シートパイルが並んでいる所に、日本時代の支庁桟橋がありました。
テニアン母港の「みよし丸」とサイパン母校の「彩天丸」がお互いに1往復してお客さんを運んでいました。
この鉄材の先には日本からくる貨客船が停泊して、ランチで荷物やお客を支庁桟橋まで運んでいました。
テニアンの人は、貨客船のことを本船と呼んでいました。
本船が入ると、内地の新聞や食料品が来るので皆が喜んでいました。
その頃はこのような景色を見ることはありません。
では、誰が造ったの?
テニアンを占領したアメリカ軍は、沖合に輸送船を停泊させて、タチョンガビーチやカマビーチまで小型の船で軍需品を運び荷揚げをしていたそうです。
輸送船は荷揚げの順番を沖合で待ちますが、日本の潜水艦から攻撃されないように防潜網がはられていたと記録されています。
順番待ちの船の後方にブイが並んでいますが、これが防潜網だそうです。
アメリカ海軍は、第29海軍設営連隊を派遣して、テニアン島の沖合までシートパイルを使用する新しい工法で港を造ったそうです。
カマビーチに船を乗り上げて荷物を運んでいる情景です。
テニアン港が完成すると、タグボートに押されて停泊するような大きな船が桟橋に横付けできるようになったそうです。
原爆もこの港から陸揚げされたのでしょうねー。
数年前まではテニアンとサイパンを結ぶ高速連絡船「エキスプレス」が2隻就航していたのですが、現在は会社が倒産したようで連絡船の姿はなくなってしまいました。
遠くから見た支庁桟橋の跡です。
白爺が学校から帰ると毎日泳いでいた場所ですが。今では近寄ることも出来なくなってしまいました。
鉄材が腐食して無くなったらどうなるのでしょう?
チョット心配してきました。
戦争中の写真は、「テニアンの歴史」という本に載っている写真です。
著者Don Farrellさんの許可を得て投稿しました。
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