岩槻は、「太田道灌」のつくった街? ・1 寺院 芳林寺
・1 寺院 芳林寺
・・・芳林寺:岩槻区本町1-7-10
・--- どうやら、太田道灌は岩槻に住んだことはないらしい。道灌から三代か四代後に道灌子孫が東松山か川島あたりから岩槻に移り、城を築いたのが説としては合理的のように読める。太田資高がその人らしい・・。
・芳林寺・開基のおり、伊勢原で謀殺された道灌の「遺骨?や遺髪」を譲り受けて、生越の龍穏寺とこの芳林寺に分けて供養したといわれる。
・庭内に、・・二体の銅像・・
甲冑姿の騎馬上の道灌・・
狩りの姿の道灌・・
・・・ 伝承によると ・
・・・・岩槻城は室町時代に古河公方足利成氏の執事扇谷(上杉家)持朝の命を受け、長禄元年(1457)太田道真、道灌父子が築城したと伝えられる。
・・・この説には疑問が残る
・・・・道灌死後何代か後、太田資家(岩槻城主)が伊勢原に行き、道灌の遺骨や遺髪をもらい受け、それらは埼玉県越生町の龍穏寺とここ芳林寺に分けられて丁重に葬られ、今日まで供養されている。
江戸時代、岩槻は日光東照宮参詣の最初の宿泊地でございました。
つまり、江戸まで1日かからないぐらいの近距離、
・・ということで、有能な若手の幕僚の知行地に認定されていたようです。
そのため、初めて大名になった人も多く、岩槻藩が出発点になった例が多いようです。
この、近在は若手幕僚の知行地、という仕組みを作ったのは、本多正信と天海和尚だと言われています。
有能な若手幕僚は、最初小大名でも、有能ゆえに大大名に転付していくものも多く、
そのため岩槻藩は、藩主の回転が異様に早かったといわれています。
写真は、太田道灌と大田家の墓ですが、芳林寺は、家康が江戸城に入ってから家康家臣の高力清長が藩主となり、菩提寺を芳林寺に定めました。従って高力清長の墓もあります。