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奥殿陣屋 三河 幕末の絵図などから大給松平氏の陣屋と周辺の姿を想定する

2022-10-18 | 歴史

奥殿陣屋は愛知県岡崎市奥殿町にあります。かつてこの地域を支配した大給松平氏一族の陣屋は、当初は大給城のある豊田市大内町にありましたが、狭小だったため後に岡崎市奥殿町に陣屋を移しました。さらに後年、信濃 田ノ口に陣屋を移し五稜郭で知られる龍岡城を築きました。田ノ口ヘ陣屋を移動したため奥殿陣屋は代官による管理となり明治まで存続したとされます。近年道路の新設、圃場整備などで陣屋の原形の多くが失われましたが、明治の陣屋の資料、郷土史家の書籍などが残されていましたので、陣屋と周辺を見学し往時の姿を想定してみました。
 今回の参考資料は (1)「奥殿陣屋よもやま話」 城殿輝雄1990  (2)「奥殿陣屋のすべて」城殿輝雄1995  (3)奥殿陣屋資料展示室の図 などです。 現在の奥殿陣屋は、一部の建物が復元整備され愛知県岡崎市公式観光サイトで紹介されていますのでご覧ください。 ※龍岡城は→こちら       愛知県岡崎市公式観光サイトは→こちら


奥殿陣屋 陣屋遺構は一部が復元されたが道路や圃場整備で失われた部分も多い
 資料(1)、(2)、(3)などを参考にして往時の陣屋敷地を想定してみました。併せて周辺の史跡も見学して想定・加筆しました。陣屋中央部が近年の道路敷設で分断されたのがわかりました。勝見山は第十一代藩主松平乗謨が幕府の陸軍奉行となりフランス流の軍制を試すため藩士の訓練をした場所とされ、日々 大砲の音が近隣に鳴り響き「奥殿大砲」といわれました。龍岡城には砲台とされる場所がありますが、乗謨は奥殿にいるときから取り組んでいたということですね。


奥殿陣屋 幕末当時の奥殿陣屋全景 ※奥殿陣屋資料展示室
 資料展示室には奥殿陣屋と大給松平氏に関する諸資料の展示があります。大給松平十一代当主の松平乗謨に関する資料も豊富です。藩士の数に比べて奥殿陣屋が手狭で、より広い田ノ口へ陣屋が移されたとされます。図の左上隅に番太小屋が描かれているのが目を引きます。


奥殿陣屋要図 ※奥殿陣屋資料展示室
 資料によると、幕末の奥殿陣屋には代官3名、士分9名、御典医1名 ほかに隣接して宿郷1軒があったとされます。藩主とほとんどの藩士は田ノ口へ移り、奥殿の管理のため最小限の要員が残されていただけのようです。明治維新後にはその藩士たちのほとんどが東京へ移り陣屋は終焉を迎えたようです。


奥殿陣屋 幕末の想定図
 資料を参照すると、札の辻から大手門に至る大手道は途中のに枡形があり「見付」と記されていました。近年の圃場整備により大手道は消滅しました。番太小屋の場所には牢屋と牢番の小屋が在ったようですが、位置は不確かです。


奥殿陣屋 札の辻 付近から陣屋の大手門方面を見る
 近年の圃場整備で大手道や枡形は消滅したようです。写真右上に338号線が通っています。


奥殿陣屋 大手門付近 今は338号線が通る  右手に整備された奥殿陣屋
 338号線の開通によって大手門付近で陣屋は分断され、生活道路も新設され陣屋の原形は想定が難しくなっていました。


奥殿陣屋 陣屋北辺の通用門付近  西から
 陣屋の敷地は築地塀で囲まれ、大小のいくつかの門がありました。現存する門はなさそうですが、いくつかの門はおよその場所が想定できました。写真の陣屋北辺の築地塀の北側には古い道が残っていました。この辺りに通用門が在ったと思われます。


奥殿陣屋 歴代藩主の廟所
 陣屋の南側の山沿いには歴代藩主の廟所が残されていました。資料によると、近年になって整備されるまではブッシュの中で荒れ放題だったそうです。


奥殿陣屋 陣屋と廟所の間の土塁と堀 西から
 現地には「土塁」の表示板がありましたが、陣屋が設けられた時代に防御機能としての土塁が必要だったのか疑問が残りますね。ヒョットすると、廟所のある山側からの水を遮るための施設だったのかもしれないと思いましたがどうでしょう。


奥殿陣屋 七神宮
 資料によると、以前は七社の木製の祠が付近に祀られていたそうですが、傷みが激しいので近年になって石造りの小祠にしたそうです。祭神が明確でなかったようで、まとめて七神宮と称してお祭りしているようです。


奥殿陣屋 番太小屋   この付近だが位置が不明確
 図2の北東に番太小屋が在ったようですが、およその位置しかわかりませんでした。罪人の牢屋は陣屋から離れてた村外れに在ったということは間違いなさそうですね。


奥殿陣屋 林宮寺跡 一時はゲートボール場だった
 林宮寺は藩主の菩提寺として建立されましたが、幕末以降は陣屋に藩士もほとんど東京に去り、寺の維持が難しくなり、明治に入って廃寺となったようです。


奥殿陣屋 林宮寺墓地 第八代藩主 松平乗尹の墓
 林宮寺墓地には松平乗尹の墓が祀られ、周囲にはそれを囲むように藩士の墓と林宮寺の歴代住職の墓もありました。


奥殿陣屋 桑原港跡 「塩の直上げ」が行われた
 矢作川の支流である巴川が大きく曲がる岩場に桑原港がありました。近年下流に農業用水のダムが出来たため、港跡は水中に没したと思われます。往時は矢作川に番所が設けられ、運ばれる塩などに通行税がかけられていましたが、大給松平家は家康ゆかりの家門であったためか、特別に塩の通行税なしで桑原港から荷揚げされ「塩の直上げ(じかあげ)」と言われたようです。
 
奥殿ゆかりの龍岡城を往復500㎞超の日帰りで見学し、改めて地元にある奥殿陣屋を観光目的以外で訪れたことがなかったのに気づき、資料を参照して見学しましたが、意外に多くの大給松平氏関連の史跡など残り楽しく見学出来て良かったです。