白爺は、2006年4月に春田實行さんのことを書きました。
この方は、元日本海軍第1航空艦隊の航空兵で、テニアンの司令部にもいたことがある方です。
写真の下には、
「第一航空艦隊761航空隊龍陸攻隊搭乗員
昭和19年5月末当時原隊は南洋テニアン基地で奮戦中、私は補充搭乗員の練成訓練目的で鹿屋基地に派遣されていたが、戦場の危急で呼び戻され、途中千葉県木更津にて最後の写真として撮った」
と書かれています。
白爺達は、サイパン空港のローカル待合室で、はじめてお会いして話をしたのですが、その後今まで手紙や、自叙伝の本を頂き、お付き合いを続ずけていました。
8月30日にお孫さんからコメントが届き、春田さんがお亡くなりになったことを知りました。
心からご冥福をお祈りいたします。
そして、あらためて春田さんの足跡を振り返って見たいと思います。
前に紹介した春田さんの記事を一寸読んで見ましょう。
1944年2月17日。
第1航空艦隊龍部隊の春田搭乗員は、鹿屋基地で「テニアン向け先発隊として雷撃隊2個中隊18機をもって発進せよ」と命令を受けていた。翌朝5時中隊は鹿屋基地を発進し、雪降り積もる千葉県木更津航空基地に着陸した。
燃料補給と整備のため1泊して、19日早朝18機の一式陸攻は、編隊飛行でテニアン基地に飛び立った。
午後サイパン基地に到着したが、燃料補給と整備のため一泊した。珊瑚礁に打ち寄せる波を眺めながら浜辺を散歩したが、飛行機搭乗員は神経が麻痺しているためか、興味や感激を味わうことが出来なかった。
20日テニアン基地に到着したが、第一航空艦隊本隊を迎える準備があるので、21日までは準備に追われた。
22日昼頃、ようやく哨戒機の発進に漕ぎ付けた。
2時頃早くも敵機動部隊発見の電信が入り、「空母10数隻・戦艦8隻を基幹とする大部隊」と聞いてテニアン基地は俄然色めきたった。
飛行長は「陸攻18機を以って夜間雷撃を敢行し、敵を殲滅せよ」と訓令した。我々を援護する零戦隊虎部隊は、まだ鹿屋基地で訓練中で、テニアンに配属されていない。
我々は、丸裸の陸攻隊で出撃することになった。西の空が茜に染まる頃、機は上昇して東へ東へと進んで行った。
一機の陸攻機には6名の搭乗員が乗っている。6名は皆同じ運命を持っていた。
時が経つにつれ雲が流れ、視界が悪くなってきた。
雲上飛行なので敵の姿が見えないが、突然火炎と共に雲が紅色に染まった。
艦砲射撃の始まりである。碧い目のアメリカ人は視力が弱いと見縊っていたが、紅い炎は修正されつつ機に近ずいて来る。
敵は既にレーダーを使用していて、雲の下から我々を把握していたようだ。
ぐずぐずしていると一方的にやられるので、指揮官機から突撃突撃の信号が点滅された
雲を抜けて降下すると、敵の艦船が白い航跡を曳いていた。
我々の機は海面激突寸前で魚雷を投下した。
魚雷の成果は?と思うのだが、炎と煙幕で確認は出来なかった。漸く東の空が白む頃、テニアン基地に帰り着いた。
さて一眠りしようかと横になった途端空襲警報のサイレンがなった。サイパン方面の空を見上げると、一機又一機と帰ってくる我が僚機に向かって、F6Fグラマンが襲い掛かっている。身重の陸攻機は、真っ赤な炎を吹いたと思う瞬間爆発して、小さな破片になり飛び散っていった。
これが米軍得意の”送り狼戦法”である。
送り狼は、何より確かな索敵方法といわれていた。
鹿屋から転属してきた18機の陸攻機は、サイパンに1機テニアンに3機が帰ってきただけで、後の14機は太平洋の藻屑となってしまった。
白爺がテニアン島で初めて空襲に遭ったときの裏話は、このようなことだったようです。
丁度春田さんが夜間攻撃に飛び立った頃、テニアン町は空襲警報が発令されて、白爺達は隣組単位で集団になり、マルポ方面に避難をしました。
白爺達は、親しくしていた人がいたので、途中から集団と離れて今のマルポハイツのあるところに避難しました。
翌朝はマンゴーの木に登って、サイパン方面の空中戦を眺め、実弾演習をしていると最初は手を叩いてはしゃいでいましたが、
グラマンの機銃掃射を受けてサトウキビ畑の中に逃げ込んだ思い出があります。
春田さんはこの空襲の後、消耗した飛行機の補充を依頼するために、通常は硫黄島⇒木更津⇒鹿屋と飛ぶところを、燃料の補給をしないで直接テニアン基地から鹿屋基地へ飛んだそうです。
鹿屋基地には、第1航空艦隊が前線に移動したので、既に第2航空艦隊が編成されていたそうですが、海軍の機材も航空兵も少ないので、陸軍部隊から両方を工面して編成されていたそうです。
春田さんは、少しの飛行機を確保して、テニアン基地へ帰島すべく木更津まで来て燃料の補給をし、離陸の指令を待っていました。
しかし指令が発令されないので、整備兵に聞いたら
「サイパン島が連日艦砲射撃にあっているから待機している」
といわれたそうです。
結局この後サイパン上陸が始まったので、テニアン基地には帰ることが出来ず、ニューギニャ方面に転戦したが、そこで米軍の上陸にあって飲まず食わずの生活をしていたそうです。
幸い夜陰に乗じて撤退作戦のために近寄ってきた駆逐艦に乗船できたので、フィリピンのレイテ基地に落ち着いたといっていました。
レイテ基地でも、安穏に暮らしていたわけではないそうです。
昭和19年10月25日、春田さんはフィリピンのニコルス基地にいたそうです。
彼の手記です。
寺岡中将の後任に、第1航空艦隊指令長官大西滝次郎中将が着任し、第一回特別攻撃隊を発進させることになり、長官は次のように訓示されたそうです。
「諸子はすでに神である。帝国は今や危急存亡の瀬戸際に追い込まれるに至った。
それを救うか否かは若い諸子の双肩にかかっている。
この秋に至り諸子はよくぞ決心してくれた。
私は国民に代わって厚く礼をを言う。
諸子は最早肉親の情を断ち、一切の欲望を捨てて、ただ一つ皇国のためを思って尽忠の誠を尽くさんとする其の意気誠に天を突くが如くであり、諸子の名は永久に日本の歴史に残るのである。」
そして、特攻機発進の旗が振られた。
搭乗員は最後の敬礼をして、轟音を残して飛び立っていった。
見送る基地の兵も明日はまた後を追う特攻隊員である。
今考えると「何で・・」ということですが、其の時は日本人全部がこの思いだったと白爺は考えています。
余談ですが、特攻作戦を考えた大西司令長官は、1航艦司令部とともに台湾に転戦したがその後東京に帰り、終戦の翌日日本刀で割腹し付き人の介錯は拒み続ずけて自刃したそうです。
遺書には、
「特攻隊の英霊に申す。
よく戦いたり深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾となって散華せり、しかれどもその信念は達成し能はざるに至り吾死を以って旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす」
春田さんも、フィリピンを追われて、台湾に配属されたそうです。
台湾の話も沢山あるのですが、亡くなる前には、台湾人日本海軍兵(当時の台湾人は日本人であった)と九州地方の海軍兵の親善友好会の役員を務めておられ、靖国神社へ台湾・日本両方の方々が一緒にお参りして、戦死した戦友の冥福を祈っていたそうです。
春田さん ご冥福を心からお祈り申し上げます。
靖国神社の森で、戦死された戦友と共にゆっくり今の日本を話し合ってください。
この方は、元日本海軍第1航空艦隊の航空兵で、テニアンの司令部にもいたことがある方です。
写真の下には、
「第一航空艦隊761航空隊龍陸攻隊搭乗員
昭和19年5月末当時原隊は南洋テニアン基地で奮戦中、私は補充搭乗員の練成訓練目的で鹿屋基地に派遣されていたが、戦場の危急で呼び戻され、途中千葉県木更津にて最後の写真として撮った」
と書かれています。
白爺達は、サイパン空港のローカル待合室で、はじめてお会いして話をしたのですが、その後今まで手紙や、自叙伝の本を頂き、お付き合いを続ずけていました。
8月30日にお孫さんからコメントが届き、春田さんがお亡くなりになったことを知りました。
心からご冥福をお祈りいたします。
そして、あらためて春田さんの足跡を振り返って見たいと思います。
前に紹介した春田さんの記事を一寸読んで見ましょう。
1944年2月17日。
第1航空艦隊龍部隊の春田搭乗員は、鹿屋基地で「テニアン向け先発隊として雷撃隊2個中隊18機をもって発進せよ」と命令を受けていた。翌朝5時中隊は鹿屋基地を発進し、雪降り積もる千葉県木更津航空基地に着陸した。
燃料補給と整備のため1泊して、19日早朝18機の一式陸攻は、編隊飛行でテニアン基地に飛び立った。
午後サイパン基地に到着したが、燃料補給と整備のため一泊した。珊瑚礁に打ち寄せる波を眺めながら浜辺を散歩したが、飛行機搭乗員は神経が麻痺しているためか、興味や感激を味わうことが出来なかった。
20日テニアン基地に到着したが、第一航空艦隊本隊を迎える準備があるので、21日までは準備に追われた。
22日昼頃、ようやく哨戒機の発進に漕ぎ付けた。
2時頃早くも敵機動部隊発見の電信が入り、「空母10数隻・戦艦8隻を基幹とする大部隊」と聞いてテニアン基地は俄然色めきたった。
飛行長は「陸攻18機を以って夜間雷撃を敢行し、敵を殲滅せよ」と訓令した。我々を援護する零戦隊虎部隊は、まだ鹿屋基地で訓練中で、テニアンに配属されていない。
我々は、丸裸の陸攻隊で出撃することになった。西の空が茜に染まる頃、機は上昇して東へ東へと進んで行った。
一機の陸攻機には6名の搭乗員が乗っている。6名は皆同じ運命を持っていた。
時が経つにつれ雲が流れ、視界が悪くなってきた。
雲上飛行なので敵の姿が見えないが、突然火炎と共に雲が紅色に染まった。
艦砲射撃の始まりである。碧い目のアメリカ人は視力が弱いと見縊っていたが、紅い炎は修正されつつ機に近ずいて来る。
敵は既にレーダーを使用していて、雲の下から我々を把握していたようだ。
ぐずぐずしていると一方的にやられるので、指揮官機から突撃突撃の信号が点滅された
雲を抜けて降下すると、敵の艦船が白い航跡を曳いていた。
我々の機は海面激突寸前で魚雷を投下した。
魚雷の成果は?と思うのだが、炎と煙幕で確認は出来なかった。漸く東の空が白む頃、テニアン基地に帰り着いた。
さて一眠りしようかと横になった途端空襲警報のサイレンがなった。サイパン方面の空を見上げると、一機又一機と帰ってくる我が僚機に向かって、F6Fグラマンが襲い掛かっている。身重の陸攻機は、真っ赤な炎を吹いたと思う瞬間爆発して、小さな破片になり飛び散っていった。
これが米軍得意の”送り狼戦法”である。
送り狼は、何より確かな索敵方法といわれていた。
鹿屋から転属してきた18機の陸攻機は、サイパンに1機テニアンに3機が帰ってきただけで、後の14機は太平洋の藻屑となってしまった。
白爺がテニアン島で初めて空襲に遭ったときの裏話は、このようなことだったようです。
丁度春田さんが夜間攻撃に飛び立った頃、テニアン町は空襲警報が発令されて、白爺達は隣組単位で集団になり、マルポ方面に避難をしました。
白爺達は、親しくしていた人がいたので、途中から集団と離れて今のマルポハイツのあるところに避難しました。
翌朝はマンゴーの木に登って、サイパン方面の空中戦を眺め、実弾演習をしていると最初は手を叩いてはしゃいでいましたが、
グラマンの機銃掃射を受けてサトウキビ畑の中に逃げ込んだ思い出があります。
春田さんはこの空襲の後、消耗した飛行機の補充を依頼するために、通常は硫黄島⇒木更津⇒鹿屋と飛ぶところを、燃料の補給をしないで直接テニアン基地から鹿屋基地へ飛んだそうです。
鹿屋基地には、第1航空艦隊が前線に移動したので、既に第2航空艦隊が編成されていたそうですが、海軍の機材も航空兵も少ないので、陸軍部隊から両方を工面して編成されていたそうです。
春田さんは、少しの飛行機を確保して、テニアン基地へ帰島すべく木更津まで来て燃料の補給をし、離陸の指令を待っていました。
しかし指令が発令されないので、整備兵に聞いたら
「サイパン島が連日艦砲射撃にあっているから待機している」
といわれたそうです。
結局この後サイパン上陸が始まったので、テニアン基地には帰ることが出来ず、ニューギニャ方面に転戦したが、そこで米軍の上陸にあって飲まず食わずの生活をしていたそうです。
幸い夜陰に乗じて撤退作戦のために近寄ってきた駆逐艦に乗船できたので、フィリピンのレイテ基地に落ち着いたといっていました。
レイテ基地でも、安穏に暮らしていたわけではないそうです。
昭和19年10月25日、春田さんはフィリピンのニコルス基地にいたそうです。
彼の手記です。
寺岡中将の後任に、第1航空艦隊指令長官大西滝次郎中将が着任し、第一回特別攻撃隊を発進させることになり、長官は次のように訓示されたそうです。
「諸子はすでに神である。帝国は今や危急存亡の瀬戸際に追い込まれるに至った。
それを救うか否かは若い諸子の双肩にかかっている。
この秋に至り諸子はよくぞ決心してくれた。
私は国民に代わって厚く礼をを言う。
諸子は最早肉親の情を断ち、一切の欲望を捨てて、ただ一つ皇国のためを思って尽忠の誠を尽くさんとする其の意気誠に天を突くが如くであり、諸子の名は永久に日本の歴史に残るのである。」
そして、特攻機発進の旗が振られた。
搭乗員は最後の敬礼をして、轟音を残して飛び立っていった。
見送る基地の兵も明日はまた後を追う特攻隊員である。
今考えると「何で・・」ということですが、其の時は日本人全部がこの思いだったと白爺は考えています。
余談ですが、特攻作戦を考えた大西司令長官は、1航艦司令部とともに台湾に転戦したがその後東京に帰り、終戦の翌日日本刀で割腹し付き人の介錯は拒み続ずけて自刃したそうです。
遺書には、
「特攻隊の英霊に申す。
よく戦いたり深謝す。最後の勝利を信じつつ肉弾となって散華せり、しかれどもその信念は達成し能はざるに至り吾死を以って旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす」
春田さんも、フィリピンを追われて、台湾に配属されたそうです。
台湾の話も沢山あるのですが、亡くなる前には、台湾人日本海軍兵(当時の台湾人は日本人であった)と九州地方の海軍兵の親善友好会の役員を務めておられ、靖国神社へ台湾・日本両方の方々が一緒にお参りして、戦死した戦友の冥福を祈っていたそうです。
春田さん ご冥福を心からお祈り申し上げます。
靖国神社の森で、戦死された戦友と共にゆっくり今の日本を話し合ってください。
これからも宜しくお願いいたします。
カテゴリーテニアン玉砕にもあの当時の思い出を書いてあります。
ご覧ください。