大平(おおだいら)本城は愛知県豊田市大平町にあります。その1では主郭の南側を中心に見学しましたが、その2では主郭と城域の北側を見学したいと思います。今回の参考資料は(1)「藤岡・小原・旭の中世城館」愛知県中世城郭研究会1993 (2)「愛知県中世城館跡調査報告2」愛知県教育委員会1994 (3)「愛城研報告 第16号」 三河・大平城の縄張 高田 徹2012 と東海古城研究会の「小原市場城と大平本城・姫城」城見学会資料2023 などです。※大平本城その1は→こちら 大平姫城は→こちら
大平本城 本城と姫城で市場古城と同様のU字形の尾根の内側に居館があったのか
鈴木氏(鱸氏)が小原地区に侵入した当初は市場古城に入ったとされます。市場古城は北側の背後に馬蹄形の尾根を背負った立地となっていたとされます。大平城も本城と姫城の尾根に挟まれたU字型の立地に城主の館があったのか確認したいと思います。
大平本城 昭和49年の空中写真 城址北部の空白部分K が気になる
昭和49年の空中写真を見ると城域の北側尾根に広い面積の空白部分が写っていてとても気になりました。資料(1)に記載された宅地造成がこれにあたる可能性がありそうでしたのでここも確認しました。
大平本城 道エをたどって谷奥を見学する
大平本城と姫城間の谷地形を道エに沿って途中の遺構を見ながら谷奥まで見学しました。
大平本城 道エ沿いの堀切Hの西端部 西から
大平城の西側の尾根裾部分は道エの工事によって一部が削られて遺構も改変を受けているようでした。写真の堀切Hの西端部と思われる地形も道エによって削り取られていると思われます。
大平本城 平場K 北から 奥にⅠ郭
平場Kは宅地造成でⅠ郭北側を削った平場とされ、東辺部分は山境の為か土塁状の削り残しがありました。
大平本城 平場K南端部 奥上にⅠ郭 北から
Ⅰ郭の北側には立派な堀切があったようですが、宅地造成で削りとられて今は見ることが出来ませんでした。
大平本城 堀切H上端部 西から 奥に平場K
今は失われた堀切30は尾根の西側に竪堀状に堀切Hとなって下っていたようです。写真の部分が堀切Hの上端部のように見えました。
大平本城 堀切H 残存部分 東から
堀切Hは尾根の西側斜面に竪堀状に設けられていたようです。現況は堀切Hと思われる地形の北側が削り取られて写真のような地形が残っていました。
大平本城 道ア 途中に帯曲輪状の広い部分がある 南から
Ⅰ郭の東側の道アの途中には帯曲輪状の平場が在り、Ⅰ郭へ登る道キの踏跡がありました。現在Ⅰ郭へ登る道は道カがメインになっていますが、往時の登城路はキだった可能性もありそうでした。
大平本城 Ⅰ郭の大土塁A 南から
道キからⅠ郭に登ると大土塁Aの南端部に出ました。往時の大土塁はⅠ郭東辺全部に設けられていたのではないかと想像しましたがどうでしょう。
大平本城 大土塁A 南西から 奥上が櫓台 人物と比較 見どころです
Ⅰ郭の大土塁は尾根を削り残した土塁のようで、東向きに厳重に備えたと思われます。
大平本城 大土塁Aの櫓台 南から
大土塁Aの北端部は幅広になっており櫓台だったとされます。特別な遺構は見当たりませんでしたが東側の谷や北側の尾根を監視するには最適と思いました。
大平本城 Ⅰ郭北辺の土塁状地形31 南西から
Ⅰ郭の北辺には土塁状の地形31があり、大土塁Aの櫓台Jに登る通路状の遺構に見えましたが資料⑴によると上下二段になっていたⅠ郭の平場の上段部の削り残しとありました。
大平本城 Ⅳ郭 南から 右上にⅠ郭
Ⅰ郭の西側斜面には幾段もの平場が残されていました。後世に耕作地としても利用されたようですので、すべてが往時の遺構とは言い切れないようです。
大平本城 平場15の浅い土坑 南から
平場15には浅い土坑が3ヶ所ありました。ほとんど埋まった状態でしたが、往時の遺構か後世の耕作地に関連するものかは判断できませんでした。発掘調査をすれば判明するかもしれませんね。
大平本城 竪堀D 東上から
竪堀Dは上下二段になっていて、下段が広くなっていました。往時は尾根裾まで続いていた可能性がありますが、現況の尾根下端部は削られていました。
大平城の居館が本城と姫城のU字型尾根で囲まれた立地については、概ねそのようにも見えましたが両城の城址の北側の尾根にしっかりした堀切と竪堀が設けられていましたので、U字型の備えとは異なる守りの発想だったかもしれないと思いました。大平本城は往時の遺構がしっかり残されている中で、後世の改変の様子も確認でき、興味深い見学となり良かったです。