長野氏城(長野城)は三重県津市美里町にあります。長野氏城の東側にある長野城を長野氏城、細野城と呼ぶ場合もあるようで混乱しますが、ここでは参考資料(1)の呼び方で記述したいと思います。今回の参考資料も (1)「三重の山城ベスト50を歩く」福井健二・竹田憲治・中井 均編 2012 (2)「三重の中世城館」三重県教育委員会1976 などです。※登城路と周辺地形についてはその1をご覧ください→こちら
長野氏城 西側と北東の守りが厳重に見える
登城路のある北東側の尾根と西側尾根の守りが厳重だったように見えました。
長野氏城 高狭ヶ野林道終点g 西から 駐車場になっている 奥に城址
高狭ヶ野林道経由で来ると城址の西側に隣接する駐車場に到達します。 今回は登城路の見学も楽しみたいと思い東側から歩いて登りましたが、城趾見学だけならばここまで車で来ることが出来ます。
長野氏城 堀切B 南から 左に駐車場
城趾の西側尾根を断ち切り堀切は2条あったようですが、堀切Bは駐車場の造成時に改変を受けたようにみえました。
長野氏城 堀切A 幅広だが浅い
堀切Aは幅広の堀ですが写真の様に、風化によっていくらか埋まっているとしても、現況は浅い堀でした。岩盤に阻まれて深い堀が掘れなかったかもしれません。
長野氏城 Ⅰ郭北東下の平場11 東から 左上にⅠ郭
Ⅰ郭西側には3段の平場と二条の堀切ABが設けられ、西側尾根からの侵入に厳重に備えていたように見えました。写真の部分は急角度で高い切岸を造り出すために削った平場の様でした。
長野氏城 Ⅳ郭 奥上にⅠ郭 西から
Ⅳ郭はきれいに削平されていました。Ⅰ郭の切岸は東側よりも急角度でハッキリしていました。ここには西側に備える将兵が配置されていたのではないでしょうか。
長野氏城 Ⅰ郭南西隅土塁下の切岸 右に通路14 奥にⅢ郭
Ⅰ郭南西隅の切岸は長野氏城としては急角度で高く、見ごたえありでした。現況は通路14でⅢ郭とⅣ郭が繋がっていますがヒョットすると、往時は通路14は無かったかもしれませんね。
長野氏城 Ⅲ郭 東から 右上にⅠ郭
Ⅲ郭はⅠ郭の腰曲輪といえる、きれいに削平された幅の広い曲輪でした。左手にⅠ郭の切岸が見えていますが、戦国期の一般的な切岸と比べると角度が緩やかのようでした。
長野氏城 平場7北端部らⅡ郭への見学路
往時はこの付近に城道があったかもしれませんが、現況は見学路として階段が整備されていました。
長野氏城 Ⅱ郭からⅠ郭への通路13は虎口か
Ⅰ郭の北東隅の幅広の坂13はⅠ郭の虎口跡で、Ⅱ郭からⅠ郭への通路があったと解釈してみましたが、現況はなだらかで幅広の坂道でした。
長野氏城 Ⅰ郭 西辺の土塁10 南から 見どころです
Ⅰ郭の北、西、南を巻くように幅広の土塁が設けられていました。その存在感はなかなかのもので、ここに柵列が建ち、西からの侵入に備えたのではないかと想像してみましたがどうでしょう。
長野氏城 平場7に立つ案内板
美里町は合併に伴い津市美里町となりました。ここでも長野氏城と長野城が併記されていました。
長野氏城は山上に残された南北朝期の雰囲気を保っている山城ということで、往時の登城路に沿っていると思われる山道を登って見学しました。送電線の鉄塔と保守道で一部の改変があるようでしたが往時の雰囲気を味わいながら城趾の見学も出来て良かったです。
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