ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

猪瀬直樹 ism 最後に・・・

2014-01-15 00:42:29 | ひとりごと

 ・・猪瀬直樹(転用)

猪瀬直樹 ism 最後に・・・

ここで猪瀬氏の考え方の検証で三冊の本を見てきた。この三冊は、三冊とも猪瀬氏の寄って立つ経験や考え方、発想なるものに、近づくものであるようだ。そして三冊とも、彼の代表作とは見られていない。
代表作の検証は、一つぐらいは出来ないこともないが、そこに使われている硬質の言葉は好きでないのでやるつもりはない。それでは、片手落ちで偏るのではないかと、誹りの声も聞こえてくる気がする。
でも、それでいいと思っている。少なくても単眼的でない彼の特質は抽出出来たと思っているからだ。完璧な複眼的な評価など、だれにも出来るはずが無く、人間は少なからず矛盾の多い生き物なのだ。

猪瀬氏が、マスコミから袋だたきに遭っていた時に、辞任を促す言葉を書いて、このブログにアップしようと思っていた。矢先、彼が辞任を発表したので、その文はお蔵入りになった。
それを、ここに蔵出しします。

・・・

都知事が周囲から袋だたきに遭っている。
マスコミも、都議会も、ブログも、こぞって猪瀬知事たたきだ。
・・・追求や質問に答える度に矛盾を露呈し、疑念疑惑は大きくなってきている。
・・・・まさに、大きな疑獄事件のように・・こんな猪瀬は見たくない。

はやく都知事を辞職すればよいのに・・・と思う。

彼の業績は、振り返ってみてみると、拍手を送っているものも多い。都知事になる前の業績は、多くの人の賛同を得ていたようにも思う。共感を覚えるものも少なくはなかった。
都知事になってからの業績も、概ね賛同をしながら眺めていたように思う。が、こちらは都民ではない。そんな自分が、手のひらを返すような思いを抱くとすれば、自分に対しての冒涜だとも思える。

でもそんなに、疑獄事件のように複雑かと言えば、そうでもなく、至って単純のようだ。

これを、流れを辿って確認してみると
徳田虎雄というひとから猪瀬に、¥5000万の金が渡った、という事実だけである。
・・1,猪瀬氏が石原後継として、都知事選に出場が決まった副知事時代であること。
・・2,猪瀬氏支持の関係者に挨拶回りの時、徳田虎雄に挨拶に行った・・何故?
・・3,猪瀬氏が選挙というものが初めてで、資金に不安を持っていた。
・・4,その後、経緯があり、虎雄の子徳田毅より金銭授受が行われた。
・・5,・・・・・領収書など
・・6,その後実際の知事選に入ると、世論調査などから、猪瀬氏が圧倒的有利に知事選は推移し、予定した選挙費用も余る様な選挙活動で当選というストーリーだったと思う。

振り返って、この件に関しての、猪瀬氏の最初の会見を思い出します。
・・・初めての選挙と言うこともあり、資金面で不安もあり、5000万の金を借りました・・・使った言葉は、正確には覚えていないが、要旨はこの通りだったように覚えています。
・・このことは、正しいか否か別にして、納得出来る説明でした。
・・このことで、選挙運動費用収支報告書に不記載あるいは記載漏れの指摘と違反の可能性が出てきます。
・・・ここで、違反行為であれば素直に処分を受ける旨を述べて謝ってしまえば良かった。

猪瀬氏の都知事選の選挙運動を見て見ますと、・・記憶ですから詳しくはないが・・あまり街頭演説はしない、あまり選挙カーにも乗るわけでもない、政見発表と討論会はまめに出席のようで、金が掛かったのはポスターぐらい、あと少々のように見えました。あとで聞くと、石原伸晃の選挙事務所を借りて、石原伸晃の協力が大だったようです。
要するに、あまり金の掛かるような選挙はしてこなかった。
・・そうすると5000万の金は使わずに済みます。準備した3000万の金も余ったのかも知れません。

次の会見では、(選挙とは関係なく、)個人的に借りた金だ、といい始めました。
・・正直、”おや”と思いました。選挙費用の報告書の不記載という選挙違反の回避の言訳だと思いました。・・・ここから輪をかけて、流れが変化します。

徳田虎雄氏が、なにかを思って金を出した(貸した)のは事実だと思いますが、都政で見返りに、便宜を図ったとすれば証拠が必ず残ります。その立場にないものが動けば目立ちます。ここでは都知事が言うように、見返りはなかっただろうと思いますが、いまや、贈賄や収賄を既成事実とする論調も見られます。もし本当なら、この部分も問題だと思いますが。

個人的に借りた金、の会見以来、次々と矛盾が出てきます。恐らく本人が、事実でないこと、確信していない事柄の弁明ですから、見苦しい、覇気のない会見になってしまうのでしょう。一般の人の生活感覚と乖離した内容が続きます。・・・弁舌鋭く、切り込んでいく猪瀬氏の姿は、どこへいってしまったのだろうか。

最近の新聞と都議会の追求は、何を問題にしているのか、よく分かりません。鞄だとか帯封だとか貸金庫だとか・・・何のための証拠立てで、問題にしているのでしょうか。

最近の会見はもっと悪い。
・・都知事としての給与を一年間分返上して謝罪する・・なんて、言語両断です。人間は生きるのに糊口を凌がなければなりません。都政の仕事を半分ぐらいにして文筆業に精を出すのですか。それでは、都知事に投票した都民も納得しません。

・・・

あのとき、最初に謝ってしまい、罰があるなら受けて、辞任して、再度都民に信を問うてみたら・・・の思いがありました。

上記に書いてある言葉は、猪瀬氏が辞任会見をする直前まで、このブログにアップしようとしていた内容です。この直後に、猪瀬氏は辞任会見をして、この内容はアップしないようになりました。
敢えてここに蔵出ししたのは、やはりお金の遣り取りの部分は、疑問が残ります。疑問は疑問として、潔い説明を聞きたいと思います。この思いは、自分だけでしょうか。

その上で、自分が今でも評価している実績と考え方と姿勢を、お金の遣り取りの疑問と、秤にかけてみて、猪瀬氏の評価をしてみたいと思います。人は様々ですが、人の評価も様々です。全ての人が、平面的短略的な形で評価はしないと思います。猪瀬氏のプラスの部分が多いと思う人は、猪瀬氏の再登場を願うのかも知れません。反対に、マイナスの方を強く感じる人は、辞任を喜んでいるのかも知れません。

時折走ることのある高速道路の、最近のサービスエリアは、昔のと全く違ってきました。場所により”コンビニ”もあります。おいしい”パン”も焼きたてです。この頃は、ドライブ疲れの”休憩所”から、エリア内のしゃれたショップ目的の方も多いと訊きます。道路公団民営化のあとの競争の原理が働いて進化しているように思えます。恐らく、経済的規模も、昔とは比較にならないくらい大きくなっているのでしょう。これは、明らかに猪瀬直樹のお陰でしょう。猪瀬氏本人が言えば、自慢話で嫌みになりますが、ほとんどの人がそう感じていると思います。

時は流れて、既に次の都知事の選挙に動き出しています。元首相が”原発中止”で、立候補するようです。自分には、”脱原発”と”原発中止”の違いがよく分かりませんが、とにかく”危険な原発に電力を依拠しない”世の中になって欲しいものだと思っています。

最後に、暁仙和尚の「親父の小言」から三連発。
・「人には馬鹿にされよ」
・「物を拾わば身につけるな」
・「借りて使うな」
・・・何れも「明日も夕焼け」猪瀬・著の中から・・

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西新井大師

2014-01-12 17:41:09 | 日記

 

西新井大師・・

夢のあと・・・

その鉄道に、駅は一つしかない。・・東武大師駅(東武伊勢崎線に接続)。
その鉄道は、総長1Km。夢のあと・・・。・東武大師線

・・・全線単線である。この路線は、西板線・伊勢崎線西新井駅 - 東上本線上板橋駅・計画のうち、用地確保が完了した用地を使用し、西新井大師(総持寺)参詣者の輸送を目的として1931年に開業した。
夢のあと・・・第二次世界大戦前に完成予定の、西新井駅 - 東上本線上板橋駅間を結ぶ西板線の計画があった。環七通りに沿って計画され、途中に鹿浜、神谷、板橋上宿の各駅が計画された。
しかし・・関東大震災によって計画が頓挫し、やがて大正末期から昭和初期にかけて路線予定地が急速に市街地化してしまい、コスト高騰により実現不可能になる。よって・・廃止。『東武鉄道』は、「発展史唯一の遺憾事」としている。

 

・・舎人ライナー

夢のさき・・・
・舎人ライナー
・・日暮里・舎人(トネリ)ライナーは、東京都荒川区の日暮里駅と足立区の見沼代親水公園駅を結ぶ、東京都交通局が運営する案内軌条式鉄道(新交通システム)路線である。
・案内軌条式鉄道とは、よく分からないが、線路が1本のところを見ると、「ゆりかもめ」と同じモノレール型のようである。
・この地区は、従来都バスしかなく、通勤通学の時間帯は、異常といえる混雑が続いていた。バスの増発では、慢性的な渋滞が解消できる見通しが立たず、それで発案された新交通システムのようである。バスの代わりと言えば、それまでだが、”片側閉じ”の交通網は、どう見ても採算性をよくしない。少し延長すれば、武蔵野線か埼玉高速鉄道と繋がる位置にある。JRや隣接自治体との協議を待ちたいところ・・

 

西新井大師・・
・大師線大師駅から歩いて1分・
・舎人ライナー西大師駅から歩いて20分・
ここに、西新井大師はあります。

 

足が痛い、軽い肺炎、歯が痛い、鼻腔炎・・・とうとう自分まで捻挫。年の暮れは、家族は病気のてんこ盛り。捻挫が病気か怪我かは知らないが、大宮氷川神社の初詣は、人出が多すぎて、厄払いも充分な時間がとれていない。・・そこで、病気治癒の薬師がよかろうと言うことで、車で、西新井大師へ。

             

              

             

ルートは至って簡単。県道1号線(地元では第二産業道路)をひたすら都内へ直進でよい。だが、鳩ヶ谷を過ぎるところから、信号は多くなり、前に進まなくなる。県境を越して都内に入ると(谷在家あたり)道の名前は、同じルートながら尾久橋通りと変わる。道の真ん中に、舎人ライナーが高架上を走る。この辺りから舎人。そのライナーの西大師駅の所を左に2000Mいくと、そこが西新井大師。・・・到着。
・・反省。このルートは、極めて分かりやすいが、時間のロスが多い。かって、都内へ、休日の土日出勤の時使ったルートは、まずR122に出て、川口ジャンクションの所を、首都高の下で走り、尾久橋通りに出て、橋を越してから明治通りに抜けていた。この方が20分は早い。

駐車場 30分¥500   ・・・参考:大宮駅近在20分¥200

1月11日(土) ・・・ 寺は、みんなのもの ・・この思想は、寺というものの創設以来の考え方 ただし境内は参詣客のもので寺の管理    寺の参道は ”みんなのもの” この思想のもとに 、「楽市楽座」は寺や神社の参道で発生した。以来神社や寺は、商業・工業との関係が深い。室町時代、寺で手工業が行われていたという記録が論文に出ていた。人気の初詣の場所の出店の風景 ・・・参道の”出店”は、もう7割り方店じまいで、青いビニールシートを被せている。祭りのあと・・・の風景。

「病退散で、ことしも、つつがないように・・・」とお祈りして。・・・”つつがないように”って、ツツガムシが付かないようにっていう旅の安全のおまじない、なんて変な知識を思い出す。そうか・・・生活するってのも、人生の旅路って事か、と納得する。

 

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猪瀬直樹 ism 4

2014-01-11 14:04:29 | ひとりごと

 ・明日も夕焼け

 

明日も夕焼け・・

あとがき・より・・・本書は朝日新聞の日曜版に家庭欄に「明日も夕焼け」のタイトルで1999年4月4日から同年12月26日まで連載したエッセイに加筆したものである・・猪瀬直樹・・・

当時、朝日のこの連載を楽しみにしていた人は多かった。今は違うが、当時朝日新聞を購読していた自分もその一人であった。しかし、毎回読んだという記憶はない。それが本になったというので通読し、今回改めて再読してみた、と言うわけである。

このエッセイは、「親父の小言」―大聖寺暁仙和尚のことば、を一つずつテーマにしながら、現代風に解釈しなおしたもので、共感を覚えるのも少なくない。それと、猪瀬直樹の経験した時間と空間の風景を絡ませながらのエッセイだから、彼の立ち位置だとか生い立ちだとか家族とか友人とかが見えてくる。まさに、猪瀬論を書くとしたら絶好の資料のようにも見える。ここには孤高の猪瀬直樹は存在しない。むしろ巷によくある、小言を言う「親父」の姿に似た、微笑ましくも小うるさい「親父」の姿のように思える。・・・「どうも僕の世代は、父親の演じ方が下手なのである。全共闘世代とか団塊の世代などと呼ばれて、家父長制度を標的にして破壊の情熱にとりつかれた」・・「不機嫌な時代の生き方を問い直す」・・・

全共闘であった彼は当然ながら、例えばベトナム反戦が、自分の”戦争は嫌だ”という意志と関係なく、善良な市民の作る制度と社会の仕組みが、戦争に加担していくという間接性に、自己否定をしながら、仕組みそのものを標的に上げて、「破壊の情熱にとりつかれた」という時代があった。そのなかに、否定の対象の「家父長制度」もあったという。

その彼が、暁仙和尚の「親父の小言」をテーマにしたエッセイを書いている。それも「家父長」のスタンスでといったら、僕でなくても、”その後”に何があったんだ、と尋ねたくなる。
猪瀬氏は大学を出た後、生活のために「こころざし」と関係のない仕事をすることになる。それは、前章の「ふるさとを創った男」の高野辰之や藤村と同じ道を辿るという、自分の”ミラー”の追認の行為のようでもある。そしてたどり着いたのが、明治大学の橋川文三であったようである。その橋川文三に師事することは何であったのか?

それまでの猪瀬氏を知る人にとって、その後の猪瀬氏の変質は、”猪瀬は変わったナー”という、戸惑い表現になる・・・、これは、猪瀬氏の「家父長」としてのスタンスに顕れているような気がするのだが・・・当たっているのか、いないのかもしれない。


さて・内容のところどころ・

・・武士に武士道があるのなら、商人には商人道があってよい。
「商人というとも、聖人の道を知らずんば、同じ金銀を儲けながら、不義の金銀を儲け、子孫の絶ゆる理に至るべし」・・・これは江戸時代の市井の哲学者・石田梅軒の「石門心学」にあるらしい。石田梅軒を、恥ずかしながら、これを読むまで知らなかった。
これは、”あきないのこと”の章で、「親父の小言」は「小商いものは値切るな」の一節である。猪瀬氏は、”僕の仕事も「小商い」かしら”で結んでいる。

・・次の、”なぜ死んだのか”では
日本長期信用銀行の元副頭取が自殺したことに関して、次の様なコメントを書いている。・・「僕は自分を職人だと思っていたし、今もそうだ。稼ぐけれど、儲けることとは縁遠い。よい仕事が出来たら、その日は満足だ。達成感があればお酒も美味しい。静かな酒でよい。」・・猪瀬氏は、知事選に出た時、仕事と報酬のことをどう思っていたのだろうか、聞いてみたい気がする。

・・”微熱を気にして”は、同時代を歩いたものとして、読んだ。
猪瀬直樹のいう”道草”の時代の一コマの風景である。猪瀬の一つの原点かも知れない。親父の小言の「人には腹を立てるな」とどう結びつけているのかは分からない。

・・”紙一重の死に神”
これは大学時代の、周囲にいた人達が死んでいったことを綴った内容。自殺した彼、ヒマラヤで死んだ山岳部の彼、”蝶を求めて”与論島にいって、海で死んだ彼、・・・命をかけると不注意と・・・そんな内容と太宰治の自殺の謎解き、あまり結びつかない気がするが・・こうして「ピカレスク太宰治」は生まれた。・・・ちなみに猪瀬氏の太宰治論は”優れている”と思っています。ここには親父の小言の教訓めいた言葉はない。それとなく文中に配した「威張るな」がそれに当たるのかも知れない。
・・・この章は、時代を共有した自分の影も宿るのかも知れない・・

・・”無意識の死生観”
かって、童歌の”とうりゃんせ”の謎について自分なりの回答を作ってみた。「三芳野神社」に行った時のこと。このブログのどこかに書いた記憶がある。”かごめかごめ”も謎めいた童歌。この章には、日本人の死生観=”輪廻転生”と”陰陽道”のことが書かれている。”かごめかごめ”はそんな日本人の死生観から、謎を読み解いている。・・・そういう謎の解き方もあるのか、と思う。それと同時に、日本人の中の、土着した観念の基に、”親父の小言”や”輪廻転生”や”陰陽道”に底流するものがあるのではないか、底流するものの中に日本人の常識があるのではないか・・と。

・親の小言と冷酒は後で効く・ようだ。

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もともと自分は、人にレッテルを貼ることは好まない。レッテルを貼れば、それで人物評は固定化されて思考停止に陥り、様々な人物特有な特質を見逃すことになり偏見に繋がると思っている。脳が枯渇してしまうのだと信じている。
猪瀬氏のことを”右翼”だという人がいる。確かに、彼の”ウェット”の部分は、文学的であり、ナショナリズムを否定しない部分であり、扱う材料は、右派の使う表現は多そうである。しかし、彼の著作の文章を読む限り、そんな要素はない。従って、自分は、”そうは思わない”。ただ、猪瀬氏が橋川文三に師事したと言うことは、当然「日本浪漫派批判序説」を読んでいたことになる。すると、猪瀬氏の著作の三島由紀夫論も見なければ、猪瀬氏の”右派”の傾向は無いとは言い切れないかも知れないが、自分は読んでない。
彼を、”新左翼崩れ”、あるいは”左翼崩れ”という人がいる。経歴からみれば、その通りだが、猪瀬自体もこれを否定はしない。だが、これも自分は”そうは思わない”。全共闘時代の少し前に、左翼の骨格をなした理論的骨組みは既に崩壊していた。それでも、彼等の呼び名に、旧体制の層(マスコミなど)は”新左翼”と名付け、団塊の世代はその呼び名を甘受したに過ぎない。つまり、呼び方、呼ばれ方が彼の全てを顕してはいないのだ・・・

そんな自分が、敢えて猪瀬氏のことを、「ウェットな近代合理主義者」というレッテルを貼っている。正直当たっているかどうか分からないが、自分が読んできた限りの彼の文章からは、歴史を重んじながら、判断の基準は、近代合理主義のように思えるからだ。言葉尻や態度は、しばしば傲慢で強引でかなり尊大なところから、ラジカルと見られがちだが、判断はいたって常識的な所の落ち着いている。・・適当な言葉が見つからないので、ここは”レッテル”を貼らしておいて欲しい。

未だよく分からないのが、彼の政治的主張のスタンス。少なくとも石原慎太郎のもとで副知事をして、そこから政治家猪瀬直樹が生まれたこと。こうしたエッセーへの、いくつかの共感と石原慎太郎は、どうも結びつかない。この結びつきが方便としたら、いやらしい。作家猪瀬直樹は政治家猪瀬直樹をどう見ているのだろうか。

さて、ここまで見てきて、”手のひらを返す”ものかどうか、手のひらを見つめる。

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猪瀬直樹 ism 3

2014-01-09 20:03:43 | ひとりごと

・・・唱歌誕生 ふるさとを創った男 

 

ふるさとを創った男・・

日本人なら誰でも知っている文部省唱歌『故郷』『春が来た』『紅葉』などを創った高野辰之、岡村貞一の物語です。

・・高野辰之 ・・岡村貞一


『故郷』『春が来た』『紅葉』などの唱歌が、高野辰之、岡村貞一の作詞作曲だという証拠はなく、実際に文部省唱歌とだけ記載されているようです。それがいくつかの実証と、高野・岡村の当時の職務と重ね合わせて、何時の頃からかこれらの作詞作曲という伝聞が広がった様です。・・・それを踏まえて、ここで語られるのは、『志を果たして、何時の日にか帰らん』と詠った無数の『高野辰之』、『岡村貞一』の物語のようです。
この物語に、島崎藤村が絡んできます。藤村は、最初詩人として出発します。『千曲川旅情の歌』から始まる、『椰子の実』などの新体詩人・籐村です。

・・島崎藤村


このふたり、藤村と高野辰之を対比しながら、『若菜集』などの詩集で文学史上に名を遺した籐村と、唱歌として歌い継がれる『故郷』を遺した文部省官吏・高野辰之を鮮やかに描いています。ともに信州の出身です。当初藤村は、有名になったが詩人では生活できず、借金で生活を維持しながら3人の娘の死を代償に、教員で糊口を拭いながら『破戒』を書き、小説家として再出発しようします。大作の小説「夜明け前」が執筆されるのはこれから後のことです。一方、師範学校卒の故に、高等官になれず鬱々と国定教科書の編纂に携わる高野辰之。ふたりのこの前提の上で・・『志を果たして、何時の日にか帰らん』と思い、『夢は今もめぐ』る物語です。
唱歌の詞のほうが高野辰之なら、曲の方は岡村貞一です。鳥取の没落士族の子に生まれ、やがて、故郷を捨て岡山のキリスト教会で育ちます。東京音楽学校を卒業し、母校の教壇に立ち、終生日曜の教会のミサで、オルガンを弾いた実直な音楽家です。
このふたり高野と岡村が出会うことで、数々の唱歌が生まれたという伝説。この伝説に籐村を配し、明治・大正という時代に生きた三様の人生を描きます。
・・・でも、不思議なことに、高野辰之の「詩人としての資質」の部分が見えてきません。これらの唱歌の歌詞の部分は、詩についての読解力の乏しい自分にも完成度の高さを感じさせるものです。ここは、はて?・・と思ってしまいます。

故郷・・

故郷 - YouTube

確かに、作詞作曲が誰であっても、いい曲ですし、懐かしく思い、記憶も鮮明です。

紅葉・・

紅葉 唱歌 NHK児童合唱団(音楽&風景) - YouTube

音楽の教科書に、作詞作曲の記載が無く、文部省唱歌とだけ記載されていたそうです。記憶が曖昧なので、そう言われればそうかも、と思います。

朧月夜・・

文部省唱歌 朧月夜 - YouTube

春が来た・・

春が来た (杉並児童合唱団) - YouTube

春の小川・・

春の小川 - YouTube

 

島崎藤村はともかく、高野辰之や岡村貞一の”隠れた部分”を嗅ぎ分けて実証調査し、その部分に光を当てて顕在化してくるやり方は、日本凡人伝の手法のなかの、「インタビュー」ではない実証調査のやり方で、方法は若干違うが、それが猪瀬ismなのだろう、と思います。

正直これも面白かったし、懐かしい唱歌の、今まで知らなかったことを暴き出したことは、猪瀬氏の評価の部分に思えます。

それと、”ウェットな近代合理主義者”の”ウェット”な部分が、ここでは少し滲み出ています。文学的な所は、少なからず”ウェット”なのかも知れません。 

作家猪瀬直樹はいま、政治家猪瀬直樹をどう見ているのだろう?

 次は、「明日も夕焼け」について書いてみます。

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猪瀬直樹 ism 2

2014-01-09 01:23:55 | ひとりごと

前回、猪瀬直樹の考え方・・ism・・は、彼の書物から探るのが適当かと思われます、と書きました。でも猪瀬の本の、あまりよい読者でもないとも書きました。したがって、極めて独断的で偏見のある感想と猪瀬評になるのではないかと思っています。

 ・・・日本凡人伝・唱歌誕生

猪瀬の書物は数が多いが全て読んだわけではありません。というよりも、目を通したのは半分以下。

彼の出版した本を列挙すると次の様になります。


『天皇の影法師』
『昭和16年夏の敗戦 総力戦研究所"模擬内閣"の日米戦必敗の予測』
『日本凡人伝』
『死者たちのロッキード事件』
『日本凡人伝-二度目の仕事』
『あさってのジョー』
『ミカドの肖像』
『死を見つめる仕事』
『土地の神話』
『ノンフィクション宣言』
『ニューズの冒険』
『東京レクイエム』
『今をつかむ仕事」
『東京、ながい夢』
『ふるさとを創った男』
『欲望のメディア』
『ミカドの国の記号論』
『ニュースの考古学』
『迷路の達人 猪瀬直樹エッセイ全集成』『僕の青春放浪』
『禁忌の領域 ニュースの考古学2』
『黒船の世紀 ミカドの国の未来戦記』
『交通事故鑑定人S氏の事件簿』
『ニュースの考古学 3』
『ペルソナ-三島由紀夫伝』
劇画原作『ラストニュース』
『ニッポンを読み解く!』
『瀕死のジャーナリズム』
『日本国の研究』
『マガジン青春譜』
『続・日本国の研究』
『明日も夕焼け』
『二十世紀-日本の戦争』
『ピカレスク-太宰治伝』
『小論文の書き方』

 

あらっぽい感想・・・

この中で小説っぽいのはあまり面白くなかった。取材して書いた、分析的な代表作は、文章が硬質で読みづらかった。

その中で、何とか読んだのは、『昭和16年夏の敗戦 総力戦研究所"模擬内閣"の日米戦必敗の予測』、『日本凡人伝』、『ふるさとを創った男・唱歌誕生』、『ピカレスク-太宰治伝』、『明日も夕焼け』ぐらい・・・・・出世作『天皇の影法師』や『ミカドの肖像』は読むことは読んだが、・・・これが、先の感想で、かなり読みづらく、あまりいい印象はない。読んだ本は、半分どころか三分の一にもいってないようだ。

そのなかで、・

日本凡人伝・・
この本は、かなりいいと思う。凡人伝とうたっているが、凡人の中の非凡な部分をかなり鋭くえぐり出しているように思う。この非凡な部分のえぐり出し方が、猪瀬の優れた手法のように思う。

内容は次の様になる・

*”田植え”の秘密
・・スジ屋・東京北鉄道管理局運転都列車課長山崎喜三郎氏の場合

*オンボーの時代
・・穏亡アナウンサー・ラジオ日本制作第一部長大林晃氏の場合 *穏亡という言葉はそれまで知らなかった。

*去れどわれらが日々
・・都バス車掌・東京都交通局目黒自動車営業所車掌丸山絹子女史の場合

*キョーフの臭才感覚
・・調香師・株式会社資生堂研究所香料研究室主任研究員上野山重治氏の場合 *調香師という職業があることを知らなかった。

*火事場インタヴュー入門
・・消防調査員・東京消防庁予防部調査課原因調査係主任渡辺政彦氏の場合

*ロッキード事故
・・元丸紅社員・株式会社東通取締役開発事業部長坂篁一氏の場合

*11506頭のブルース
・・捕鯨砲手・日本共同捕鯨株式会社捕鯨船砲手背古昌尚氏の場合

*乗りかえ哲学
・・地下鉄車掌・帝都高速度交通営団赤坂見附駅務区主席助役柿尾雅夫氏の場合

*いつもの身の上話
・・都はるみマネージャー・株式会社サンミュージックプロダクション第一制作チーフマネージャー横山雅良氏の場合

*俺の消しゴム
・・トラブル処理係・株式会社講談社編集総務局編集総務部長小松道男氏の場合

*嗚呼、ルネッサンス
・・億ション販売人・東高ハウス株式会社取締役社長室長山田忠氏の場合

*明るいナショナリスト
・・ウォークマン開発者・ソニー株式会社PPセンター部長黒木靖夫氏の場合

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さて、この本は1980年初頭の「スタジオ・ボイス」に連載されたものを書籍化したようです。・・・「『スタジオ・ボイス』には、編集部によるインタビュー記事も組まれているが、気負いや衒いがなく、人間に対する態度が自然で、同時に複眼的であり、誌面全体に時代の進歩を思わせる瑞々しい感覚が溢れている。『日本凡人伝』の成功は、たぶん、この媒体のそうした特性に負うところが少なくない」(引用・新潮文庫『日本凡人伝』解説)
彼は文庫版担った時、「あとがきにかえて」で猪瀬氏はこう語っている。「僕は、偉いやつ、偉くないやつ、なんて観念がないから。初対面で名刺もらって、うっかり名刺入れにしまっちゃうと相手の名前を失念して、仕方なしに『あなたはーー」を連発する破目になることもあるんだ。それでもインタヴューに支障がないのは、相手を肩書きで診てないからです」・・・猪瀬氏の態度は「横柄だ」とか「ぞんざいだ」と批判されることがたまにあるが、1985年のこの発言をきくと、それは彼がひとを見極めるためにあえて意図してきたことのようにも思える。そして、こうも言っている・・・「ワケわかんないやつが出てる。それが『スタジオ・ボイス』の良さだよ」
・・・初めて会ったその場でどこまで内側に入り込めるか。『日本凡人伝』の新しさは、その取材対象だけではなく、対象との距離感にある。時には飛び込みもあったインタヴュー。テキスト化された言葉の行間に、交わされた会話の温度が伝わる。・・「相手側にうまく入ってみればおもしろい。内面がね、けっこう言葉が出てくるんだよ、突っ込んでいくと」。・・世の中には、陽のあてられていない、まだ見ぬドラマがある。そこに光を照射した。・・「たまたま葬式中継のアナウンサーがいるんで話してみようかとなった。取材終わった後に決めたんだよ、『これシリーズでやろう』って。タイトル考えて。おもしろいものをやれる空気があった。はじけるような部分があったんだよ。『スタジオ・ボイス』ってのは。まだ有名になる前のワケわかんないやつが出てたよな。先物買いで」。
・・・ここに出てくるのは、政治家・猪瀬直樹ではなく、探究心に満ちたまさしく作家・猪瀬直樹だった。   ・・・「あとがき」・「解説」などを借りて、まとめてみました。

この中でどれもが面白かったと言えば、個人的には、「田植え・・」と「キョーフ・・」と「ロッキード・・」であるが、読む人によって様々で、たぶん個人差があると思う。それよりも、凡人の中の”非凡さ”を嗅ぎ分けて顕在して表現化する感性というか、手法というか、これが猪瀬直樹の特質のように思う。

 参考 .中日新聞:中日春秋:コラム(CHUNICHI Web) (同内容・東京新聞)

 http://www.chunichi.co.jp/article/column/syunju/CK20131220020

特に「ロッキード事故」のインタヴゥーの所は、読み直してみて、猪瀬氏の今回と重ね合わせて、皮肉っぽくて感慨が深かった。

・・・お金の遣り取りが無くても、機種選定はロッキードに決まっていた。にもかかわらず、時の首相と米国の航空機会社の間で、儀式としてのお金の遣り取りがあり、無関係の筈の機種選定が、お金の遣り取りと絡んでしまったそうで・・・こんな危うい歴史の事実を知っている筈の猪瀬氏が何で・・・と思わずにはいられない。

読んでみると、猪瀬直樹の判断基準は、ウェットな面を持った近代合理主義者のようである。これは、以前と変わっていないように思えます。
彼は、しばしば「尊大」とか「こわもて」のように評論されますが、本田さんの解説だと思いますが、・・・猪瀬氏の態度は「横柄だ」とか「ぞんざいだ」と批判されることがたまにあるが、1985年のこの発言をきくと、それは彼がひとを見極めるためにあえて意図してきたことのようにも思える・・・と、意図した演技性のスタンスの面を持つようです。

作家猪瀬直樹はいま、政治家猪瀬直樹をどう見ているのだろう?

・・・次章は、「ふるさとを創った男 唱歌誕生」

 

 

 

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猪瀬直樹 ism

2014-01-07 19:29:24 | ひとりごと

ブログで政治的なことは書かない積もりでしたが・・・最近、どうも方向が”おかしな”向きに進んでいるようで、いやな感じがしてきた。

それで、今までと少しだけ変えてみます・・・・

 

  ・・・猪瀬直樹(・フェースブックから)

猪瀬直樹が都知事を辞めて暫く経った。最初は、猪瀬氏のことを書きます。・・・なぜ書くかは、少し個人的なこともあります。
5000万円の借入?の説明の曖昧さで、というより”嘘”っぽくて非難され、猪瀬都知事が辞職し、50億円の費用が掛かる都知事選が行われるという運びになりました。「5000万」と「50億円」の差を”無駄使い”と言うつもりはありません。そして今、お馴染みの顔ぶれが、都知事候補として名前が上がり始めています。・・・が、しかし・・・どうもしっくり来ない・・・のは自分だけでしょうか。
都民ではないので、都知事に誰がなろうと直接関係するわけでもないが、彼の独特の”切り込み方”と比較すると色褪せて見えてしまいます。何故なのでしょうか?・・・・・
別に、猪瀬氏の借入金のことがいいことだと言っているわけではありませんが・・・。

猪瀬氏が、5000万円問題でマスコミで話題になる前は、「エビ」偽表示問題が賑やかだったようです。車エビなどの代わりに「バナエイエビ」を代用し、表示は車エビのまま、というやつ。自分は、本物の味や姿を熟知しているわけではなく、真偽のほどは判別も付かないような一般庶民であります。「エビ」偽表示問題が、いいことではないにしても目くじらを立てるつもりは余りなかった。まあ・・糾されたからいいのかなあ・・ぐらい、の思いでした。・・それより少し前は、ある司会者の息子が悪いことをしたとして、親である司会者が責任を取る形になりました。当然悪いことをした息子は、それなりの罰が必要だと思います。ですが・・・成人して大人になった息子の責任を、親が取らなければ許さないような雰囲気があったようです。悪いことをした息子の父親が、もし有名人でなかったら・・・と環境を変えて見ると、違った景色が見えてきそうです。それは有名税かも知れませんが、見ていて気分が悪くなってきました。
どうも最近の傾向は、瞬時の場面や事柄を切り取り、平面的に評論して、深く洞察しないで事象を膨張させてしまうようです。・・・たしかに、茶の間で見ている人は、ドラマチックで面白いのですが・・・。こうして次々と事象は流れていきます。

元の戻ると、猪瀬直樹は、都知事になる前何をやったのか、都知事として何をやったのか、あるいはやらなかったのか・・・複眼的な視点で、プラスとマイナスを見ることが必要だと思います。

これは、猪瀬直樹が道路公団民営化の時、彼の暴き出す諸問題に拍手を送った人達、あるいは、彼一人の力ではないにしても「オリンピックを日本に誘致した」実績に感激した人達、日本人の全てとは思いませんが、・・・オリンピックの誘致はそれほどとは思いませんが、道路公団民営化の時は拍手を送った人達の中に自分はいます。それを、手のひらを返すように・・・とは簡単にいくものでもありません。もし「手のひらを返すように」ということであれば、それなりの、頭の中の整理が必要です。・・所謂けじめというやつ。

猪瀬直樹の考え方・・ism・・は、発言にも顕れているのでしょうが、これは録音でもしなければ消えてしまうので、彼の書物から探るのが適当かと思われます。といっても、猪瀬の本の熱烈な支持者でもなく、余りよい読者でもない自分が、複眼的に評価できる訳でもないし、全体評価をするつもりもありません。ただ自分が読んで面白かった、良かったという部分からの極めて独断的な感想の猪瀬評になると思っています。・・・これが、前段での個人的なことの一部です。

 

 

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あけまして、おめでとうございます

2014-01-01 05:58:07 | 日記

 

   ・・謹賀新年

  馬の背で船漕ぎ出すや春の旅  ・漱石

 1

 ・・金讃神社 

 ・・聖神社・(別称銭神社・) ここに参詣すると、お金に困らない、とか

 ・・秩父神社 

1,2,3 の神社は、昨年参詣しました 

 

 ・・大宮氷川神社

 

初詣は、武蔵一宮・大宮氷川神社・に行ってきます・・・

・・・・・

大宮第2公園の駐車場が、今日は開放されています。・・・氷川神社へは裏口の方が近いので、当方は歩きですが、車での参詣者と一緒のぞろぞろ・・・競輪場脇、ナック5サッカー場脇を通って、大宮公園、氷川神社へ・・・裏口からと正面からとの合流点から、人、人、人・・・時折堰き止められながら、一方通行、押されて拝殿前に留まる時間約一分、押されながら排出されました・・・

  

あまりのあっけなさに、大宮公園で、青木昆陽の碑のところによって、デジカメで撮影・・・

  ・・甘藷先生の碑

”くりより甘い十三里”・・川越というのだから、”さつまいも”は川越の特産と思い込んでいましたが、昆陽の飢饉対策は、”足立のさと”=大宮近辺だったようです。それが、いつの日か、荒川を渡り、富のさとが”さつまいも”生産の中心となった。糖度の高い”べにあずま”というサツマイモの高級品種は、浦和・田島が発見の場所ですが、現在の栽培は富のさとのみとのこと・・富のさとは三芳町にあります。

武蔵一宮、大宮氷川神社の初詣は、今年も、200万人を越すのでしょうか・・・

 

 

 

 

 

コメント (4)
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