とりあえず、秩父の寺を、巡礼札所の順に、34ヶ所まわりました。それはそれで打ち止め。
又の機会は、もみじの色づく頃でしょうか。境内のもみじが見てみたい寺がいくつかあります。
気になっているところ、など幾つか補足・・・
ようばけ・
・・・” ようばけ ”の よう は太陽の陽で間違いなさそうですが・・・ ばけ は、どうも はけ と言う言葉が地質学にあるようです。大宮第三公園の「武蔵野の地層モデル」の造地に、説明文がありました。・・川が岸辺を削りとった崖状のことをさして、水路まで含んで、” はけ ”と呼んでいたようです・・。前回の説明では、60点というところでしょうか。コメントをいただいで、すこし調べて、訂正させて戴きます。
椋神社・
・・・藤原秀郷の記述がありましたが、藤原秀郷は、将門の乱の沈静に京都からやって来て、沈静の後は京都に戻ったように思っていましたが、川島町金剛寺に残存する系図に、秀郷の系譜が乗っているそうです。さらに、系譜上の波多野遠当なる人物は、比企遠宗と同一人物とされています。真偽は分かりませんが、比企の地名を残した比企一族の痕跡がここにあるとすれば、いままで不明とされてきただけに、面白そうです。
仏像・
秩父の寺を、あれだけ周りながら、お堂の中の仏像にあまり興味を持てませんでした。外にある、羅漢や地蔵や石仏には、表情に親しみを覚えて、また門にある仁王像もかなり撮影したのですが、・・・。
・・・弥勒菩薩像。太秦の弥勒菩薩で、写真集を見た時は仏像とはこんなに表情豊かで、美しいものなのか、感動を覚えました。どうも、仏像そのものが興味がない、と言うわけでもなさそうです。太秦は、新羅系秦族の拠点で、広隆寺です。
いけないのは、どうも多面多臂が人間離れして、馴染めないのではないか、と結論しました。感動を覚えた弥勒菩薩は一面二臂で、普通の人間の姿です。
その反面、多面多臂の仏像には、どうも馴染めません。馴染めない理由は、人間離れして違和感を覚えてしまうからのようです。その中でも気になる多面多臂の仏像があります。民衆に信仰が厚かった十一面観音です
・・・十一面観音。この場合は六臂です。顔の数を数えると、11より多くなることがあります。なぜだか判りません。顔が11あり、腕が6本。宗教的意味でもなければ、まるで化け物です。白洲正子の随筆のなかで、十一面観音がたびたび取り上げられています。なぜ民衆に人気があったのか、白洲正子から探って見たいと思います。
修験者・
・・・秩父には、修験者や役行者の痕跡がいくつも残っています。明治に、修験道が禁止されて、普通の仏教や寺院に習俗されて、秩父の修験者はいなくなりました。法律が変わり、宗教の自由が認められても、修験道は復活しませんでした。しかし、山に生きた修験者は、里や里山の人達と無関係な生活をしたわけでもなさそうです。
山に精通した修験者は、当然山の植物にも精通します。行者ニンニクは代表格ですが、薬草をよくします。修験者の生活地に、いくつかの薬師堂を見ますが、これも修験者との関わりのようです。巡礼の後半に到ると、山にある寺に薬師堂があれば修験者がいたのではないかと思うようにもなりました。
薬と言えば、富山の薬売りが思いつきます。その富山の薬の源流は、富山側立山の修験者が作ったものという研究論文が出されています。富山の立山の修験道は、天台密教にもとずくもので、秩父の真言密教とは少し違いますが、同じく修験者の存在が薬に関与しております。修験者は、どうやら、薬草知識の”エキスパート”と見て良さそうです。
薬草と同様に、修験者は”鉱物”とか”鉱山”のエキスパートでもあったみたいです。それも、平安以前は、金ではなくて、鉄とか水銀のようです。当然、副産物として金も採れたのでしょうが。渡来人の”金上无”の職名も、金ではなく、金属と捉える方が納得出来ます。どうも、金の価値が上昇するのは、鎌倉時代以降のように見えてきます。貿易によって外国の金の需要と価値を確認し、さらに貨幣に金を使うようになってからのようです。それまでは、日本の金の使用目的は、一部の金装飾ぐらいの利用価値しかなかったようです。それより価値が高かったのは、鉄と銅と水銀だったようです。水銀は、当時”辰砂”とよばれて、赤色顔料の原料や薬剤等に使用されていたようです。今では水銀は毒性が強いことが確認されていますが、当時は不老不死の長寿の薬物とされていました。秩父の山岳は、鉱山をもとめるに、修験者達の恰好の地であったようです。
・・・椋神社の、龍勢ロケットのもとになった、鉾が飛んだ逸話、は霊験でないとしたら、火薬が想像されます。日本武尊は、景行天皇(-130)の頃とされていて、西暦100年を少し過ぎた頃、日本書紀が書かれたのは西暦600年頃、約500年の歳月の差があります。この時代は中国は、唐の時代で、ようやく唐で、火薬を狼煙として使われた、とあります。唐の時代は、日本との往来はかなりあったみたいで、唐の火薬の知識を持った人が日本書紀の編纂にも加わり、逸話を挿入したと見るのが、当たらずといえども遠からず、かと思います。
あれから、ずっと歴史を積んで、今年も、10月第二日曜日に、龍勢祭は行われます。
・・・秩父の寺を廻ると、背景地や脇に墓地を持っている寺と墓地が見当たらない寺に出会います。当初、修験者の道場として成立し、修験道の禁止の法律で寺に変わったところは、それはそれで納得出来ますが、そうでないところは何故でしょう。坊さんは聖職ですが、生身ですから”霞”を食べて生活できるとも思えません。いくら仏閣を大切に扱っても、長年では朽ちることもあるし、武田軍が火をつけたこともあるし、山崩れや水害でも損傷は受けそうです。檀家の無い寺や、少ない寺は、そこをどうしたのでしょうか。同じことは、神社でもいえます。そんなことを思いながら巡ると、時折この寺の別当畠山重忠とか、丹治某がこの神社に供田しとか、家康は数町を御朱印しとか出てきます。どうも、寺も神社も領地をもっていたようです。
例えば、札所十五番の少林寺は、秩父神社(秩父妙見社)の神宮寺であるようだ。秩父を取り巻いた時の権力者の変遷は、まず秩父平氏が妙見菩薩を信仰して建立して庇護し、後北条がこの地の領有したが、この時の庇護は資料に余りない。そして徳川になって、庇護を厚くした歴史がある。庇護の内容は、改装費の肩代わりと生活基盤に領地を与えることで、この時の領地からの年貢の徴収など差配をするのが神宮寺で、経済的サポートのみならず、神事まで関与することが多い。秩父神社の少林寺は、明治の神仏分離令で廃寺とされが、時を経て札所十五番として復活して現在に至っている。
この神宮寺と役割を同じくするのは、「別当」とか「別当寺」とか呼ばれる、地方豪族や寺で、この関係性を眺めてみると、当時の勢力図が浮かび上がってきて、興味深いのだが、長い年月で資料は散逸している場合が多い。深く調べたわけではないが、武田信玄は、寺院と豪族との関係に目をつけ、別当であった寺は、その豪族の、潜在の第二勢力として、徹底的に攻撃したようである。その為、この秩父同様に、武田が侵攻した信濃国は、多くの寺院が焼き払われて貴重な資料を焼失している。
秩父は、地学の宝庫です。門外漢の自分ですら興味津々・・・機会があればまた・・
「ジオパーク秩父」のブログを参照下さい。以下に・・
http://www.chichibu-geo.com/midokoro/geosite.html