マイ・リトル・タウン My Little Town (1975年)
先日、録画してあったこの番組を観た。
>復活 〜サイモン&ガーファンクルとセントラルパーク〜
初回放送日:2024年9月2日
1981年9月、ニューヨークで伝説となるコンサートが開催された。この街で生まれ育ち、街の姿を歌に紡いできたサイモン&ガーファンクルの復活コンサート。しかし当時、二人は10年に及ぶ解散状態にあった。そして舞台となったセントラルパークはニューヨーク市の財政危機から荒廃、治安も悪化し、窮地に陥っていた。セントラルパークを救うため二人を同じステージに立たせるプランが浮上。復活と再生をかけた二つの物語。
このコンサートは、その後レーザーディスクとなって、擦り切れる(実際にはそんなことはない)ほど鑑賞した。
それはチュー太郎を開店して間もない頃、私もまだ20代だったので、同年代の常連さんとよく一緒に眺めたものさ。
私が初めてこの曲を耳にしたのは、1975年の暮れも押し詰まった、朝日新聞中村橋販売店3階の自室だった。
事前に、当時愛読書だったFMレコパルの記事によって、サイモンとガーファンクルの特集がNHK-FMであるということを察知していたので、エアチェックしてた。
当時は、今の様にネットも無ければラジコもない。
なので、ただひたすら電波状態の良い番組をカセットテープデッキで録音して、マイライブラリーにする習慣がついていた。
そして、その特集の最後に、ナレーターが【たった一度の復活で出来上がった曲】として紹介したのが、この曲だった。
以来、そのいきさつも相まって、とても好きな曲となった。
今朝も今朝とて、【プレイリスト・ウォーキング】の中から流れ始めたこの曲を背景に、垣生の海を眺めながら思ったことは。
『オマエ、あの頃に帰りたいか?』
ということ。
『そりゃあ、戻れるものなら戻りたいさ。だって、19歳で、これからトーキョーで生きて行くんだぜ』
と、あの頃の私なら答えただろう。
でも、今の私は、
『どうせ同じことの繰り返しさ』
と、思うことにしている。
と、この流れで、後はそこから派生する思いを脳内で文章化してゆく作業が始まる。
これは、私の習性と言っていい。
即ち、当時のその場所。
朝日新聞奨学生となった私が派遣されたのは、西部池袋線で池袋から五つ目の中村橋というところだった。
駅から、十三間道路と呼ばれる幹線を跨いだ、富士見女子高校の手前にそれはあった。
4階建てだが、細いので、まるでマッチ箱を立てたような古いビル。
明治大学一年生の一年間、私はここで暮らした。
私に宛がわれたのは、階段を挟んで、トイレの反対側にある三畳程度の狭い部屋だった。
そのほとんどを二段ベッドが占めていて、下段にステレオセットやモノクロテレビ、上段がベッド、そして、冬場は残った少しのスペースに炬燵を置いて、余暇のほとんどをそこで過ごした。
夏場は、屋上に出る通路のドアを開け放って風を入れ、その踊り場にディレクターズチェアを置いて読書に耽った。
今でも記憶にあるのは、吉本隆明(ばななの親父)の難解な本。
しかし、なんでそんな本にトライしたのだろう?
もしかすると、大学の図書館で借りたものなのかも知れないが、その図書館の記憶が全くないので、かなり怪しい。
その踊り場には共同洗濯機があって、皆が順番に利用し、外(屋上)の物干し場に干したのではなかったか。
とすると、その洗濯待ちの読書だったのかも。
しかし、その屋上の様子や、そこから見下ろす風景の類(たぐい)の記憶は、やはり皆無。
人の記憶とは、事程左様に曖昧模糊。
そうした思い出は多々あれど、ここでその詳細を書き上げる気力はないので、この辺りに留める。
何が書きたかったか?
それは多分、
あるトリガーから展開される記憶の数珠繋がり。
そんなことを今朝、歩きながら考えた・・・のかな?
そして、ありがとう、我が人生、そして袖触れ合った人達。
そんなところなのかも知れない・・・
追記
たふぜんのことながら、ストリートビューで見る限り、そのマッチ箱は、今はもう存在しない。
どころか、販売店すらも移転したようだ・・・
先日、録画してあったこの番組を観た。
>復活 〜サイモン&ガーファンクルとセントラルパーク〜
初回放送日:2024年9月2日
1981年9月、ニューヨークで伝説となるコンサートが開催された。この街で生まれ育ち、街の姿を歌に紡いできたサイモン&ガーファンクルの復活コンサート。しかし当時、二人は10年に及ぶ解散状態にあった。そして舞台となったセントラルパークはニューヨーク市の財政危機から荒廃、治安も悪化し、窮地に陥っていた。セントラルパークを救うため二人を同じステージに立たせるプランが浮上。復活と再生をかけた二つの物語。
このコンサートは、その後レーザーディスクとなって、擦り切れる(実際にはそんなことはない)ほど鑑賞した。
それはチュー太郎を開店して間もない頃、私もまだ20代だったので、同年代の常連さんとよく一緒に眺めたものさ。
私が初めてこの曲を耳にしたのは、1975年の暮れも押し詰まった、朝日新聞中村橋販売店3階の自室だった。
事前に、当時愛読書だったFMレコパルの記事によって、サイモンとガーファンクルの特集がNHK-FMであるということを察知していたので、エアチェックしてた。
当時は、今の様にネットも無ければラジコもない。
なので、ただひたすら電波状態の良い番組をカセットテープデッキで録音して、マイライブラリーにする習慣がついていた。
そして、その特集の最後に、ナレーターが【たった一度の復活で出来上がった曲】として紹介したのが、この曲だった。
以来、そのいきさつも相まって、とても好きな曲となった。
今朝も今朝とて、【プレイリスト・ウォーキング】の中から流れ始めたこの曲を背景に、垣生の海を眺めながら思ったことは。
『オマエ、あの頃に帰りたいか?』
ということ。
『そりゃあ、戻れるものなら戻りたいさ。だって、19歳で、これからトーキョーで生きて行くんだぜ』
と、あの頃の私なら答えただろう。
でも、今の私は、
『どうせ同じことの繰り返しさ』
と、思うことにしている。
と、この流れで、後はそこから派生する思いを脳内で文章化してゆく作業が始まる。
これは、私の習性と言っていい。
即ち、当時のその場所。
朝日新聞奨学生となった私が派遣されたのは、西部池袋線で池袋から五つ目の中村橋というところだった。
駅から、十三間道路と呼ばれる幹線を跨いだ、富士見女子高校の手前にそれはあった。
4階建てだが、細いので、まるでマッチ箱を立てたような古いビル。
明治大学一年生の一年間、私はここで暮らした。
私に宛がわれたのは、階段を挟んで、トイレの反対側にある三畳程度の狭い部屋だった。
そのほとんどを二段ベッドが占めていて、下段にステレオセットやモノクロテレビ、上段がベッド、そして、冬場は残った少しのスペースに炬燵を置いて、余暇のほとんどをそこで過ごした。
夏場は、屋上に出る通路のドアを開け放って風を入れ、その踊り場にディレクターズチェアを置いて読書に耽った。
今でも記憶にあるのは、吉本隆明(ばななの親父)の難解な本。
しかし、なんでそんな本にトライしたのだろう?
もしかすると、大学の図書館で借りたものなのかも知れないが、その図書館の記憶が全くないので、かなり怪しい。
その踊り場には共同洗濯機があって、皆が順番に利用し、外(屋上)の物干し場に干したのではなかったか。
とすると、その洗濯待ちの読書だったのかも。
しかし、その屋上の様子や、そこから見下ろす風景の類(たぐい)の記憶は、やはり皆無。
人の記憶とは、事程左様に曖昧模糊。
そうした思い出は多々あれど、ここでその詳細を書き上げる気力はないので、この辺りに留める。
何が書きたかったか?
それは多分、
あるトリガーから展開される記憶の数珠繋がり。
そんなことを今朝、歩きながら考えた・・・のかな?
そして、ありがとう、我が人生、そして袖触れ合った人達。
そんなところなのかも知れない・・・
追記
たふぜんのことながら、ストリートビューで見る限り、そのマッチ箱は、今はもう存在しない。
どころか、販売店すらも移転したようだ・・・
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