宝島のチュー太郎

酒屋なのだが、迷バーテンダーでもある、
燗酒大好きオヤジの妄想的随想録

やりすぎた

2021年04月28日 12時31分48秒 | 徒然
 今度の定休日には庭の草を刈ろうと決めていた昨日。
朝、ちょっとゆっくりして、午前10時頃から始める。

 いつもなら、ブルートゥース・スピーカーなんぞを持ち出して、朗読や落語を聴きながらやるんだけど、昨日は思索することにした。
何の思索?
それは、我がショーバイの今後と「生きる」ことについて。

 なんで生まれてきたのか、なんで生きているのか、幸せとは・・・
多分それは「楽しむ為」なんやなかろか。
とすれば、「何かを為す」とか、「何かに成る」必要はない。
ただ、「今ここ」を精一杯楽しめばいいんだ。

 しかし、楽しむったって、一体何をどう楽しめばいいんだ?
そういう時は、目標を持てばいい。
例えば、金持ちに成る、有名に成る、尊敬される人物に成る、女にもてる男に成る・・・
それは、人によってマチマチだろう。
その目標に向かって努力することと、勝ち癖をつけ、結果を出すことで、自己承認欲求が満たされる。
その過程が、「退屈しない」人生を醸し出す。

 もう一度しかし、そこに価値を見出さない人間、即ち、「退屈しない」人間は、草刈りに喜びを見出したっていいじゃないか。
草を刈る庭がある、お日様に見守られている、いい風が吹く、そしてオレは元気だ。
こんなに幸せな事があろうか。

 例えば、今の環境に満足できないなら、そこから脱却する努力をすればいい。
でも、今が幸せなら、それでいいじゃないか。
そんな歌あったな。

 朝起きて夜眠る、そうした瞬間の繋がりの中で、「今ここ」をいつも完全燃焼出来るなら、こんな幸せなことはない。
そう達観できたなら、生まれてきた甲斐がある。


 そう理解出来れば、「死ぬのもひとつ」ということになる。
あまり大きな声では言えないが、「いつ死んでもいい」というのは、そういうことなんじゃないだろうか。

 とすれば、私は今幸せだ。




 などと自問自答しながら5時間余り、しゃがんだまま、草を刈って、その後草を抜く。
そして、庭の隅に深めの穴を掘る。
これは、生ごみ捨て場として、還土(そんな単語は無い)させる穴。
なるたけごみは出さないでおこうと考えた結果、紙ごみは風呂の焚きつけにして、生ごみはこうして自然に還す。







これ、庭のある田舎だから出来ること。
ならば実行しようと。



 そして今朝、猛烈に下半身がダルい。
やりすぎた・・・











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