今から70年前のことです。
1944年3月、鳥取県の磯部さんは「日本海軍第5根拠地隊第56警備隊」としてテニアン島に派遣されたそうです。
白爺は、この年の4月に引揚船に乗りましたから、約1ヶ月はすぐ近くで暮らしていたと思うと感無量です。
特にEmiiは、磯部さんたちが自宅の敷地内に「高角砲」を配備して、日々訓練に励んでいる姿を見ているので、更に懐かしく思っているようです。
この本は、磯部さんが1995年にテニアン島で生死の間を彷徨った思い出を記録にし、後世に残すために作成された本です。
(左端が磯部さんです)
磯部さんは1942年9月に大竹海兵団に志願兵として入団したそうです。
そして3ヶ月の海兵団基礎訓練が終了すると、戦艦大和に乗艦しトラック島などで南洋群島の防備をしていたようです。
戦艦大和を離れて1944年には「横須賀海軍砲術学校対空砲術高角砲科」を卒業し、直ちに第5特別根拠地付を命じられてサイパン島に配属されました。
しかし、すぐにテニアン島に配置換えになったようです。
テニアンの宿舎は当時のテニアン幼稚園ですが、今で言うとフレミングホテルです。
その本に当時のテニアン町の地図が掲載されていました。
テニアン島の地図は、「旧南洋群島と沖縄県人」(沖縄教育委員会発行)の冊子にも詳しく記されていますが、新旧いろいろな人の資料を基に作られているので、1944年当時の氏名とは少し違っているところがあると思います。
しかし磯部さんさんの本に載っている地図の氏名は、白爺が記憶している1944年の名前と全く相違ないように思え驚いています。
話を元に戻しましょう。
磯部さんがサイパン島からテニアン島に配置換えをされて、着任した時の様子が詳しく書かれていました。
テニアン島守備隊の配置図も掲載されています。
フレミングホテルの裏にある洞窟に造られていた「野戦病院」もはっきりと記されています。
Michiさん機会があったら又連れて行ってください。
磯部さんは、テニアン市長のお父さん・お母さんにもお世話になったと書かれていました。
白爺が昨年鳥取県へ旅行した時磯部さん宅にお邪魔して、88歳の元気な姿を写真に撮らせてもらいました。
「テニアン玉砕戦の生き字引」いつまでもお元気でお過ごしされるよう祈っています。
最後の写真以外は、磯部さんから頂戴した本から借用しました。
事後了承になると思いますが、宜しくお願いいたします。
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