ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

追記: ・・・ 円空仏 驚異の作仏数の疑問?

2015-02-10 18:20:49 | 美観・芸術

追記:円空仏 驚異の作仏数の疑問?

さすがの権威ある国立博物館や県立博物館の「円空仏展」の案内にも時々記載があるが、”円空の仏像制作数は十二万体”の文字が、至る所で見受けられる。

”本当だろうか?”、”十二万体の仏像制作は可能だろうか?”・・・きわめて、素直な疑問が頭に浮かびます。

春日部市小渕の「小淵山観音院」の円空仏群は七体の円空仏があり、中でも聖観音像は高さ196cmと、円空仏の中でも大型です。到底一日では彫りきれないだろうと思います。大宮南中野の正法院の円空仏は、およそ70cmぐらい、これなら1~2日で一体は可能かも知れません。中には50cm以下の小枝に彫ったものもあるようです。仏像を彫る木材を準備していて、朝早くから夜遅くまで彫れば、”小さき仏像”は三十体ぐらい可能かも知れません。よく旅をした円空は、どう考えても”旅の貧乏僧”で、修験の托鉢は、つまり”乞食”です。旅の一宿一飯がかなり難儀で、手配にかなり時間がとられます。さすがの円空でも歩きながらの”作仏”は無理だとすれば、一日一体の”作仏”が、そこそこ無理をした数字か、せいぜいの限度だろうと想像できます。

円空の生涯を調べると、1632年美濃・羽島で生まれ、七歳の時長良川の氾濫で母を失い、父のいる美濃・郡上の星宮神社に引き取られたとあります。そこから、星宮神社の別当寺・粥川寺に出入りして、木地師(母親の出自)や山伏の修験に馴染んだとされ、三十四歳まで過ごし、木地師の木の扱い、鑿や斧の使い方を習得したようです。この時、練習作として仏像も彫ったものと考えてよさそうです。自身の納得がいくものも何体かあったと見ていいと思います。そしていよいよ旅に出るわけですが、その時期は1666年頃と思われます。
それから25年間、漂泊の仏師・円空の”作仏”の旅は、飛騨・高山の千光寺で終わりを告げます。この時、齢60歳前後、以後遠出の旅の記録は残っていません。没年は、1695年となっていますから、余生を郡上近くの若きときに育った所で過ごしたのでしょう。ここまで来ると、創作活動もかなり衰えていたと思われます。

そうしてみると、一日一体で年間365体、25年間で9125体の仏像を彫ったという計算になります。若きときの習作と、余生の時の作仏を合わせて、およそ一万体という計算が出てきます。一万体でも、驚くべき数字です

では、いったいどこから円空が12万体の仏像を彫ったという、とてつもない話が出てきたのでしょうか。全てではないが一部の県博物館では、”円空仏展”の解説文に、堂々と”12万体”をうたって、説明しています。県博物館は、専門の学芸員が存在して居るはずです。どうして、学芸員の知識の穴をすり抜けてしまったのか気になります。

どうも、円空の生涯の”作仏”数が12万体の根拠は、二つあるようです。

 

ひとつは、飛騨・高山の桂峯寺の十一面観音・善女竜王・今上皇帝像の三尊のうち、今上皇帝像の背面に、墨書で銘文があり、擦れて判読不能の部分もあるが、赤外線写真を拡大すると、ある程度読めるそうです。そこには ・・・

 ・・・・・ 元禄三庚午九月廿六日
 ・・・・・ 今上皇帝 当国万仏
 ・・・・・ □□仏作已」

と判読できるようです。
・元禄三年(1690)9.26、この像の現所在地(高山市上宝町金木戸)で円空がこの仏像を彫ったのは確実です。
・当国万仏・の「当国」は、日本の各地で一万体の仏像を造ったと読むことができます。「当国」を飛騨国と読み替えることは可能だが、少し無理があるように思えます。
・次の行一文字目を「十」とも「千」とも読めるがかなり擦れています。次の文字はマに似た形とみて、これが「万」と読む説と「部」のこざと扁(=”阝”)とみる説があります。
・・「万」と読む説は、「当国」を飛騨とみて、飛騨国で一万、全国合わせると十万体を造り終えたと解釈するようです。・・・これが十二万体説の根拠。
・・「部」と読む説は十部仏、あるいは千部仏、つまりたくさんの種類の仏を造ったという意味に解釈します。

文字の解析はさておき、先述の”作仏”が一日一体がせいぜい、を現実的とすれば、十万という大量の造像を伝説にすぎず、「当国」は日本とし、元禄三年までに一万体、あるいはその前後の数で、沢山作ったという円空の感慨の吐露したというのが、説得力があるように思えます。

いまひとつは、円空が大量の仏像を残した荒子観音寺(名古屋市)に残る『浄海雑記』の「円空上人小伝」に
 ・・「自ラ十二万ノ仏軀ヲ彫刻スルノ大願ヲ発シ」とあるのを根拠にしています。
 ・・既に十八世紀末の資料に十二万造仏の記事が見られる。しかし、”大願ヲ発シ”は願望であって、実際の仏像制作の完了のことではないと思えます。
 ・・・「浄海雑記」全栄(荒子観音寺第17世住職)天保十五年(1844)
 ・・・書かれたのが、円空没後149年後で、伝聞によると思われ、それも高山の桂峯寺の今上皇帝像の背面文字が根拠の可能性があります。

円空の仏像は、飛騨・高山のように背面に墨書があるものもたまにあるが、ほとんどに銘はなく、その彫りの仕様などから円空作と比定されるようです。従って正確ではなく、また簡易な彫りも多く見受けられ、子供の遊び玩具にされたものも多かったようです。その為か、恐らく散逸や破損で、かなり多くが失われたと思われます。
評価は、稚拙をもって評価するのではなく、その作者の傑作をもって評価すべきであり、稚拙が存在しようとも、いささかに円空仏を貶めるものではありません。




参考:背面文字解読の諸説 ・・著作者のみを記します・
①長谷川公茂氏(2012『円空微笑みの謎』)
②池田勇次氏(2003『円空の原像』)
③浅見龍介氏(2013「飛騨の円空展」図録作品解説)
④池之端甚衛氏(共著「円空心のありか」(2008)
⑤小島梯次氏(2009「円空木喰展」図録作品解説より)
⑥梅原猛氏(2006『歓喜する円空』)
⑦伊藤治雄氏(2010『円空の隠し文』)
・・・背銘についても新解釈を提起しておられるので紹介します。


伊藤氏は赤外線写真を拡大して検討した結果以下のように読めると提起しておられます。
「當国万佛 千面佛作已」  ・・とうこくまんぶつ せんめんぶつ つくりおわんぬ(おわりぬ)。 
その部分をA4に拡大した赤外線写真を見ると、伊藤氏の読み方が正しいように思えます。
これが正しいとすれば、十二万体は否定され、漸く”とてつもない数の伝説”がやはり伝説にすぎず、結論は合理的なところへ収まる様に思えます。


円空の生涯:年譜

和暦、西暦:できごと
寛永9年、1632:美濃国(現在の岐阜県)に生まれる
寛文3年、1663:岐阜県郡上市美並町 神明神社の神像3体を造像
寛文6年6月、1666:北海道に渡り、仏像を作る
寛文7年夏、1667:青森に滞在
寛文9年秋、1669:名古屋市の鉈薬師で造像
寛文11年7月、1671:奈良県法隆寺で学ぶ
延宝3年、1675:奈良県吉野の大峯山で修行
延宝7年7月、1679:滋賀県園城寺で学ぶ
天和2年、1682:栃木県日光で高岳法師から法を授かる
貞享元年、1684:名古屋市荒子観音寺で学ぶ
元禄2年3月、1689:滋賀県伊吹の観音堂の十一面観音像を作る
元禄2年6月、1689:再び日光山に登る
元禄2年、1689:園城寺で秘法を授かる
元禄3年9月、1690:岐阜県高山市上宝の桂峯寺今上皇帝像を作る
元禄5年、1692:岐阜県関市洞戸の高賀神社で雨乞い、歌集制作
元禄8年7月、1695:関市の弥勒寺で歿する

両面宿儺像

円空仏の傑作・晩年の仏像の微笑み

円空・荒神像  ・・いいね-! これ好き!

・・了

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする