長野氏城(長野城)は三重県津市美里町にあります。長野氏城の東側にある長野城を長野氏城、細野城と呼ぶ場合もあるようで混乱しますが、ここでは参考資料(1)の呼び方で記述したいと思います。城は標高540mの山上にあります。桂畑から林道瀬戸線→高狭ヶ野林道経由で城址へ車で到達する林道がありますが、今回は麓の中野集落にある中野文化会館に駐車して比高約370m、距離約2.3㎞の登城路を歩いて登りました。なお林道は大雨などで、しばしば通行止めになっていますので、林道経由で訪れる場合は事前に「津市美里総合支所」に電話で確認をお勧めします。今回の参考資料は (1)「三重の山城ベスト50を歩く」福井健二・竹田憲治・中井 均編 2012 (2)「三重の中世城館」三重県教育委員会1976 などです。
長野氏城 登城路を歩いて登る 比高370m、距離2.3㎞
a地点の中野文化会館を出発、b地点の道標から山道に入り、山畑跡の道を登り林道終点Cの合流点から、尾根道dを登り平尾根eに出ました。登城路には道標が何カ所か立っていましたが、GPSで方向確認をしながら登りました。特に下りは分岐が何カ所もありますので、間違った谷筋に迷い込まないためにGPSが必要だと感じました。
長野氏城 地点bの登城路入口 道標が立つ 「長野城跡」とある
道路から登城路への入口にはどうh地yが立っていました。資料⑵では「長野城」とありましたので、ヒョットすると地元では長野城と呼んでいるのかもしれません。
長野氏城 登城路脇の山畑跡
山裾の登城路の脇にはいくつもの山畑跡が見られました。近年までは農道と山仕事の道を兼ねていたようですね。
長野氏城 林道の終点 C地点に出た 道標が立つ
車の通れる林道がここまで敷設されていました。この林道途中の整備状況はわかりませんでした。ここからは本格的な山登りになりました。
長野氏城 城域には鉄塔の保守道も併設されている
登城路を登って来ると、平尾根アに出ました。削平されていないかもしれませんが、城域の一部と見てもいいような平場地形でした。平尾根イには送電線の鉄塔が建っていて足元まで保守道が設けられていました。城域西側の高狭ヶ野林道終点gには駐車場が設けられていました。保守道はここにつながっていました。
長野氏城 鉄塔の立つ平尾根イ 奥に城址
平尾根イには送電線の鉄塔が建っていて足元まで保守道が設けられていました。この平尾根は鉄塔工事で改変されていますので原形は不明ですが、遺構の平場が在ったかもしれないと思わせる地形でした。登城路は保守道と重なっていました。
長野氏城 土橋1 城郭遺構ではなさそう 北東から
鉄塔の建つ平尾根イから城域の間の谷地形には土橋が設けられていました。いかにも城郭遺構のようですが、保守道として整備されたようです。
長野氏城 土橋イ 側面の石垣
城郭遺構のように見える現況の土橋イは石垣で補強された鉄塔の保守道のようでした。ただし、往時の登城路もここを通っていたと思われますので、城郭遺構としての土橋もあったのではないかと想像しましたがどうでしょう
長野氏城 Ⅰ郭(主郭)を取り巻くように何段もの帯曲輪状の平場が設けられている
登城路と保守道2は重なっている部分がありました。西側の高狭ヶ野林道側には往時の城道は無かったと思われ二重の堀切A,Bで尾根を断ち切っていたと考えられます。
長野氏城 枡形状の地形3 左に保守道 右上に平場2 北東から
地形3の平場は保守道によって削られているようですが、ここは登城路を抑える重要な場所ですので平場2を削り込んだ枡形状の遺構が在ったのではないかと勝手な想像をしてみました。
長野氏城 平場4と5 平場2から見る
登城路を抑える重要ポイントの平場2の南東尾根には2段の平場4と5が築かれていました。枡形地形3とセットで登城路からの侵入を抑える厳重な設備があったように思いました。
長野氏城 保守道と城道の接点6に立つ道標
長野氏城の登城路には所々に道標が建っていました。城域内にも写真のような道標が立っていました。城道と保守道が重なっている場所、並行している場所などもありました。
長野氏城 平場7に立つ城址碑と案内板 南西から
接点6からの城道を登ると平場7に出ました。ここに城址碑と案内板がありました。Ⅰ郭の東側には三段の平場と切岸が設けられていました。
長野氏城 平場7南端部 右上にⅡ郭 北東から
Ⅰ郭東側の地山の傾斜は緩く、平場の切岸も緩やかに見えました。風化によってかもしれませんが、東側の緊張感が少なかった為かもしれないと想像してみました。
長野氏城 Ⅰ郭 東から 奥に土塁
長野氏城は伊賀方面(西側)を意識した時期が有ったようで、西尾根を断ち切る2条の堀切や何段もの切岸と平場が設けられ、Ⅰ郭の西側には幅広の土塁が設けられていました。写真の様に、Ⅰ郭の削平は丁寧でした。
長い登城路を登りヤット主郭に到達しました。Ⅰ郭西側の遺構については、その2として掲載予定です。