・・明日も夕焼け
明日も夕焼け・・
あとがき・より・・・本書は朝日新聞の日曜版に家庭欄に「明日も夕焼け」のタイトルで1999年4月4日から同年12月26日まで連載したエッセイに加筆したものである・・猪瀬直樹・・・
当時、朝日のこの連載を楽しみにしていた人は多かった。今は違うが、当時朝日新聞を購読していた自分もその一人であった。しかし、毎回読んだという記憶はない。それが本になったというので通読し、今回改めて再読してみた、と言うわけである。
このエッセイは、「親父の小言」―大聖寺暁仙和尚のことば、を一つずつテーマにしながら、現代風に解釈しなおしたもので、共感を覚えるのも少なくない。それと、猪瀬直樹の経験した時間と空間の風景を絡ませながらのエッセイだから、彼の立ち位置だとか生い立ちだとか家族とか友人とかが見えてくる。まさに、猪瀬論を書くとしたら絶好の資料のようにも見える。ここには孤高の猪瀬直樹は存在しない。むしろ巷によくある、小言を言う「親父」の姿に似た、微笑ましくも小うるさい「親父」の姿のように思える。・・・「どうも僕の世代は、父親の演じ方が下手なのである。全共闘世代とか団塊の世代などと呼ばれて、家父長制度を標的にして破壊の情熱にとりつかれた」・・「不機嫌な時代の生き方を問い直す」・・・
全共闘であった彼は当然ながら、例えばベトナム反戦が、自分の”戦争は嫌だ”という意志と関係なく、善良な市民の作る制度と社会の仕組みが、戦争に加担していくという間接性に、自己否定をしながら、仕組みそのものを標的に上げて、「破壊の情熱にとりつかれた」という時代があった。そのなかに、否定の対象の「家父長制度」もあったという。
その彼が、暁仙和尚の「親父の小言」をテーマにしたエッセイを書いている。それも「家父長」のスタンスでといったら、僕でなくても、”その後”に何があったんだ、と尋ねたくなる。
猪瀬氏は大学を出た後、生活のために「こころざし」と関係のない仕事をすることになる。それは、前章の「ふるさとを創った男」の高野辰之や藤村と同じ道を辿るという、自分の”ミラー”の追認の行為のようでもある。そしてたどり着いたのが、明治大学の橋川文三であったようである。その橋川文三に師事することは何であったのか?
それまでの猪瀬氏を知る人にとって、その後の猪瀬氏の変質は、”猪瀬は変わったナー”という、戸惑い表現になる・・・、これは、猪瀬氏の「家父長」としてのスタンスに顕れているような気がするのだが・・・当たっているのか、いないのかもしれない。
さて・内容のところどころ・
・・武士に武士道があるのなら、商人には商人道があってよい。
「商人というとも、聖人の道を知らずんば、同じ金銀を儲けながら、不義の金銀を儲け、子孫の絶ゆる理に至るべし」・・・これは江戸時代の市井の哲学者・石田梅軒の「石門心学」にあるらしい。石田梅軒を、恥ずかしながら、これを読むまで知らなかった。
これは、”あきないのこと”の章で、「親父の小言」は「小商いものは値切るな」の一節である。猪瀬氏は、”僕の仕事も「小商い」かしら”で結んでいる。
・・次の、”なぜ死んだのか”では
日本長期信用銀行の元副頭取が自殺したことに関して、次の様なコメントを書いている。・・「僕は自分を職人だと思っていたし、今もそうだ。稼ぐけれど、儲けることとは縁遠い。よい仕事が出来たら、その日は満足だ。達成感があればお酒も美味しい。静かな酒でよい。」・・猪瀬氏は、知事選に出た時、仕事と報酬のことをどう思っていたのだろうか、聞いてみたい気がする。
・・”微熱を気にして”は、同時代を歩いたものとして、読んだ。
猪瀬直樹のいう”道草”の時代の一コマの風景である。猪瀬の一つの原点かも知れない。親父の小言の「人には腹を立てるな」とどう結びつけているのかは分からない。
・・”紙一重の死に神”
これは大学時代の、周囲にいた人達が死んでいったことを綴った内容。自殺した彼、ヒマラヤで死んだ山岳部の彼、”蝶を求めて”与論島にいって、海で死んだ彼、・・・命をかけると不注意と・・・そんな内容と太宰治の自殺の謎解き、あまり結びつかない気がするが・・こうして「ピカレスク太宰治」は生まれた。・・・ちなみに猪瀬氏の太宰治論は”優れている”と思っています。ここには親父の小言の教訓めいた言葉はない。それとなく文中に配した「威張るな」がそれに当たるのかも知れない。
・・・この章は、時代を共有した自分の影も宿るのかも知れない・・
・・”無意識の死生観”
かって、童歌の”とうりゃんせ”の謎について自分なりの回答を作ってみた。「三芳野神社」に行った時のこと。このブログのどこかに書いた記憶がある。”かごめかごめ”も謎めいた童歌。この章には、日本人の死生観=”輪廻転生”と”陰陽道”のことが書かれている。”かごめかごめ”はそんな日本人の死生観から、謎を読み解いている。・・・そういう謎の解き方もあるのか、と思う。それと同時に、日本人の中の、土着した観念の基に、”親父の小言”や”輪廻転生”や”陰陽道”に底流するものがあるのではないか、底流するものの中に日本人の常識があるのではないか・・と。
・親の小言と冷酒は後で効く・ようだ。
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もともと自分は、人にレッテルを貼ることは好まない。レッテルを貼れば、それで人物評は固定化されて思考停止に陥り、様々な人物特有な特質を見逃すことになり偏見に繋がると思っている。脳が枯渇してしまうのだと信じている。
猪瀬氏のことを”右翼”だという人がいる。確かに、彼の”ウェット”の部分は、文学的であり、ナショナリズムを否定しない部分であり、扱う材料は、右派の使う表現は多そうである。しかし、彼の著作の文章を読む限り、そんな要素はない。従って、自分は、”そうは思わない”。ただ、猪瀬氏が橋川文三に師事したと言うことは、当然「日本浪漫派批判序説」を読んでいたことになる。すると、猪瀬氏の著作の三島由紀夫論も見なければ、猪瀬氏の”右派”の傾向は無いとは言い切れないかも知れないが、自分は読んでない。
彼を、”新左翼崩れ”、あるいは”左翼崩れ”という人がいる。経歴からみれば、その通りだが、猪瀬自体もこれを否定はしない。だが、これも自分は”そうは思わない”。全共闘時代の少し前に、左翼の骨格をなした理論的骨組みは既に崩壊していた。それでも、彼等の呼び名に、旧体制の層(マスコミなど)は”新左翼”と名付け、団塊の世代はその呼び名を甘受したに過ぎない。つまり、呼び方、呼ばれ方が彼の全てを顕してはいないのだ・・・
そんな自分が、敢えて猪瀬氏のことを、「ウェットな近代合理主義者」というレッテルを貼っている。正直当たっているかどうか分からないが、自分が読んできた限りの彼の文章からは、歴史を重んじながら、判断の基準は、近代合理主義のように思えるからだ。言葉尻や態度は、しばしば傲慢で強引でかなり尊大なところから、ラジカルと見られがちだが、判断はいたって常識的な所の落ち着いている。・・適当な言葉が見つからないので、ここは”レッテル”を貼らしておいて欲しい。
未だよく分からないのが、彼の政治的主張のスタンス。少なくとも石原慎太郎のもとで副知事をして、そこから政治家猪瀬直樹が生まれたこと。こうしたエッセーへの、いくつかの共感と石原慎太郎は、どうも結びつかない。この結びつきが方便としたら、いやらしい。作家猪瀬直樹は政治家猪瀬直樹をどう見ているのだろうか。
さて、ここまで見てきて、”手のひらを返す”ものかどうか、手のひらを見つめる。