日本時代のテニアン町(通称ソンソンと呼んでいた)スズラン通りです。
南貿(ストアー)付近から見た、南洋興発テニアン製糖工場の煙突です。
今同じ場所から同じ方向を向いて写真に取ると、このようになってしまいます。
スズラン通りには郵便局がありました。
この写真は局舎が新しくなってからのものですが、白爺が最初に見たときは1階建てだったような気がしています。
左隣に雑貨と焼き芋を売っている店がありました。
局舎の右は通用門になっていて、白爺はアイスキャンデーを買いに行く時には何時も近道として郵便局の敷地内を通過していました。
窓口のある局舎の裏には無線電信室があり、通るとピピー・ピピーとモールス信号の音がしていました。
今残っているこの局舎跡は、無線電信の発電施設があったように白爺は記憶しています。
今見るとこんな田舎と思いますが、当時は映画館がある賑やかな通りでした。
屋台を引いている人がいますが、ラーメン屋ではありません。
煮豆などの惣菜を積んで家々を巡って売っていました。
この他に夜になると、寿司屋さんが屋台を引いて南(通称遊郭街をみなみと呼んでいた)の街を歩いていました。
この寿司職人は博打が好きで、金がなくなると白爺の父の所によく借りに来ているのを憶えています。
玉砕でこのように変わってしまいました。
通称「カルボス」と言っていた、テニアン支庁の留置所があった場所です。
先に出てきた寿司屋さんが捕まって、この「カルボス」に入れられていたときに、白爺は父に連れられて面会に来たことがあります。
このような関係からか、父に連れられて寿司を食べに行くと、目の前で伊勢海老を捌いて握ってくれました。
通称支庁と呼んでいた「南洋庁サイパン支庁テニアン出張所」の建物です。
「カルボス」はこの建物の後方に建っていました。
この建物はスペイン時代のものを利用していたそうです。
玉砕した直後の支庁を撮った写真です。
今の支庁跡は、このような風景になっています。
支庁の側から、支庁桟橋方向を眺めた今の景色です。
今見ると平坦な土地になっていますが、昔は急坂になっていて、高いところを砂糖キビの運搬列車が走っていました。
鉄橋の跡は今も残っています。
白爺たちが空襲警報が鳴ると逃げ込んでいた「北区隣組の防空壕」です。
実際には訓練主体に使用していて、本当の空襲が来た時には、マルポの山に避難していました。
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