ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

堂平天文台  秋のグリーンライン in 奥武蔵

2013-11-24 02:37:20 | 建造物

都幾川の慈光寺の秋を堪能した後、時間に余裕があったので「グリーンライン」の白石峠まで登ってみた。堂平天文台が目的である。

奥武蔵には舗装された林道が、峠と峠を繋いで走っている。この峠と峠をつなぐ林道は、通称「グリーンライン」とよばれ、所々に関東平野を見下ろすビューポイントを持っている。関八州の見張り台もこのライン上に存在する。・・・過去のブログより・・

白石峠から、堂平天文台までが、やく2Kmの登坂行程。ここからの見晴らしは、秀逸・・・”関東一”という人もいるが、当方は、そんなに色々の”ビューポイント”を知っているわけではない。

・・誰かがつくった”関東一の展望”の看板

 

 

周囲を見渡せば、秩父の山は勿論、浅間、八ヶ岳、富士山も見渡せる・・・・・さすが関東一・・かどうかは分かりませんが、見晴らしは抜群で、感動ものです。

展望台近くのロッジ周辺の紅葉の模様・・・ロッジは宿泊も可能のようで、ペアが申し込んでいました・・・

   

  

 

ここに、グリーンラインの、もう一つの顔が浮かび上がります・・・・・

・・ここは、パラグライダーの聖地でもあるようです・・・

下の写真は、パラグライダーの、”飛翔”の地ならびに訓練の場所でもあります。

  

たまたま、偶然ですが、人が鳥になった場面に遭遇しました・・・

 

自分は、高度恐怖症ですが、かなり”うらやましく”思いました。・・・見物人が40人ぐらい、そのうちの7割が”モトライダーのようです。

夏場には、このグリーンラインは、自転車族の聖地かと思っていましたが、オートバイ族の聖地でもあるようです。冷気を帯びた高原の風が、彼等を誘うのでしょうか・・・・・

 

 

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慈光寺 ・・・秋 紅葉

2013-11-24 02:27:40 | 史跡

都幾川の慈光寺・・・秋 慈光寺の紅葉

 

葉書の語源・・・”たらよう”という、めずらしい木、葉の裏に文字が書けます・・・                          

   ・・多羅葉の木

★葉の裏 に傷を付けると黒く変色する不思議な植物がタラヨウです。「葉書の木」のニックネームで知られています。左の写真の葉っぱの字はマジックインクで書いたのではありません。


先の尖った物で、書いただけです。書いた跡はペンで書いたように見事に黒くなり、はっきりと字が読めます。宛先の住所を書いて切手を貼ればそのまま葉書になります。こんな葉っぱが採れる木が近くにあれば、メモ用紙 代わりにもなりそうです。昔は子供が字や絵を描いて遊んだことも多かったようです。字を書いた後の葉は、そのうちに枯れて茶色くなってきますが、それでも、かなり長期間にわたって、字はしっかりと読める状態で残ります。

・・・まあ、しかし、これはどうもこじつけのようで、葉書は、「端書」が語源のように思えます。

実験で、実際に”たらよう”に文字を書いて、切手(規格外¥120?)を貼って投函したら、届いたそうです。でも、、自然のものですから、熱に弱そうだし、郵便屋さんも困りそうなので、実行禁止!で。

この木は、慈光寺の山門を潜った脇にあります。

慈光寺・・・由来書

・・・九十六世信海が書きました寺伝『都幾山慈光寺実録』によりますと、天武天皇の二年(六七三年)癸酉、僧慈訓が当山に登り慈光老翁の委嘱を受け、千手観音堂を建て、観音霊場として開基しました。 その頃、役小角が伊豆の国に配流となり、関東を歴遊して当山に至り、西蔵坊を設け修験道場としました。奈良時代になりまして、唐より波濤を越えて来朝しました鑑真和上の高弟、釈道忠によって、慈光寺は創建されました。道忠は、仏法を広めるため東国を巡錫しましたが、徳望篤く利生に努めましたので、民衆より広恵菩薩と敬称されました。道忠は、当山に仏像を建て、一尺六丈の釈迦如来像を安置し、一山学生修学の大講堂としました・・・

かなりの名刹のようです。天台宗とありますから”密教”との関係も深く、山伏の寺でもあるようです。従って、修行道場とか学林とかの、お坊さんを育てるお寺であったようです。かっては、修行僧が寝起きする宿坊が周囲に乱立していたと言われています。宿坊は、寺院自体と違って造りが悪く、ほとんどが残存していないようですが、

 寺を取り巻く紅葉が、慈光寺を飾ります・・・

   

      ・・本堂 ・・周囲の遠景・・    クイックで画面を拡大できます


場所;比企郡ときがわ町大字西平386


コメント (3)
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高麗の神社 ・・・”いにしえを”を訪ねて

2013-11-24 01:45:56 | 史跡

秋の晴れた日に、思い立って、狛犬を見ようと思って、高麗の里の神社に行った。

この神社は、全国の狛犬の”故郷”、高麗神社である。狛犬は、高麗犬とも書かれる、、神社の”眷属”である。

 

この高麗犬というのは、犬の姿としては、いたって妙である・・・・・

高麗神社の、この高麗犬の像は、新しい。恐らくは、前に存在していた像が、朽ちて破損した後に惜しんで再建したのであろうが、全国に残存している高麗犬の容姿から想像すれば、先代を忠実に再現したであろうことが、容易に想像される。だけど・・・はたして、現実に、こんな犬が存在するのであろうか?・・・この疑問と想像が、悠久のロマンへの入口になっている・・・

・・・高麗神社(日高市) 全国の高麗神社の総本社といわれる。

・*高麗神社の主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗からの渡来人高麗王若光です。この一族は、最盛期は5世紀の「広開土王」、「長寿王」治世の100年間で、中華人民共和国吉林省集安県にある「広開土王碑」から、そのころの高句麗の強勢ぶりをうかがうことができます。若光が渡来した年代についての社伝はありませんが『日本書紀』天智天皇称制5年(666年)10月高句麗から派遣された使節の中に「若光」の名があります。・・・『続日本紀』文武天皇大宝3年(703年)に「従五位下高麗若光に王の姓を賜う」と記されており、高句麗が668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったことを考えると、『日本書紀』にある「若光」と当社の御祭神である「高麗王若光」は同一人物と思われます。・・・

この由来書を信じれば、元中国北東部に勢力を拡大した高句麗の一族(民族)は、ユーラシア大陸を、西に東に闊歩した遊牧民であることが説明されています。この高麗族は、新羅系渡来人が割と容易に日本人と同化したのに対し、独自性を保持しながら、大陸や朝鮮の古式文化を伝承していたことが垣間見られます。

この頃の日本の文化レベルは、大陸系・朝鮮系の文化に比べ、未開といえるほど低かったと言われています。せいぜい、土器や矢尻や住居や祭祀の文化はたかが知れています。大陸系の、鉄製造や農耕や宗教など、諸々の文化のレベルは、数段も高かっただろう、と言われています。朝鮮から日本への渡航は、今でも難民が漂着することでも分かるように、陸を離れて海流に乗るまでと、日本に近づいた時上陸するまでが、人力を労するぐらいで容易で、この頃渡来人は続々と日本にやってきて帰化や同化します。その頃、国という概念は曖昧です。従って国境という概念も存在しません。彼等が日本の政府に帰属して貢献したという資料も、数え切れないぐらいのようです。朝鮮・大陸に残った一族に、他族に攻められる危機や内乱の危機の情報が伝わると、政府に帰属した帰化人は、政府を動かして、朝鮮まで応援に駆けつけたりもしています・・・例、白村江の戦い・・・。

参考1・・・対馬海流(黒潮)の傍流の一つは、大きく朝鮮半島に接近して流れ、その後日本海に、そして能登半島付近で、日本に急接近する。この潮流の早さは、秒速50Cmと言われる(=時速18Km・・自転車並)

参考2・・・新羅系渡来人は割と容易に日本人と同化した・・出雲大社や皇室の創生に、新羅系渡来人が関わっているという論文は、幾つか発表されている。その関係性の詳細に立ち入るつもりはないが、どうも無関係ではなさそうだ。

さて、高麗犬ですが、中国東北部にも朝鮮半島にも、この容姿の犬どころか動物まで、確認出来ていません。高麗族が遊牧民族の時、西征した時に見たか、あるいは交易で、西方の情報が入り込んだ時にその姿を認識したか、というストーリーが成り立ちます。

高麗犬の容姿は、どう見ても、”ライオン”に見えてしまうのですが、百獣の王が眷属だなんて・・・悠久のロマンを感じて、つくづく高麗犬を眺めています。

眺めていると、・・・そういえば、獅子舞の獅子の顔も、この高麗犬に似ているような気がします。なにか関係があるのでしょうか・・・。・・・ふとした疑問に、わくわくします。

参考3・・・獅子頭・・・古くは〈師子〉と書くことが多く,伎楽面や行道面の一種と考えられる。獅子は本来は中国で成立した「破邪の霊獣で,その起源が,より西方の猛獣であることはいうまでもない。獅子はやがて社殿を守護する獅子狛犬の彫刻ともなり,一方で楽舞用の伎頭となったのである。・・・世界百科事典より

参考4・・・獅子舞のことを英語で、” lion dance ”と言うそうです。

 高麗神社の紅葉・・・クイックすると画面が大きくなります。

    

 

高麗神社の社家・・・高麗王若光の子孫が代々住んだという・・・

・・屋根に草が生えていました  ・・トーテンポール・道祖神とも識別標とも・・

                                          

  


高麗神社の社家の脇にある高麗家の家系図。家系図の隣に山道があります。「私道に付き、立ち入り禁止」の看板。この隣の山は、この神社の神体山ではないかと想像します。 神社の高麗犬の脇にも、山道の入口があります。ここを登り切ると、小さな鳥居と祠がありました。高麗神社の元の位置は山の中腹・・・とありました。ここが元々の高麗神社の位置?と比定しました。山道の途中の七福神の石像?・・かなり、愛らしい。この小神社の奥に、やはり、高麗一族(郎党)の墓がありました。奥津城というのでしょうか・・・

 *七福神の石像?・・・調べて見ると、七福神のどれにも該当しません。仏像ではないし、羅漢の体裁もありません。不思議な像です。もしかしたら・・・白髭老人・・若光だったりして・・・・・、と楽しく想像しています。小さな石像です。

*白髭神社と名がつく神社もあります。一説に、白髭老人=高麗王若光を祀ったとする説もあるそうです。

神社探索の後、聖天院に向かいます。歩いて5分ぐらい・・・

・・・聖天院全景・・・正式名称高麗山聖天院勝楽寺

     

高麗王若光の廟所・・小さな建物の中に石積みの塔が安置されています・・・

高麗王若光の生没年は不詳とされていますが、続日本紀に、706年、若光に「正五位」の官位が贈与されていることが記載されています。飛鳥時代のようです。

この頃の墓の様子は、大型古墳時代が、莫大な経費問題の反省で、簡単な円古墳時代に移った時代とされています。また古墳という墓の文化は、大陸からの流入と言うこともあり、古式に従えば、神体山の中腹に穴を掘り、埋葬して小山を盛り上げて、高貴な人には目印の石を置いたという習わしがあるようです。そう考えると、・・・この霊廟の下が小山の塚であり墓であるのか、後ろの山の中腹にあった目印の石積みの塔を移設したのか、が考えられます。墓石が登場するのは、もっと後期からのようです。

大陸の古墳は、中国辺りでは土盛りの古墳が普通であり、西方の砂漠地方では石積み墳が普通で、「ピラミッド」は石積み墳のバァリエーションのようです。

・・・羊も門を守りますが、意味が解けませんでした。もしかしたら、大陸にあった高句麗の時代に、羊はなにかを守ったのかも知れません。昔は、羊は日本に存在しない動物ですから、それとユーラシア大陸の、遊牧民の友が羊であったという記憶もあります。

聖天院の紅葉・・・クイックで画面が大きくなります

                             

聖天院は最近改築されたばかりで、大変美しい、手入れの行き届いた寺でありました。ただ参詣には拝観料が必要です。改装費が足りなかったのかも知れません。しかし、どうもこの寺院は、観光地化を強く拒否している意志を感じます。それは、最近になっての改装からのようです・・・石灰石の塊の霊山と関係があるのでしょうか・・・

   ・・高麗川の秋の風景。

高麗川を渡った高麗の里に、ちっぽけな村社、野々宮神社があります。

・・野々宮神社

この由来書(上記)に、創立が大宝三年(703)とあります。この地は、高麗王若光が各地に散らばった高麗族を集めて、住居とした地であり、創立は高麗神社や聖天院より古そうです。また、勝手な想像ですが、ここに集結した高麗一族は、一族の団結や繁栄、農の豊穣や感謝、高麗王への感謝と尊敬を、この神社で祀り、祈願したのではないかと・・・・・。ここの獅子舞が当初からのものであれば、見て見たいものだと思います。獅子舞の面も気になります・・・

 

場所;日高市新堀833

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