊藤徳也著2008 などです。

中上城 付近の集落にもそれぞれ村の城が築かれていた
 中上城の周辺には北山城、長深城、志知城など村の城が築かれていたようです。

中上城 城の占地が集落から離れていた特別な理由があったか A辺りが普通?
 村の城は集落に隣接している場合が多いと思いますが、中上城は集落の西端部から≒400m、中心部から≒800mの離れた場所に築かれていました。図2で言えばA地点辺りに築かれている場合が多いのではないかと思いますがどうでしょう。

中上城 員弁川に削られた段丘上に築城されている
 城址の北下には三孤川が流れていますが、図1で見ると大河の員弁川に削られた段丘上に中上城は築かれていたようです。三孤川はサコジガワと読むようですが、地名・人名・川の名前は難しいですね。一般的な村の城の占地で言えばA地点辺りが適当ではないでしょうか。戦後間もなくの空中写真を見ると、段丘上は畑地として全面が利用されていたようですね。

中上城 谷地を利用し、尾根上を削平して築城し、南端部を堀切で断ち切っている
 Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ郭までは遺構が比較的ハッキリしていましたがⅣ、Ⅴ、Ⅵ,Ⅶ郭は削平が甘く、自然地形に近い場所が多いように思いました。往時の城道は小平場①→虎口状地形a→Ⅳ郭になっていたように見えました。山下から小平場①への道は不明でしたので、道Cの適当なところをエィヤッ!と登りました。

中上城 道Cを登りきると工場裏の歩く道に出る ここからも城址に入れる
 今回の見学では道Cをトーヨータイヤ工場の裏手迄車で行きました。思ったよりも道が狭かったので危険を感じましたが、そのまま行くしかなくアクア号転落の恐怖を味わいました。見学は三孤川沿いの駐車スペースに駐車しての安全な見学をお勧めします。

中上城 三孤川の北側から城址全景  橋の手前に駐車!
 道Cは舗装されていましたので、車で進みましたが、先に行くと狭くなり恐怖を味わうことになりました。

中上城 虎口地形a 手前に 小平場①からの城道  北下から
 城道は踏跡を小平場①から辿ると虎口地形aに出ました。Ⅳ郭には明瞭な土塁は見当たりませんでした。もともと無かった可能性もありそうでした。

中上城 Ⅲ郭北西隅の土塁 北から
 Ⅲ郭は北辺と西辺の土塁が残存していました。風化の為か元々の姿かわかりませんが、輪郭が曖昧な状態でした。

中上城 Ⅱ郭-Ⅲ郭間の虎口b 南から 奥下にⅢ郭
 Ⅲ郭からⅡ郭へは虎口bを登りました。Ⅳ郭からⅢ郭へ登る通路は明確ではありませんでしたが、虎口bの通路はわかりやすかったです
中上城 Ⅰ郭南辺の堀と土塁 西から
 今は工場となっている段丘上の広い平面とⅠ郭を断ち切るために、堀切⑥とその両側に掻き揚げ土塁⑤と⑦が設けられていました。

中上城 Ⅰ郭に祀られている墓 現役のようだ
 Ⅰ郭にはお墓が祀られていました。後世のお墓らしく、今も現役のようでした。道Cが狭いながらも整備されているのは墓参の道だからかもしれません。写真のようにⅠ郭の、お墓の周りはきれいになっていましたが他の部分はほぼ竹林でした。

中上城 道C途中の城趾碑 「花戸城の跡」とある
 道Cの途中に写真のような立派な城址碑が立っていました。城址碑のいわれは判りませんが他には見られない丁寧な作りですね。ここでは花戸城となっていますが資料⑴では中上城と花扉城が併記されていました。

中上城は曲輪の面積
がありましたので、居館があった可能性もありそうでした。落城の後に中上の集落内に遍崇寺を建立したと伝わることを考えると戦わずして城を明け渡した。加工が不十分な地形もありA地点付近に堅固な堀と土塁を築いて村の支配をする力が無かったのかもしれない。明応の頃では標準的な城郭だったのかもしれない。などの想像を膨らませながらの見学で大いに楽しめました。