ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

R254;神津牧場

2016-03-01 20:54:02 | 草・木・花 風に吹かれて

R254;神津牧場

 

むかし・むかし・
免許とりたての頃の話。
三桁国道が好きで、よくドライブに出かけていました。 ・・・よくある話です。
R254もその一つで、ひたすら山の方へ向かって、よく出かけていました。
山が残る、”里山”っぽい風景がきっと好きなんですね。
嵐山・小川を過ぎて寄居に入り、玉淀大橋で荒川を渡ると、少しの間R140の共用の道路となり、橋梁を渡りきるとT字路になり、左へ行くと秩父への道(R140)、右へ行くと富岡、佐久への道(R254)へ分岐します。
回数としては、秩父の方面にハンドルを切ることのほうが多いが、たまに富岡や佐久の方へハンドルを切ることもあります。今回は佐久の方面へのドライブのこと。左手は御荷鉾連山が連なり、ほぼその裾野を走ることになりるわけです。御荷鉾は、しばらく「ミカホ」だり思い込んでいましたが、正式には「ミカボ」と濁るそうです。この周辺は、古来は大陸系外来民族が点在したらしく、甘楽とか羊とかの意味不明な地名を残滓している地域です。この大陸系外来民族の点在の場所を繋ぐと、新潟から信濃川、千曲川を遡り、菅平を越して、甘楽、そして行田に繋がってきます。考古学に詳しくないので、ほぼ受け売りの知識ですが、残された古墳を考察すると、大陸系の墳墓だそうです。長野・松代や行田に残された大型古墳群は、現代社会から、一挙に古代社会のロマンへ引き込んでくれます。新潟に上陸した古代の大陸系民族が、菅平を越えたかどうかは記録は残っていません。まったくの筆者の想像の世界です。

さて、こちら方面への自動車の旅には、本来一般の三桁国道など使う人はあまりいません。ほとんどが上信越高速、たまにR18(中仙道)を使います。地もとの生活道路か物好きしか、R254は使いません。
R254は愛称があります。川越近辺を「川越街道」、富岡近辺を「富岡街道」、佐久近辺を「佐久街道」となずけられ、それぞれ地元ではかなり愛されているようです。江戸時代、中仙道での「碓氷峠越え」はかなり険しく、女性は裏街道の富岡・佐久街道を使ったようです。これにちなんで、「姫街道」とも呼ばれていたようです。松代・真田藩や小諸・仙石藩のお姫様は、姫街道を通ったのかもしれません。

R254は、富岡を過ぎる頃から、急速に車の通行量が減ってきます。併せて、道路事情が急に悪くなります。・・・以前の記憶なので、今は改善しているのかもしれません。あしからず。・・・それと同時に、懐かしいような風景が現出してきます。道路すれすれまで軒先をはみ出した民家は至る所に・。この風景は、下仁田へ入っても変わりません。そんなに信号はないのですが、スピードは上げられない状態が続きます。

どこらを走っているかの目安は荒船山。荒船山が左手に見えれば其処は下仁田。高速からだと左手は妙義山のはずです。異様な山姿は見誤ることはありません。
下界に雲をはべらせれば、「軍艦が大海原に浮かび上がる」ごとく、[荒船]山とは、”うまく”つけた名称です。
荒船山は妙義山とともに第三紀にできた本宿カルデラの一部で、浸食によって固い部分が残ったもので、こうした差別浸食でできた地形のことをメサというのだそうです。・・受け売り。
荒船山は、上信国境のはずです。目的地は間近。

富岡街道から佐久街道へ、名称変更したあたり、道は山中にあり片側を崖として、勾配をきつくすると右手に「神津牧場」の案内が出てきます。
日本初の「洋式牧場」で、自分が”牧場好き”になったきっかけの牧場です。

神津牧場を後にして、あまり道路のよくない林道を通って軽井沢に抜けたことがあります。地図では屏風岩の脇を通ったはずですが、あの奇岩の記憶はありません。でこぼこの林道を、ハンドルを必死に握って運転していたら、ゴルフ場が連続する道に出た覚えがあります。

次回は、神津牧場を作った神津家のことと、島崎藤村の関係を探ってみます。

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