水潜寺 札所三十四番
俳人・金子兜太の句碑があります。
曼珠沙華 どれも腹だし 秩父の子 ・・兜太
金子兜太は、秩父育ちのようです。
**金子兜太・・秩父近くの小川町で生まれ、4歳まで上海で過ごし、小中を皆野町で過ごしたそうです。中学は旧制熊谷中学(現・熊谷高校)、野上から熊谷まで秩父線で通ったのだろうと思います。後、旧制水戸高、東京帝大経済を出て日銀に就職。高校時代から俳句は作っていたそうです。小林一茶や種田山頭火を研究し、作風は前衛的と言われています。
そういえば、秩父巡礼の寺に、時々投句箱を見かけています。
本堂・・
本堂右手の方に石の絶壁があり、その下に、自然にできた岩屋があります。ここには清水が湧いております。観音詣りが終ったら、この中をくぐって身を浄め、俗世間にもどる習わしがありました。これから水潜り寺が水潜寺となりました。・・・水潜寺の由来
あの窪みが、岩戸でしょうか。裏山へは「立ち入り禁止」の看板と綱張り・・・崩落の危険があるのでしょうか。
開山は旅の僧という。飢饉のあった天長元年(824)、旅の僧が「まず観音を信ぜよ。我ここに西国をかたどり阿弥陀を置き、板東をかたどり薬師を置く。この観音と合わせて百番の霊場として、我が笈摺をここに納む」と里人に告げたという。そして「樹甘露法雨」の札を立てたところ、雨が降ったという。ご本尊は「千手観音」。阿弥陀如来・薬師如来あわせて伝教大師作という。・・・そうすると旅の僧は、伝教大師となるのでしょうか。
・・・・・百番の霊場とあります。四国の霊場を除いて、西国33霊場、板東33霊場、秩父33霊場、合計99霊場を”+1”して100霊場にした、と記憶しています。既述、真福寺の項、札所2番・・・なお、昔、秩父巡礼が三十三札所巡りの時、ここ真福寺は巡礼の寺に選ばれていなかった。追加された寺である。何故に三十四のなったのかは、関東巡礼で、西国三十三、板東三十三、秩父三十三の合計九十九より、百国巡りの方が、ありがたさが増すということで、一寺追加されたそうである・・・が詳らかではない・・参照。それも江戸時代に、と覚えていますが、そうなると、顕かに矛盾です。・・秩父古番付けでも33霊場。どちらが正しいのでしょうか。秩父巡礼の歴史を辿ると、江戸時代に”+1”して100霊場になった、と言う方が説得力がありますが、秩父の郷土史家に判断を任せます。
*笈摺・おいずり・・・巡礼などが着物の上に羽織る袖のない薄い衣。笈で背の擦れるのを防ぐための衣という。
・・巡礼の姿絵
この姿は、修験者に似ているように思えます。手にした杖が錫杖(しゃくじょう)と呼ばれる金属製の杖で、袈裟と、篠懸(すずかけ) であれば、可能性が高いと思われます。
*なお、巡礼の服装に拘る人は、秩父の札所一番・十三番・十八番で買うことが出来ます。
・・施無畏(セムイ)・・仏語。仏・菩薩が衆生の恐れの心を救済すること。
その下に、「天女の舞」の彫刻が一対あります。天井絵も絢爛。
これで、秩父34札所巡礼は終わりになります。江戸時代には、巡礼完結の後は、多くは信濃善光寺に、たまに甲斐善光寺に、終了報告を兼ねて、参詣に行くのだそうです。どうするか”つれあい”に聞いてみます。
・・巡礼終結 -----ということで、証明書?になるのでしょうか。
住所:秩父市皆野町日野沢3522
電話:0494-62-3999