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六呂木城 伊勢 和歌山街道の古道を抑える城郭か 今は果樹園で改変がある

2025-01-14 | 歴史

六呂木城は三重県松阪市六呂木町のあります。城主は六呂木氏と伝わり、城域はミカン園に開墾され、往時の遺構はかなり改変されていました。城址の東下には五箇篠山城に通じる古道が通っていましたので、街道を抑える役割があった城の可能性がありそうです。六呂木城は天正期に五箇篠山城の北畠具親に与して、侵攻する織田軍との戦いに敗れたと伝承されます。今回の参考資料は (1)「松阪の城50選」松阪の城50選編集委員会編 2019 (2)「三重の中世城館」三重県教育委員会1976 (3)三重県埋蔵文化センター小片野新田遺跡発掘情報 などです。

六呂木城 小片野城とセットで和歌山街道の古道を抑えていたか
 資料(3)には小片野城と古道が示されており、六呂木城とセットで古道を抑え、南下する織田軍に備えていたのではないかと想像しました。

六呂木城 和歌山街道から大通寺脇の細い道を入る 入口に案内板が立つ
 六呂木集会所に車を止め見学に向かいました。大通寺の脇に細い道がありここに案内板が立っていて、登城路の入口でした。

六呂木城 登城路入口に立つ案内板

六呂木城 道aが登城路 城跡はミカン園で改変された
 改変された城址の地形からは、往時の姿を想像するしかありませんでしたが、①が主郭と考えられ一段高い②、平場Bを挟んだ平場Aなどに曲輪の面影が残るように思いました。平場Bはミカン園で開墾され中央に農道が通る広い平場となっていました。

六呂木城 つづら折りの道 後世の道かも
 開墾された城域に登る道はつづら折りの道で、城道といってもいいような雰囲気でしたが、ミカン園に係わる近年の農道かもしれません。

六呂木城 城域はミカン園として開墾された
 ミカン園として開墾され、城郭遺構はかなり削り取られ、農道が整備されていました。

六呂木城 主郭とされる平場① 南東から
 六呂木城は開墾されてミカン園になったとされますが、現在は多くがミカン園としては使われていないように見受けられました。

六呂木城 ①と南側の帯曲輪状の地形 右上に平場①
 主郭とされる平場①南辺と東辺には腰曲輪状の地形が取巻いていました。遺構の名残かもしれませんね。

六呂木城 左に平場① 右上に平場② 中央に浅い堀切地形 北から
 平場②は平場①よりも一段高い位置に在り、いかにも櫓台のような地形でした。浅い堀切地形は、もっと深い堀切だったかもしれないと想像しましたがどうでしょう。

六呂木城 平場② 北西から
 ②は平場といっても不整形の地形で、上面が削られたように見えるのは開墾が途中で中止されたようでもありました。

六呂木城 腰曲輪⑦ 北から
 腰曲輪⑦は往時の曲輪地形が残っているように見えました。開墾された広い平場Bの端部にあたりますが、往時の地形との関連は不明でした。

六呂木城 手前に平場B 奥上にA 南から
 平場Aもミカン園の開墾が行われたようですが、写真で見るように段差地形などが、城郭遺構の雰囲気でした。

六呂木城 平場B 北辺の崖 左下に沢が流れる
 六呂木城は北に向かって備えた城郭と思われますので、北側の沢にほぼ直角に切れ落ちた崖地形は、その備えとして有効だったのではないでしょうか。崖は一部が沢に崩落してオーバーハング状態でした。

六呂木は「ろくろぎ」の地名から、山深い木地師の里が想像されますが、戦国期には北畠氏と織田軍の争いの最前線となったと思われます。ミカン園として開墾され城郭遺構の残りは良くなかったですが、古道を抑える城郭としての往時の姿を想像をたくましくして思い描いて楽しむ見学となりました。