勝手に思うままに 榊原秀光のブログ

日頃 思っていることや感じたことを思うままに書きます。

勝手に思うままに 28

2009-12-22 10:13:23 | 平和
「私は困った人を見るとほっておけないんだよ」その文章がとても印象的であった本「ホタル帰る」。私は、知覧へ行くにあたってその本を読み上げ旅に出かけました。読んでいる途中にも幾度も号泣してしまい、その本の中の出来事は胸に突き刺さりました。
昭和4年に開業した「富屋食堂」は、「軍の指定食堂」になり、トメさんの優しい人柄、どんな人に対しても決して分け隔てしないところが若い兵隊さんの心を和ませたんでしょう。最初は「おばさん」と呼ばれていたトメさんが、だんだん「小母さん」と呼ばれるようになったといいます。昭和19年、ついに「神風特別攻撃隊」が編成されることになります。悲しいことに知覧飛行場は、その出撃地として選ばれてしまうんです。
 鳥濱トメさんが「特攻の母」として、そして戦後は「アメリカ兵の母」として贈った生涯について書かれている。トメさんのみならず、彼女を取り巻く兵士たちの模様が生々しく書かれていた。

勝手に思うままに28 生還

 板津さんは民間のパイロット養成所出身で、戦局の悪化に伴い陸軍を志願。特攻隊員に指名され鹿児島県の知覧基地を出撃したが、エンジントラブルで生還した。再出撃の機会に恵まれずに終戦を迎えてしまった。
板津さんは、仲間に済まないという気持ちと同時に‘生き残り’と言う声にならない通罵の声が飛んでくるのにも耐え切れなかった。そんな中で、トメさんに会いにいった。「生き残ったと言うことは、残されたと言うことだよ。神様があんたをこの世に残してくださったと言うことだよ。残されたと言うことは、なにかやることがあるから残されたんだよ。神様があんたに、やりなさいとおっしゃてる仕事があるはずなんだよ。世間が何と言おうとも、かまうことはないよ。何かやらなければならない仕事があるはずだよ。よく考えてごらんなさい」と、トメさんは慰めた。

板津さんはこの言葉に天の声を聞き、特攻の死は崇高な死であり、これを風化させてはならない。と彼は誓った。

 戦後は名古屋市職員として働きながら、特攻隊員の遺影や遺書を探して全国行脚。定年退職後の84年、知覧特攻平和会館の初代館長になり、退任後も各地で講演活動を続ける。