常楽寺 札所 十一番
この二つの寺は、昔は伽藍など建物が多かったが、火事で焼失したあと、再建で、いまの姿になったと聞きます。
●堂塔
この札所は、江戸時代には観音堂、仁王門、庫裡を備えた立派なtっらであったが、明治11年秩父大火ですべてが焼失してしまった。
●縁起
その昔、この寺の住持、門海上人は仁王門建立を志し、多年勧化に心をくだいたが、普請なかばで思い病気になってしまった。本願の達しがたいことを憂い、本尊に快気を祈ったところ、ある夜、黄面の老僧、金銅神を従えてあらわれ「門海の病気吾能治すべし」といい、金銅神に上人が肩を引き立てところで夢が覚めた。たちまちに病は全快して、仁王門建立の本願を遂げたという。・・・・・
住持門海
門海は智徳勝れたる聖にて、當山に二王門を建立せしけるが、普請なかばに邪気に犯されて臥けるが、 薬服もはかばかしく験もなければ、本尊に快気を祈念しけるが、その夜夢中に貴僧来りて、吾よく汝 が邪気を治さしめんと宣へば、ふしぎと其座へ金剛神あらわれ出て、門海の手を採て引き立つると 思へば夢覚めぬ。その翌日より忽ち平愈しければ本尊をいよいよ信心しけるに、猶数多の霊験を蒙り、 長寿を得たること、偏に當寺の利益ふしぎというもおろかなり。
住所;秩父市熊木町43番28号
![向陽山卜雲寺(札所6番)](http://image.mapple.net/ospot/photol/11/00/03/11000312_3665_2.jpg)
卜雲寺 住所;横瀬町大字横瀬苅米1430番地
縁起
武甲山は秩父の象徴である。三峰山、両神山とともに秩父三山の一つとして信仰されている。山頂に熊野権現社を有する修験の山で、かつては多くの修験者が住んでいた。武甲山を眺めるとき、荻野堂からの景観が最も素晴らしく、高台にある本堂から正面に、雄々しい姿を望むことができる。縁起によると、本尊聖観音は武甲山熊野権現社に祀られていた。
行基菩薩が当地に巡錫した時、武甲山に住む山姥を、熊野権現の験力で捕まえて、松の木に藤蔓でしばった。しかし、これを哀れんで、山から退くことを条件に解き放った。山姥は起請のために、歯を三本抜いて差し出したので、行基は本尊を刻み安置したという。この時の山姥の歯は、『荻野堂縁起絵巻』一巻とともに、寺宝として現存している。
後に、とが池を埋め立てて武甲山の観音を移し、草堂を建立して荻野堂と称した。 武甲山に安置された観音は、長享二年(1488)当時、山を下りて、とが池と呼ばれるところに祀られ、第三十番札所となった。のちに別当の卜雲寺に合祀されて今日に到る。
・・・荻野堂とよばれた信仰の寺は、どうも渡来人の言葉らしき「卜」の占いの字を持つ寺に合祀されたようだ。火事もあったのかも知れない。荻野堂は、鉱山師と関係の深い修験者の信仰を一身に集めたらしい。その荻野堂は秩父を象徴する武甲の山を勇姿としてみる絶好のビューポイントだったらしい・・・・が、今は武甲は、表面の石灰石を削られ、無残な姿を晒す。
さて、この寺は、旧の巡礼札番は、三十番とみえる。
後日に記述を発見したので・・・追記;
室町時代の秩父巡礼の一番は定林寺だと言うことです。「秩父最初懺悔堂」とありますから、世界一般の宗教は、懺悔から、なのでしょうね。三十三巡礼が完遂すると最後は長野善光寺へ行くのだそうです。最後は善光寺に極楽浄土のなにかがあるかもしれません。あとで調べてみます。
・・・・・以前、まとめてあったものを、独立して編集しました・。
護歌堂 札所五番
秩父札所5番では美しい屋根の仁王門をくぐると、正面に三間四面の語歌寺の扁額のかかる観音堂が見えてきます。秩父札所5番は、昔、この堂を建てたのは本間孫八という分限者で、孫八は和歌の道に親しむ風流人でありました。ある日、ひとり堂にこもって歌想を練っていると一人の僧が訪ねてきて、話が好きな歌道のことに及ぶと大いにはずみ、二人は夜を徹して和歌の奥義について論じ合いました。翌朝孫八が目を覚ました時、旅の僧の姿はすでになく、のちにこの僧こそ聖徳太子の化身であったことがわかり、孫八はこの堂の名を語歌堂としたといいます。
語歌堂 住所:秩父市横瀬町下郷6086
ここに、納経所はありません。
少し離れた場所に長興寺があります。納経所なっている臨済宗南禅寺派『長興寺』は歩いて数分、250メートルほど離れた山側にあり、花々が楚々と咲く手入れの行き届いた寺であります。
真福寺 札所二番
真福寺 場所; 秩父市山田3095
縁起; 寺の開基は大棚禅師といわれる。禅師が岩屋にこもって読誦していると鬼となった老婆があらわれて、過去を懺悔して去った。あわれんだ禅師はその供養のために堂宇を建立した。人々から慕われた禅師は地名にもなっている。老婆があらわれて、過去を懺悔して去った。あわれんだ禅師はその供養のために堂宇を建立した。人々から慕われた禅師は地名にもなっている。
堂塔; 昔は観音堂五間半四面、ほか本堂、札堂、仁王門、羅漢堂、稲荷社、諏訪社などがあったが、これらはすべて火災によって焼失してしまい、今は本堂がたつだけでる。本尊は聖観世音立像一木造りで高さ64cm、室町時代の作といわれている。
一番から二番へは、畑の風景を過ぎてから傾斜の急な坂道となり、季節の花を眺めながら、やがて林間も行き、多少喘ぎながら、たどり着くという行程になります。焼失して残った本堂を礼拝してから、納経所のある光明寺への道のりも、同様に林間を下るという、脚力を必要とします。運動不足の輩にはほどよい距離といえるかも知れません。
光明寺の縁起
ここには、比較的おもしろいことは書かれています。平安中期の高望王流桓武平氏の弟の恒望王が武蔵権守に補せられ、官舎を新木の地(現恒持神社)に置き、この地で逝き(807)、弔ったのが光明寺だという。そのあと衰退し、のちに隣の新木の荒船家から越生龍穏寺に出家していた僧が光明寺を再建したとある。荒船家は当時番匠屋(大工?)であったという。荒船家は、後に政治家荒船清十郎を生んだ、あの荒船家である。
*荒船清十郎(1907-1980)・・・政治家
決してクリーンではないが気骨ある政治家として知られ、また品性に欠ける嫌いがあったものの愛嬌があり憎めない党人派として国民から親しまれた。かれは、荒船放言として、じつに多くの「放言」をしてマスコミをにぎわした。川島庄次郎自民副総裁から「やはり野に置け蓮華草」と言われたことは有名である。彼の菩提寺は、山田にある金昌寺(札所四番)。
光明寺 場所;埼玉県秩父市山田2191
・・・・・なお、昔、秩父巡礼が三十三札所巡りの時、ここ真福寺は巡礼の寺に選ばれていなかった。追加された寺である。何故に三十四のなったのかは、関東巡礼で、西国三十三、板東三十三、秩父三十三の合計九十九より、百国巡りの方が、ありがたさが増すということで、一寺追加されたそうである・・・が詳らかではない。
・・・なお、札所二番は、一番と集合であったものを、独立して、編集しました。